片葉と河童

田辺達也

 indecision芥川龍之介にならい、片葉と河童は、どっちも「カッパ Kappa」と発音してください。

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 NHKテレビの金曜時代劇『茂七の事件簿3』がはじまり、第1回は《片葉の芦》が放映された。原作は宮部みゆきの『本所深川ふしぎ草紙』(新潮文庫版)から。彼女はこの作品で吉川英治新人文学賞(1992年)を受賞した。

 江戸は本所駒止橋の上で寿司屋の大旦那が殺されたことから始まる。

 江戸後期(1863年)の「本所繪圖」(現在の住宅地図)には、両国橋の近くに駒留橋が載っている。両国橋は九十六間(173m)、対し、駒留橋は三間(6m)ばかりの小さな橋だったと思われる。

 ここの岡っ引の親分が回向院(えこういん)の茂七、江東の本所深川一帯を仕切っている。高橋英樹演じる茂七親分は貫禄十分のはまり役だが、ここでは芦の草、それも奇妙な片葉の芦が主役である。

 片葉は河童に通じてミステリアス。推理作家らしい表題の付けかただ。

 このシリーズは、捕物とはいえ、むごたらしい場面が少ない。思いやりやいつくしみの心をていねいに描きながら、真実究明に力が注がれる。《片葉の芦》でも、下町の日常を温かく、細やかに、健気に生きる若い男女の行く末を穏やかに見守っている。

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 それはそうと、深川の片葉の芦だがー

 原作から、片葉の芦は「両国橋の北にある小さな堀留に生え」ており、「この堀留まで片葉堀と呼ばれている。風向きのせいなのか、流れのためなのか、それとも日ざしの向きのためなのか。ともかく、ここに生えている芦はみな片葉である。片葉の芦は本所七不思議の一つである。両国橋の北にある小さな堀留に生える芦の葉がどういうわけか片側にしかつかないことから、そう呼ばれるようになった。」

 本所深川は隅田川と荒川にはさまれている。堀割と中小の川筋がくもの巣のように走り川べりは葦の叢(くさむら)だったにちがいない。

 葦(あし又はよし)は、笹の葉形をしたイネ科の草、水辺に自生している。歌手の三浦洸一も、場所はちがうが、《流れの船唄》で「葦の葉かげによしきり鳴いて」と唄っている。

 この背高草の芦原は八代の湿地にも広がっていた。小さいころから見慣れた風景で、両葉か片葉かを確かめるもの好きはいなかった。田舎では、茎を切って乾かし、簾(すだれ)に編んで、日よけに使っていた。

 茂七親分の《片葉の芦》には河童は出てこない。しかし「カッパあし」そのものが七不思議のひとつだけに、すでに河童の気配は濃厚だ。

 文庫版第3話の《置いてけ堀》には早速河童が出没し、若い女をびくつかせたり励ましたりしている。魚を釣って帰ろうとすると芦原の茂みから「魚を置いていけ」という声が聞こえる。河童ではないか? の噂が広がった。

 こうして、「河童?」の気配と「置いてけ」がつながって、その堀割は、いつの間にか《置いてけ堀》と言われるようになったという。

《錦糸堀》がもとの名と聞いている。

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 ときに、徳川家康の江戸開府から四百年、河童ゆかりの名所と水物語は、《置いてけ堀》のほか《河童橋》《かっぱ寺》などたくさん残っている。東京都民の日のシンボルも、ついこの間まで河童だったのに、余り知られていない。河童を都民のシンボルに決めた都議会の河童論争が、大家の隠居と熊さん八さんのかけ合いみたいで、これまたおもしろい。

 都民の日のバッジの絵柄は、お酒「黄桜」のCMでおなじみ、「お色気カッパ」の小島功が描いている。

 残念ながら、東京でも、小さな堀割はほとんど埋め立てられ、今は片葉堀(錦糸堀)も残っていない。しかし河童族は元気だ。「おいてけ堀かっぱ村」のほか、浅草、江戸川、隅田川、日本橋、銀座、石神井など十いくつ、相変わらずのにぎやかさとパワーを競っている。さすが、水と河童とお祭りの都である。

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 東京の「おいてけ堀」から、色麻の「川童さんと片葉の芦」に飛躍する。

 町名が変わっている。十中八九人が、色麻を何と言って良いか首をひねるか、つい「しきまま」と呼んでしまう。「しきま」は「色魔」に通じるので、地元にとっては迷惑なはなし。

「しかま」と呼んでください!

 宮城県色麻町は、「磯良神社(おかっぱさま)と川童(かっぱ)さんと片葉芦、河童のゆるキャラ・活平くん」で町おこしをすすめる、東北の雄である。鈴木省司町長は、かって一九九一(平3)年、第3回全国カッパ・ドン会議出席のため八代に来訪されている。 ぼくが色麻町を訪問したのは、その二年前、一九八九年三月だった。「おかっぱさま」の磯良神社を訪ね、神官・川童嵩(かっぱ・たかし)さんから河童の言い伝えを聞き、木彫りのご神体も拝顔した。

 磯良の神のいわれ・河童の言い伝えは、平安時代初期のころ、天皇方の武将・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)のころ始まったようである。

 この一帯は、むかし、沢沼池だったと思われる。この辺りで、河童(先住民アイヌの民衆)と田村麻呂(京都朝廷軍)の決戦が展開される筋書きで、田村麻呂に従い河童をしのぐ達者な泳ぎで軍功をたてた栄誉に「川童」姓が与えられたという。

 片葉の葦の由来を記す標柱の立つ境内に案内された。

 片葉芦のくさむらは、アイヌの怨念を秘めてか、寒風にさらされ斜めに耐えていた。

 同行した役場の職員さんは、「磯良神社の宮司さんの姓は川童(かっぱ)です。日本広しと言えど川童姓は一人しかいません。そして片葉芦は色麻にしか生えない河童芦です」と胸を張った。ふるさと自慢・マチ興しの上手なPRである。

「河童」と「片葉」は同音のカッパ、遊び半分のごろ合わせにもみえる。

 ぼくは「川童」姓をペンネームと思い、磯良神社の川童さんにお会いした。

「私は川童(かっぱ)です」といきなり言われても、大抵の人は眉につばをつけるはず。 向こうはそう来ると承知の上か、住民票の写しを準備していた。住民票から正真正銘のカッパさんが証明された。用意のよさにも驚いたが、確かに稀有の姓だったのだ。

 そういう訳で、そのときは「片葉芦」も色麻固有の河童種と思いこんでしまった。

 宮部みゆきの作品で色麻神話は崩れたかにみえる。

 しかし、色麻町には片葉の芦が今も確かにある。しかも町ではこれを大切にしている。
 このことが大事なんだ。色麻が河童の本家を吹聴するだけのことはある。

二〇〇三年七月