東京都議会の河童論争

田辺達也

 東京都議会でH議員が、突然、こう切り出した。
「河童(カッパ)はお化けといわれる。何をしでかすかわからない。お化けが何で東京都民の日のシンボルなのか? 当議員はしっくりこない。そう決めた理由を説明せよ」
と執行部に迫った。
 河童が都民の日のシンボルになって23年後、1982(昭和57)年3月13日のことであった。
 思いもよらない質問にみんなきょとん。ほんの一時、静かになった。
「何を今更」という白けた気分があったかもしれない。が、つづいて、爆笑と拍手の渦が議場に広がった。

都民の日は10月1日である。その日のために毎年8月1日から記念の河童バッジが売り出されていた。プラスチックケース入り、白青赤黄緑の5個セット。
 都民バッジは、太田道灌(おおた・どうかん、室町時代後期の武将)の江戸築城5百年を記念する「大東京祭(昭和31年)」から始まった。
 3回までは現代彫刻の父といわれる朝倉文夫。この人は九州のカッパ族である。
 河童のバッジになったのは第4回から。「子供たちに親しまれる」キャラクターをということで始まった。いわばユルキャラのはしりである。担当したのは、アイドル河童の元祖になった清水崑である。1950年代の河童ブームをリードした崑さんも九州出身である。崑さんの死後、小島功が引き継いだ。功さんカッパは「K酒造」のCMで一躍有名になった。
 都議会の質問は落語長屋の掛け合いのようだが、当のH議員は面白半分の質問をしたわけでもなかった。
 対する執行部は都生活文化局長が答弁に立った。
「昔、隅田川の河童が、水害で流された人々を助け、橋を架け替えたと伝えられています。河童は、義民であり、水難防除の神様であります」
 これで一件落着している。

 ここに登場する伝説の極めつけは、浅草のかっぱ寺(曹源寺)の入り口にある掲示板にも紹介されている。太田道灌以来の古いいわれのお寺さんである。
 19世紀初め、文化年間のこと。
 浅草の合羽屋喜八(通称・川太郎)が住民の苦しみを見かねて、私財を投げうち、付近の水路工事を始めたところ、その頑張りに感動した隅田川の河童が、夜ひそかに現れて工事を手伝ったので、吉原・合羽橋・蔵前を通って隅田川を結ぶ難工事がみごとに完成したという美談である。
 区の掲示板には、「この不思議と、この河童を見た者は運が開けたと伝えられ、付近繁栄の義人川太郎とともに、河童を福の神として当寺に祭られた。台東区」と書かれている。
 合羽屋川太郎と隅田川の河童がつくった堀割といわれる水路は見えず、コンクリートで覆われ、アンキョウの上の「かっぱ」名の町並みにその面影をかすかに残すだけである。
 今は浅草観音さんから西浅草の東西に「かっぱ橋通り」(門前横町)、南北に「かっぱ橋道具街通り」(問屋街)が賑わっている。沿道には立派な河童像もある。商店街の一角は、舗装のタイルも電飾看板もみんな河童。浅草の画家萩原楽一さん描く可愛い河童のカレンダーにも心が和む。
 花のお江戸は昔も今もカッパ天国。
 この地の伝説を伝えるマチ興しのリーダー、浅草かっぱ村の村長さん森本佳直さんは健在である。

2012年7月26日

河童なら川へ、海へ

田辺達也

 校内プールの普及は子供の競泳技術とスピードを格段に進歩させました。
 プールは必要、競泳技術も大切です。でも、水の冷暖、波の高低、風の強弱、すべてに変化の少ないコンクリートの巨大な箱の中の泳ぎは、小鉢の中の金魚の泳ぎとあまり変わりません。泳ぎが重視されていると言えないでしょうか。
 だから、いまの子供は川や海に行くとこわごわになり、どうかすると、プールの覇者さえおぼれやすいのです。
 どうして?
 子供が自然を知らず、環境の変化に対応できないからです。これは偏差値・ツメコミ主義で試験技術にだけ長けた子供ほど、実社会では挫折しやすいと言われるのと似ているように思います。
 子供が川に寄りつかなくなって久しくなります。学校が親が、「川に近づくな」と言って、遊泳禁止措置をとり、子供を河川から完全に遮断した結果ではないでしょうか。
 川や海へのかかわりが薄くなると、しだいに川を大切にしなくなります。そこを単に家庭や工場の排水口とみなしたり、あるいは、大きなゴミ捨て場と勘違いするようにならないでしょうか。こうして長い間に汚染が広がりドブ川と化し、埋め立てか暗渠の発想も安易に生まれます。
 川への愛と畏敬は、ひとが川に近づき、漁撈、遊泳を積み重ねる日常的な一体感から始まります。たのしい思い出、おそろしい思い出を積み重ねて、川としだいに仲よしになるのです。
 釣り糸をたらしたり、水中に潜ったりして、川の深さや形状や流れを、瀬や淵、日中と朝夕の水温の差を、魚類の習性を、そして四季の変化を知るようになります。二、三回おぼれかかってたくましくなり、また自然への畏敬の念もわくのではないでしょうか。
 いまは大人も川に寄りつきません。だから、子供だけを一気にそこに近づけることには無理があるかも知れません。10年、20年の計画で、川のすみずみまで知ってもらうようにしたいものです。

2012年7月

映画 『愛しの座敷わらし』をみて

田辺達也

 映画「HOME 愛しの座敷わらし」をみました。実は題名に牽かれて行ったのです。      

 この作品は、3・11大震災の、被災地と被災者への応援歌になっている、と思いました。

 高橋家の3世代5人家族が、お父さん(晃一さん)の転勤で、東京から岩手へ引っ越し、築二百年の「曲がり屋」といわれる、むかし人馬一体の暮らしだった、ばかデッカイ古民家で、新しい暮らしをはじめるのですが……。

 晃一お父さんは、不慣れな顧客開拓の重圧からか。史子お母さんは、突然の田舎暮らしからか。中3の長女梓美さんは、転校の不安からか。ストレスがたまって、お互いの気持ちが乱れ、新しい生活はぎくしゃくします。そして、夜な夜な、不思議な気配を感じて、怯える、てんやわんやの大騒動も始まるのです。意外、物怖じせずにしゃんとしていているのが、澄代おばあちゃんです。物の怪といち早く仲良しになり、里の子供たちにもすぐ馴染むのが、小学五年生の智也君です。

 村人のはなしから、その正体は、古民家に住みつく小童精霊=座敷わらしでした。人には危害を加えないばかりか、座敷わらしのいる家は繁栄するそうで、ほっとします。

 どたばたはあったものの、晃一さん一家は、山村の魅力を実感しはじめ、難解な方言や隣近所とのつきあいにも慣れていきます。

 大都会の生活で失われつつあった対話が、囲炉裏を囲む暮らしのながで、次第に回復し、家族の絆が強まっていったのです。清々しく、温もりを体感するドラマでした。

 ロケは、遠野をはじめ岩手県内数ケ所で行われたようです。東北の自然をジオラマ風に楽しむ余録もありました。

      *

 この映画は題名のとおり、ファンタジックなホームドラマですが、切り口のやさしい社会派作品の仕上がりにもなっていました。座敷わらしをキーパーソンに、その由来にまで深く立ち入り、ていねいに描かれているからです。

 座敷わらしは、岩手県(を中心にした東北地方)の精霊で、旧家の奥座敷に出現し、家の繁栄を守護するようです。童形で、顔が赤く、おかっぱ頭をしています。「座敷ぼっこ」ともいわれます。東北では河童も赫肌ですね。

「座敷わらし」の由来を、近所のハルおばあちゃんから、ズーズー弁で聞くシーンがあります。

 ハルさんは、「座敷わらしはな、貧乏ゆえに間引きされてしまった子供の化身だべ」と説明します。しかし智也少年は、「間引き」の意味がのみ込めず、帰り道、お母さんにその訳を聞くのです。

⟨いわればなし⟩には、故事来歴というか、それなりの訳が必ずあるものです。

 民話⟨座敷わらし⟩の生れる背景には、為政者の過酷な収奪による農民の悲惨な暮らし、追い討ちをかける寒冷と豪雪の大飢饉があります。岩手県は8割が森林で、田畑が少ないのです。食べ物がないから、子供が生まれてもお乳がでない。子供が死んでも、お寺に埋葬するお金もない。だから、泣く泣く川へ流してしまうのです。

 『遠野物語』を読むと「河童の子殺し」も出てきます。河童の子を孕んだ不義?を表向きの理由に、⟨水子⟩として始末する、すり替え、悲しい偽りと重なります。

 徳川時代、旧南部藩の資料(「南部史要」)によると、18世紀の宝歴飢饉で、人口31万人のうち餓死5万5千人。八年後の天明飢饉では人口36万人のうち死者6万5千人(うち餓死約5万人)といわれます。遠野だけでも、18世紀初頭の元禄飢饉で、死者約3千人。前出、宝歴飢饉では2千500人の報告があります。

 南部藩の百姓一揆も、19世紀末の明治二(1869)年まで一五〇回以上発生しています。ひとつの藩では日本一多い農民の蜂起です。

 このはなしは、小学五年生の智也君には、やや難しいかもしれません、しかし、ハルばあちゃんのはなしがきっかけになって、彼は社会に目を向き始めるような気がします。

 農山村の貧困と飢餓を題材の哀話は、全国のあちこちに伝承されています。つい数カ月前、四国の河童サミット出席のため、四万十川流域の大正町を訪問しました。そこには「馬之助」の物語がありました。

 

追記

 遠野市には2回ご縁があります。盛岡・花巻、そして三陸沿岸も回遊しました。遠野では、河童が出そうな猿ケ石川水系のあちこちの小川を。カッパ狛犬の常堅寺と河童淵の周りを散策したり、伝承園(歴史民俗資料館)を見学したり、柳田国男の『遠野物語』や井上ひさしの『新釈遠野物語』を読んだりして、少しは東北に近づきました。

 あちらの風土と名跡に接し、あちらゆかりの名著を読むと、回りが急にざわついて「何かが存在する気配、何かが現れる兆候」を確かに感じますね。

 3・11大震災では、遠野市民と座敷わらし・みちのく河童連合は、被災地支援の物流・情報発信の要衝・後背地として、重責を立派に果たしています。すでに六年前、三陸沿岸の大震災を想定した独自の救援対策を立てていたので、今回、即応・機敏な成果を上げ、近隣の被災地から深謝されています。無為無策・右往左往の政府と対比されるゆえんです。

 遠野地方は、昔も今も、みちのく岩手のヘソなのです。

日奈久ペンクラブ月報475号、二〇一二年五月 

おひさまと河童橋

田辺達也

 本年前期の連続ドラマ『おひさま』(NHK)は、長野県の安曇野(あずみの)と松本を舞台に進行しました。ヒロインの丸山陽子(旧姓、須藤)は大正十一(1922)年生まれ。日奈久ペンクラブの福田瑞男会長と同じ年配です。

 このドラマは、歴史に名をとどめた女帝の伝記でも、女流何とかの成功物語でもありません。みんなから「太陽の陽子ちゃん」と愛され伸びやかに育った普通の女の子の半生の記であり、戦中戦後、婚家で家族の絆を大切しながら爽やかに生きた庶民の昭和史です。

 この時代、多くの人が大空襲や原爆で肉親や恋人、家財を失いました。『おひさま』には庶民のささやかな日常を奪った十五年戦争への静かな怒りが込められており、東日本大震災・原発被災の今と重なります。チーフプロデューサーの小松昌代さんが『大地の子』の制作に関係したひとりと知り納得しました。

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 北アルプスの渓谷は、豊かな清流群を育み、松本盆地を潤しているようです。調べてみると、ここで犀川(流路153㎞)に合流する支流は10ちかく、松本市が「水の音が聞こえる湧水のまち」と宣伝するだけのことはあります。犀川は千曲川(214㎞)へ、千曲川は日本最長の信濃川(367㎞)へと流れ下っています。本流の信濃川からするとヒ孫のような梓川(あずさがわ)や高瀬川でさえ流路60~70㎞級、熊本県なら県下第2の緑川と同規模なのです。

 湧水(伏流水)ですが、槍ケ岳が源流の梓川ひとつみても、松本市西域の安曇あたりで70万㌧/日、水温15度といわれます。わさびが育つはずです。ちなみに八代平野の命綱・球磨川(流路115㎞)は東部山麓域で、60年代、公称60万㌧/日と言われました。

 『おひさま』の舞台になった安曇野は、長野県の中央部に位置し、松本から電車で30分以内の、北アルプス東域に広がる水田地帯です

ドラマには白い花満開のそば畑や清流に揺らめく水草の美しい映像が頻繁にでてきます。陽子の家族が病弱な母親をリアカーに乗せて引っ越してくるシーンでは、黄金色の稲穂の先に茜色のトンボ。結婚後、そば処「丸庵」の家族みんなが陽子の実家を訪問するとき弁当を広げて夢を語り合う緑野など、このロケーションは影の主役を見事に演じました。

 私はそばを栽培した経験がないのでそば畑の四季を実感できませんが川の清濁なら少しは分かります。長野県には今でもあんなきれいな小川があるのかと半信半疑です。八代なら1960年代までの⟨失われた⟩情景です。あのころは水源からかなり離れた干拓地でも球磨川から分水された農業用水路は確かに透き通っていたし、灌漑用水も生活用水も20~30㎝の高さに自噴する鑿井の湧水でまかなわれていました。汽水湖に注ぐ馬入れ川にも干満のたび藻間に赤鮠が見え隠れしていました。

 だから私はつい安曇野の小川に、昔日の八代の農村風景を重ねてしまったのでした。

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 『おひさま』から芥川龍之介の小説『河童』と「河童橋」が閃きました。九州育ちの私にとっては、『おひさま』の安曇野も『河童』の上高地も同じような場所感覚ですから連想したのだと思います。

「河童橋」は、上高地(安曇)の梓川に架かっています。明治時代、ここに初めてハネ橋が架けられ、「河童橋」と命名されました。大正時代、吊り橋にかけ替えられ、現在5代目(1997年架橋、全長36・6m.幅3・6m)に至っています。龍之介は河童ゆかりの東京は深川育ち、中学生の大正時代(1905年)、友人と登山に来て河童橋を渡ったそうです。

 龍之介は、そこで河童と遭遇したに違いなく、主題の着想や物語の展開も稀有の体験から生まれたのでしょう。

 『河童』は、「僕」が上高地の温泉宿から穂高へ登ろうと、梓川を溯るところから始まります。朝霧の下りた梓川の谷沿いを、熊笹を分けながら登っていく途中の岩場で、何か気味悪い顔(河童)と遭遇して驚きながら、その背中に手をかけた瞬間、目の前に稲妻に似たものを感じたきり、深い闇のなかに真っ逆さまに転げ落ち、気を失ってしまいます。奇妙なことに、気を失いかけた寸前、夕べ泊まった温泉宿のそばに「河童橋」という橋があることを思い出すのです。気がついてみると、そこは河童の国。担架に乗せられ最初に連れていかれたところが、チャックという医者(ここがもし日奈久なら福田ガラッパ先生)の家でした。

 龍之介が、総合誌《改造》に『河童』を発表したのは、一九二七(昭和2)年です。梓川に架かる河童橋は、上高地では最も景色の良いところ。しかも日本アルプスの登山口。クライマーは河童橋を渡って、穂高連山へ向かっているようです。

龍之介の小説によって、「河童橋(吊り橋)」は一躍上高地の名所になりました。

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ペンクラブの歌人、岩本ツネヨさんは、教職時代の37~38年前(一九七三~七四年?)、この吊り橋を渡られたそうです。上高地・穂高連山に惹かれて3回のキャリアーです。

 

霧厚き河童橋と包まれ男あり 神話の中に在るを見つめて

ツネヨ

 河童橋のたもとで撮った写真を見せてもらいました。素朴な木橋の造りから、現在の橋とは違っており、親柱の標記もひらがな(かっぱばし・あずさがわ)になっています。何代目の橋か不明ですが貴重なショットです。

 上高地河童橋の記念バッジまでいただきました。

四十年近い眠りから目覚めた逸品に、私は思わず手が震えました。コレクターから羨ましがられる、と鼻高々です。

 

「河童橋」については、河童文庫理事長の和田寛さんが著書『河童伝承大事典』(岩田書院,2005)に詳しく解説しています。

写真家の清野文男さんとフリーライターの岩永鈴代さんは、共著『日本列島河童発見伝』(不知火出版会,2007)で、「山を愛する人なら、一度は行ってみたい上高地。河童を愛する人は、一度は渡ってみたい河童橋」と書いています。

松本市発行の『河童橋つり橋百年』(2010)の表紙にはこんな小噺がー「ハネ橋だった橋をつり橋にかえたとたん、そこに、そっと河童が棲みはじめた。今から百年前のことだ」と。

ペンクラブ月報469号、二〇一一年十二月