河童を担ぐ

田辺達也

✺河童渡来伝説の源流ー八代

 こと河童(ガラッパ)にかぎると八代市の知名度は抜群である。よほどの八代嫌いか、何にでもイチャモンのへそ曲がりでない限り、日本における河童伝説の源流を鼻から否定する者はいない。この拾余年、各地の河童族との交游で得た感触からも、河童の八代ルーツ説は日本の隅々にまでほぼ浸透し定着していると確信している。

 河童ゆかりの十いくつかの地方自治体が、一九八九年(平1)から『全国河童ドン会議』を年次持ち回り開催している。ここでも、初回の牛久(茨城県)会議から、「中国から渡来したといわれる河童は、全国津々浦々の伝説となって、今に伝えられている」(開催要項主旨)と一致している。「公的にも認知されている」と言ってよいだろう。

 しかし八代市と立ち並んで東西よく引き合いに出されるのが、みちのく岩手ー遠野市である。柳田国男の『遠野物語』が名著・高名ゆえに、ぼやっとしていると、いつの間にか河童イクオール遠野物語ー遠野市になっているから、不思議な魅力をもっている。人口三万人ばかりの小都市だが、十年まえ「世界民俗博」を一か月つづけた底力がある。

 三年前の神無月、島根県の隠岐ノ島から呼ばれて『河童を語る遠野―八代の東西対抗』をしたが、向こうの女性代表は中々のつわもの、ひそかに舌を巻いた。

 東北弁の使い手には、今をときめく石川啄木や宮沢賢治や長岡輝子や井上ひさしらのスーパースターもいる。背景には、園児ー小学生のころから民話になじませるなど、目的意識をもって語り部を育てる誇り(愛郷心)と一貫性がある。

 柳田国男の足跡と名著ならこっちが先駆的で優れた研究者もいるのだが、その認識の浅さとPRの不足を九州は反省すべきだろう。

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 柳田国男は一九〇八(明41)年、明治政府の高官として九州視察の道すがら、狩りの故実を聞いて民俗学に開眼、『後狩詞記』に結実させている。『遠野物語』発表の二年前のことだから国男の九州旅行はまさに柳田民俗学の出発点になっている。

 この研究は在熊の牛島盛光熊本学園大学名誉教授が第一人者で、決定版に『日本民俗学の源流ー柳田国男と椎葉村』(岩崎美術社1993)がある。

 柳田国男は八代にも有縁なんだが地元には余り知られていない。

 年譜によると、同年六月十一日、緒方小太郎に会うため八代に立ち寄っている。小太郎は神風連の変に連座して無期懲役になり、放免ののち八代宮にいたらしい。面会の目的は不明。

 このあと十二日熊本で講演、十三日開通したばかりの肥薩線で人吉に向かった。往復の車中から八代の風景は何度も見たにちがいない。

 国男の詩友で作家の田山花袋も同年来代している。花袋は九州旅行中の柳田をモデルに小説《縁》を発表している。

「雨の降りしきる夕暮れ、川内に着いた西(柳田国男、筆写注)は旅籠屋のひと間で田邊(国木田独歩、同)の訃報を受け取った」

 国男と独歩は無二の親友だった。花袋については郷土史家の名和達夫さんがくわしく、筆者も教えを請うている。熊日新聞も四年まえ「文学に描かれた街」シリーズー八代で花袋の紀行文《父の墓》をとりあげた。

 

✺オレオレデラタのいしぶみ

 八代の河童を解く鍵なら、河童渡来伝説と前川の碑、オレオレデライタ、河童九千坊、キリシタン河童、美小姓をめぐる清正と河童のスキャンダル、九千坊の筑後川流亡になるだろう。河童ひとつでこの賑やかさは大変いいことで、海に開かれた八代の自然と文化の豊かさである。

 八代の特異性は何と言っても異邦人渡来・交流の大ロマンである。

 今では民俗学の名跡になった『河童渡来の碑』がその確かな証(あかし)。地元中島町と同町史跡保護会が一九五四(昭29)年建立した。

 碑の見どころは「ここは千五、六百年前、河童が中国方面から初めて日本に住み着いたと伝えられる所」と「旧暦五月十八日に、オレオレデライター川祭りと名づけて毎年祭りを行っている」の石文(いしぶみ)にある。

 前段の外来説には、中国のほか、韓国、東南アジア・西欧など、外国の研究者やマスコミも参入して諸説ふんぷんであるが、無理にまとめる必要はない。多ければ多いほどおもしろくなる。

 ところで、筆者が《ミニ独立国ー河童共和国建国のすすめ》を発表したのは、十三年前の一九八七年六月である。それ以前、ふだん見なれた前川の河童渡来の碑も、関心が薄いと、どこにでもある記念碑のひとつとして見過ごし通り過ぎていた。筆者にとってその程度の「いしぶみ」でしかなかった。

 碑文には「オレオレ」の由来文も縁起書もない。だからか、郷土史家・民俗研究者さえも、長い間、その8文字に頓着せず詮索もせず、せいぜい軽いお囃しか呪文か符丁ぐらいに受け止めていたと思われる。

 しかしいったん河童に目が向くと、碑に刻みこまれた「オレオレデライタ」が気になって、建立者の、ちょっといたずらで手のこんだ謎々あそびを感知して惹かれたのだった。

 河童に興味をもつ読売新聞の日高記者と建立にかかわった古老をたずね回った。が、会えたのは中島の吉田朝雄ひとりだった。当時七十五才のご老体はなかなかの博学で、多少人見知りの癖はあるものの、いったん興にのれば、海人・河童論を展開し長広舌をぶった。「オレオレ」の解釈については聞きそびれ、いま悔やんでいる。

 吉田説の紹介は、新聞記者のあと郷土史家になった千反の塩崎秋義が十年も先輩で『八代の伝説』(1975)に書いている。『九州の河童』(純真女子短大国文科編、葦書房1986)編者の城田吉六(同大教授)は、吉田流解釈にコメントしている。在阪の民俗学者で童話作家の和田寛もブックレット『かしゃんぼ』第12号《河童を探る旅(三)》(1988・10)に紹介し歴史のロマンと評価している。あの頃、こと八代の河童になると、中島町の生き証人のところにみんな詣でたものである。

 田辺提言には人吉の考古学者・民俗研究者の高田素次からすぐ反応があり、電話や手紙でやりとりした。そのとき「河童渡来の碑の建立で地元から相談を受け碑文の草案にかかわった」と聞いた。第1回河童サミット(1988年)に出席通知をもらったので詳しい話を期待していたが、ご本人の病気でおじゃん。そのうち自前の解明がすすんだので連絡はとだえた。逢いたい人だったが七年まえ不帰の客になった。

 他方、八代出身在京の作曲家中山義徳は、すでに一九七九年、少年少女合唱曲『河童渡来の碑』(中山秋子作詞)を発表。作品解説のなかに「作曲にあたって⟨オレオレデライタ⟩の句を歌いこんでみて、その語感から得た旋律より展開させた」と記していた。音楽家特有の鋭い感性で「オレオレ……」にこだわっていたのだ。

 とにかく、地元の古老たちが前川河畔に河童渡来の碑を建立したこと、祖父母も曾祖父母も信じた「オレオレ……」の口伝こそ決定的であった。

 この碑はものは言わぬ。古老もいない。しかし「ロゼッタ石」のようなメッセージがその中にきっと込められていたはずだ。

 

✺垢石・葦平のペルシャ渡来説

 ここで「河童の八代渡来説」になる。随筆家の佐藤垢石と作家の火野葦平が、一九五〇年代はじめから盛んに書いたりしゃべったりしたので、次第に知られるようになった。二人は早稲田の先輩後輩、共に河童族である。カッパへの目覚めは早く、八代の渡来説にも注目していた。

二人の説は中国渡来である。ペルシャ辺りからの大移動説をとっている。荒唐無稽・奇想天外にみえるがそうでなく、歴史の深い観察とロマンチックな感性がもとになっている。いわゆる、人類の進化と人口の増加、東方への、絶え間のない、気の遠くなる大移動―絹の道やステップロード、あるいは七つの海(日本ではとくに黒潮)による、数千年の東西交易と文物・宗教の伝播、その十字路(中央アジア・中国)の治乱興亡と民族の大流亡。河童(渡来)が人類の歴史と重なり合うから面白く納得する。

 垢石と葦平のまなざしは、たぶん河童の姿に遠い祖先の在りし日を重ねたのかもしれない。夏野菜の代表格「胡瓜」だって、元はといえば胡(ペルシャ=現在のウズベク共和国サマルカンドあたり)の野菜だから、「河童(族)が持ってきた」といっても嘘にはならない。胡瓜の海苔巻きが通称「カッパ」と言われるゆえんである。

 

 このはなしで佐藤垢石の周辺を少し突っ込んでみる。

 垢石は新聞記者を経て出版社『つり人社』を興し日本の川と海をくまなく回ったので、紀行文の名手としても知られていた。熊本には六十四才の一九五二(昭27)年七月、熊本日日新聞社の招きで来熊して一か月滞在、この間、熊本・天草・人吉・阿蘇などを回り、河童と釣りの講演会・座談会を精力的にこなしている。

 熊本の座談会には、民俗学の丸山学、洋画家の坂本善三、酒の神様の野白金一ら在熊の一流人士が顔をだしている。丸山学は垢石の「球磨川の河童」をとりあげ、その出所文献をずばり尋ね、垢石は「何にも出ていないかも。私がデタラメ書いたのかも知れん」と煙に巻いている。講演会では「球磨川はあいにくの濁水で九千坊河童に会えず残念至極」と。

 人吉での釣り座談会には市長ら行政幹部も出席した。話のやり取りから、当時進行中の荒瀬ダムに上流域の強い危機感がうかがえる。

 垢石は「日本の大概の川が経験している。球磨川は有数の立派な川だ。ここの鮎がまた他にみられない見事なものだが、地元の皆さんにお願いしたいことは電源開発などで鮎が衰滅してしまわぬよう保全に努力して頂きたい。下流にダムができたら鮎はもうそこでは産卵しなくなり上流へ上がる数も著しく減少してしまう」とずばり警告した。

 熊日も「ダムが出来たら鮎は絶望」の見出しをつけている。

 四十八年まえの忠告は今も生きているのだ。

 垢石は在熊中の七月二十七日から、熊日に随筆『山童(やまわろ)閑遊』(え・坂本善三)を書きはじめ、十月十日まで76回のロングラン。筆の向くまま気の向くまま、あの人流のトツケムニャ河童譚が自在に語られて、河童のペルシャ出発から球磨川渡来まで、美小姓をめぐる清正対河童の痴話けんかとその末の筑後川への大移動、あげくは紫式部と好色河童など盛り沢山。まとめて創元社から『山童閑遊』で上梓されている。

 こういうおもしろい読みものが図書館にないのは残念だ。

 河童七人衆の随筆集『河童』(中央公論社1955)には、そのひとりとして、天草へ行って河童の寄り合いをしたことが《河童閑遊》に収録されている。この本もない。

 

✺河童の八代源流説しかけ人

 河童八代ルーツ説のしかけ人は、芥川賞作家としての知名度から火野葦平とみなされている。葦平のインパクトは、一九五七(昭32)年四月、昭和天皇にこのはなしを披露して大笑いさせたこと、その顛末記《天皇とともに笑った二時間》の『河童会議』(文藝春秋新社)が話題になったことだろう。この珍本もない。

 同月十八日の朝日新聞は「雑学に天皇も大笑い、夢声氏ら五文化人招く」の見出しをつけ「天皇陛下を囲む文化人の放談会が十七日午後二時から皇居吹上御苑内の花陰亭で行われた。招かれたのは徳川夢声、サトウハチロー、吉川英治、獅子文六、火野葦平の五人。徳川夢声の司会で珍談、奇談の花が咲き、ダジャレも飛んで約二時間、陛下を大いに笑わせた。ここでカッパの話もとび出して、中央アジアからタクラマカン・サバクを越えて九州に初めて上ったカッパが『キュウセンボウ』という名のカッパだとの葦平の話には横から“そこで急センボウ(先鋒)という言葉が出たのだな”と落ちが加わる(後略)」と報道している。

 はなしの筋は垢石とだいたい同じ。要約すると「九千坊という大将に率いられた河童の大群が中近東のペルシャ方面からインドのヒマラヤを越え、タクラマカン砂漠を東へ移動、蒙古から中国を抜け、朝鮮から海を渡り、ついに九州八代の徳の洲に上陸した。ここに上陸の記念碑がある」と。このあとに続いて、清正と河童の美小姓をめぐる艶聞?に発展していく。

 放談会の期日だが、県内の書物はどうしてか殆ど昭和三十三(1958)年四月十一日になっている。『八代の伝説』(1975)『熊本の伝説ー熊本の風土とこころ⑨』(1975)そして『ふるさと八代ー球磨川』(1989)などに見える。前出、和田寛は自著で「それは何かの間違い」と指摘している。なんで一年以上ずれたか不明だが、三書の前2点が同じ筆者だから多分この人の勘違いで、後の筆者は前書の孫引きと思われる。

 

 はなしを戻して、葦平は大著『河童曼陀羅』(四季社1957)の《後書・河童独白》で「自分はカッパ年生まれだ」と言い切るくらい河童にのめり込み、作品も生涯に四十三点、原稿用紙で千枚をこえる河童を書いた。葦平の言うカッパ年とは「ミとヒツジの間」だそうで、丙午(ヒノエウマ)の生まれだからと説明している。

 ちなみに、この本の12番作品《英雄》に清正と河童の痴話げんか、晩期の42番作品《花嫁と瓢箪》に八代の九千坊渡来伝説がおもしろく顔を出している。若松の葦平記念館に行くと彼の生きた時代と作品がよくわかる。図書館には1984復刻版(図書刊行会)がある。

 佐藤垢石と火野葦平の活躍はともに戦中戦後の同時代。親交も深いく、河童への愛着とウンチクからも甲乙つけ難い。渡来伝説の「言いだしっぺ」を絞り込むとなかなか難しいが、年の功に敬意を表し垢石に落ち着かせた方が良いような気がした。ご教示たまわりたい。

この先には「オレオレデライタ」の言いだしっぺで、意外な展開(どんでん返し?)が待っている。さらに、河童クリスチャン説、清正と河童の痴話げんか、そして伝説解明から得た教訓など、はなしはいよいよ佳境に入って千夜一夜を越える予感。しかしこれもご縁があればのおはなしで「続きはまたあした」という具合にはいかない。(文中敬称略)

   

◆参考文献

 山童閑遊、佐藤垢石(創元社1952)

 河童、小泉豊隆他(中央公論社1955)

 河童会議、火野葦平(文芸春秋新社1957)

 わたしたちの伝説、読売新聞社社会部編(読売新聞社1959)

 日本伝説の旅、武田清澄(社会思想研究会出版部1962) 

 八代に伝わる『ガラッパ』信仰について[1]江上敏勝(『夜豆志呂』1971)

 八代の伝説、塩崎秋義(自費出版1975・6)

 熊本の伝説ー熊本の風土とこころ、荒木精之編著/塩崎秋義,河童渡来の地(熊本日日新聞社1975)

 熊本の伝説、熊本小学校教育研究会国語部会編/(日本標準1978)

 ふるさと百話総集編、江上敏勝編著(八代青年会議所1983)

 ふるさと八代ー球磨川、八代教育研究所(1989)

初出・文化やつしろ39号、二〇〇〇年