田辺達也
✺河童渡来伝説と河童共和国
(1)私は球磨川のガラッパです。河童共和国というミニ独立国の閣僚・官房長官でございます。今日は球磨川水系と不知火海域の代表として河童の目線から発言いたします。
わが国の大統領は、カッパ研究と水文化の振興で信友社賞をいただいた日奈久のガラッパ・ドクターこと福田瑞男さんです。東京・岡山・沖縄・熊本に大使館があります。東京大使は天保水滸伝でおなじみの浪曲界の中堅・玉川福太郎さん。熊本大使はモダンダンスの第一人者でシャロック・ホームズの著名な研究家・吉田武さん。鎌倉にいる劇作家の井上ひさしさんは、河童共和国の憲法にゾッコン惚れこんで、イの一番に国民になっております。
(2)最初にガラッパの跳梁バッコのあらましを、品の良い言葉なら河童の活動報告をいたします。
河童共和国という水と河童の文化団体が八代にできてから14年目になります。人間世界からは屁のカッパと安がわれております。しかし私たちは「しゃれと本音、まじめな遊び心」を発揮しており、憲法と建国宣言にも「切り口のやさしい水環境擁護の運動、八代の河童伝説・オレオレデライタ物語りによる新たな街おこしの仕掛け、そして河童愛好家や水研究家との友好親善を図る」ことを目的に活動すると明記しおります。
河童が出没して物申すことは、擬人法・間接法といってワンクッションおくソフトなやり方です。問題のすり替えとか、遊び半分では訴える力が弱く問題解決に時間もかかると批判されることがあります。しかし心にじわじわ染みるおだやかな手法には知恵が必要です。今の時代こそ河童の知恵と流れる水の自在性が必要です。
(3)河童共和国の名前はすでに十三年まえ日本で最初の河童サミットを自力で主催し、世界の125ケ国に案内状を送ったのでにわかに注目されました。つづいて九州河童サミットも主催した力量が評価されました。
この国には国立かっぱ大学があり、市民大学風の公開講座を開いており、聴講生はすでに二千人を超えました。この大学で学んだ学生には学位・自称河童学博士を授与しています。自称というところが河童ならではのパロディです。六年前には八代弁で歌う本格オペラ『かっぱの河太郎』を制作。この作品はオペラの本場イタリアで対訳つき上演、好評を博しました。
河童共和国とか王国の河童団体は全国に百グループ、そのうち九州には35グループあります。毎年、広域的なイベント・九州河童サミットを開き交流しています。今年は今月の末、宮崎県高鍋町で開催されます。九州は河童王国です。
(4)球磨川ガラッパの先祖はいったいどこから来たのか? ということですが、
八代の伝説「オレオレデライタ物語り」によりますと、二千年ばかりまえ古代中国の呉の国から新しい文化を携え海の道からやって来た人々だった、と伝えられております。
呉の国と九千坊からして、八代に渡来したのは万に近い多くの人々だった。そして渡来人の統領は徳の高い知識人だったことが伺えます。三国志のハイライト「赤壁の戦い」で魏の大軍を火攻めにして破った呉の水軍は、実は海と川に生きる河童族だったと思われます。
河童族が八代に渡来したとき、呉服とか胡瓜(きゅうり)とか焼売(しゅうまい)など、あちらの珍しいものを沢山もってきました。焼売の形は河童のギザギザ頭がヒントになっており、八代が日本における焼売のルーツという訳です。私たちはこのお盆休み、久しぶりあっちへ里帰りして、南シナ海や珠江流域の同胞・蛋民のみなさんと再会して泳ぎを楽しんできました。
(5)最近の珍事は、JR八代駅のホームに本物の河童が出没して「がらっぱ弁当」を売り始めたので、乗客はウッタマがるやら喜ぶやら。テレビ局も新聞社も事件発生とばかりの大騒ぎしました。誘拐とか殺人とか、外務省幹部のネコババとか裁判官の買春、警察署と暴力団の癒着などいやな事件が多いなかで、八代駅に河童の出没は、同じ人騒がせでもこっちは夢があり何となくほっとするニュースです。
八代では近年中学校が文化祭に河童をとり上げており、河童共和国に協力依頼がございます。この協力は小学校へ広がって、先日は松高小学校でガラッパの民話を30分しました。相手が三年生の子供さんですから少し工夫しなければと先生方と相談し、河童のお面と背中に甲羅、全身緑のコスチューム、ヤッチロベンで授業しましたところ大変喜ばれ、後でみんなが感想文を書いてくれました。
感想文には、川にゴミを捨てない決意もさることながら、私の話を聞いて、ガラッパが本当にいるような気になってきたとか、将来河童の研究をしたいなどになってくると、もうこっちが嬉し涙です。最初の発言はこれで終わります。
✺河川文化は水系・流域の文化
(1)ここでは「河川文化」について球磨川ガラッパの考えをのべてみます。
ごくあたり前のはなしですが、川は、源流域から中流域へ、下流の河口域・海域に流れる、水系と流域の営みです。球磨川水系は、九州山脈に源を発する人吉・球磨地方と不知火海に面した八代地方を一くくりにした、水の環境域・水の文化圏のなかにあります。
ですから、川の文化とは、河川水系流域の自然と人の暮らしの総和であり、流域相互の行き来の歴史をいうものと思います。
球磨川水系の文化を考えるとき私はいつも鎌倉前期の歌人・藤原家隆の歌を思い出します。
夏来れば流るる麻の木綿葉(ゆうは)川 誰れ水上にみそぎしつらん
木綿葉川は球磨川の古い名前です。家隆は下流域の川べりでコウゾやカラムシの繊維を偶然みつけ、その糸くずから、川上に人の暮らしやミソギの風習に思いを馳せたとおもいます。万葉にも通じた鎌倉歌人の優雅さが、この川の名前に美しく実を結んでいるように思います。
(2)河川文化を言うのならルーツを探る必要があります。
ガラッパが山と里を行き来する民話から、日本人の心象風景が見え始め、そして水の文化・稲作文化を学ぶことができるはずです。
私たちの祖先は、山奥の異界に荒ぶる神々が潜み祖先の霊魂が宿ると信じてきました。その山の神・水のアニマは、毎年春先になると里に下りて水田に宿るのです。祖先の体験から、形象化された水の精の代表が『河童』であるわけです。
その河童ですが、田植え前になると森の栄養分と水の恵みをタップリお土産に、カッパ道といわれる不思議な川筋を「ヒョウヒョウ」トラツグミのような鳴き声を発しながら里へ下って、川の神いわゆるカワンタロウに変身、田んぼの水まわりを確かめ稲作農業を手伝いました。干潟の栄養分を調べ海水の具合も見守りました。
そして秋の深まるころ、黄金色の瑞穂の実りを見届けると、川筋を再び山へのぼってヤマワロになり、山の里で炭を焼き森の枝をうち焼き畑農業を手伝うのです。河童の鳴き声を聞いた古老が八代にも居られ、私も録音された河童の鳴き声を聞かせてもらったことがあります。
この物語りは全国に分布しており、これは熊本が生んだ民俗学の泰斗、丸山学先生の『河童の山川往来説』としてまとめられております。
河童が山と里を往来する説話は、稲作の源流とコメが伝わり広がった道筋、いわゆる東南アジア、中国の雲南・江南から日本へ北東に伸びる昭葉樹林帯の農耕文化圏が共有する民話です。
(3)そして私たちは山麓の森林と海干潟の関係を何時のころからか『山は海の恋人』と呼ぶようになりました。実にロマンチック、しかも科学的なたとえでして、うっとりする響きをもっております。山の神と海の神の恋のプロムナードが川の道です。山海の幸の運び屋、山海の仲をとり持つキュウピッドの役が川の神・河童であったということです。
水の惑星・地球の面目躍如といいましょうか。このように河童の躍動を通して日本人の暮らしと考えが見えてまいります。そして日本人の心と風土を研究するうえで、水の化身・河童の存在がいま世界の注目を浴びております。
そのことを最も端的に象徴するできごとが、つい先日福岡で開かれた水泳の世界選手権大会で起きております。この大会のマスコットが河童でして、報道の中で河童のアニメが選手たちと一体になり泳ぎ踊っていました。
Kappa, who ?「河童とは何(誰)ぞや」ですが、この世界大会の成果は、河童が最も日本的な水の精であり泳ぎの達人としてストレートに理解され、もう一人の選手になったりお友達になったりして友好親善の実をあげたこと。河童が日本人の大好きな民話の主人公であることを、日本人の水への信仰の深さを非常にわかりやすい形で紹介したことだと思います。
(4)河童を通して河川文化の原点に迫る試みは行政の文化事業としても近年あちこちにみられます。十年前には東北の遠野市が世界民俗博、八年前には埼玉県立博物館が『河童VS天狗』の特別展。今年の夏休み、佐倉市にある国立歴史民俗博物館が妖怪と河童展を大々的に開きました。特に今年の目玉は、江戸時代に描かれた河童図と文献をもとに実物大の河童を制作して注目されました。来年は県立埼玉・水の博物館が河童展を予定し準備しております。
このように、河童ブームが起きて河童が主役になること自体、私たち河童族にとっては大変嬉しく有難いことです。しかしなぜ河童が引っ張り出されのか? なぜいま河川文化が強調されるのか? 喜んでばかりはおれない水環境の危機があります。
河童のシグナルは次に発信したいと思います。
✺ダム推進と河川文化の整合性
(1)河童ブームが十数年つづいております。流行に飽き易く冷め易い現代の風潮からは大変珍しい現象です。
芥川賞作家で若松の河童を自称した火野葦平は一九五〇年代にこう言っております。
「河童が跳梁バッコするのは世の中が乱れ、政治が腐敗しているからだ」とかっ破しました。河童ブームの底流には深刻な社会不安・政治不安があるということです。近年、河川環境とか河川文化が声高に叫ばれたり、川のフォーラムに河童が引っ張りだされる背景には水環境の危機・河川文化の危機があり、河童も悲鳴をあげております。
私は球磨川と不知火海の代表として、母なる川・母なる海でいま起きているダム問題やノリ問題から目を反らすことができません。今日のスポンサーには少し苦い言葉になるかと思いますが、水の神・河童の苦言としてご寛容ねがいます。
河童がズバリ申しますには、球磨川の流域文化を根底からぶっ壊しかねない「無目的の川辺川ダム推進」の国土交通省が今日のスポンサーであることは、何だか不似合いで漫画チックに見えてまいります。
関係省庁の行いと21世紀の河川文化には果たして整合性が有るのか無いのか?
シェークスピアに言わせるなら「ザット・イズ・ザ・クエスチョン」になりましょうか。球磨川ガラッパの率直な疑問として提起しておきます。
水環境について日本国民の目はいま九州に注がれております。
球磨川支流の川辺川でダム建設の是非をめぐって、また諫早湾締め切り後の海洋汚染をめぐって、自然保護とは何か、利水とは何かが、私たちの目の前で真正面から鋭く問われております。有明海と不知火海域でノリの壊滅的な悲惨を目の当たりにすると、何かが大きく狂っていることに気づかれると思います。
(2)今日は五十年前と十六年まえの熊本日日新聞を持ってきました。
戦後の河童ブームをリードした人に佐藤垢石という河童と釣りの随筆家がおります。
昭和二十七年、熊本日日新聞社の招待で熊本に来て一か月滞在。県内をくまなく回り、そのとき人吉の黒木市長を交えた座談会でこう言っております。
「球磨川は有数の立派な川で、ここの鮎がまたよそでは見られない見事なものだ。日本の大概の川が経験していると思うが、ダムができたらそこで鮎は産卵しなくなるし、上流へ上がる数も激減するので、そうならないよう地元でしっかり努力してほしい」と。
熊日新聞はこのとき「ダムが出来たら鮎は滅亡」の見出しをつけていることを、どうかご記憶願います。これは新聞人の見識と勇気であります。
もう一つは、人吉市の委託を受けて二十年まえから球磨川上流域を調査した熊本大学工学部が十六年まえ、「川辺川ダム建設でアユ絶滅の危機」を発表した記事です。新聞各紙は「川辺川ダム清流を汚す」「汚濁進む多良木水域」「球磨川のアユピンチ」の見出しをつけております。人吉市長は永田さんですが、この調査に衝撃を受け「アユは観光人吉の目玉であり何としても守らねば」とコメントしております。
かって熊大医学部が水俣病の原因物質は有機水銀であることを突き止め発表しました、しかしその事実は政府に押しつぶされ、その結果、水俣病蔓延の悲惨をまねきました。
川の一途さを愛した水の作家、井上靖さんも、ダム工事への怒りを静かに書いております。四十六年まえ(1955年)発表した《川の話》です。ぜひご一読をおすすめします。熊本県でもこの《川の話》を印刷しダム副読本として全戸に配布されたらいかがでしょうか。
球磨川ガラッパが言いたいのは、先輩たちの発した危険信号を無視してはならない。マスコミ各社も先輩記者の見出しを決してないがしろにしてはならないということです。
河川文化の危機については、日本ではコメ文化の衰退で河童も滅亡しそうな、深刻な様相を呈しております。そのことについてはご指名があれば補足して発言いたします。
✺コメ文化の衰退は水文化と河童文化の滅亡
稲のとり入れを前にして青田刈りが強制され、農家の悲鳴が聞こえてきます。
日本人は自分の国を豊芦原・瑞穂の国と言って農業とお米を大切にしてきました。稲作農耕は日本文化・河川文化の原点のはずです。しかし今はどうでしょう。国や地方自治体が、減反を強制してコメをつくらせず、コメの値段は四半世紀も抑えられています。田畑 を荒れ放題にまかせて農業をつぶしにかかる。その一方で外国から怪しげな食べ物がじゃんじゃん輸入されております。
主食の生産を大切にしない国、食料の自給を放棄する国は、世界では日本だけです。この逆立ちからも、「これは何だか変だぞ、これでは日本がだめになるのではないか、コメ文化の申し子・河童もいなくなるのではないか?」ということです。
これで終わります。
二〇〇一年九月