広島エンコの原爆忌

田辺達也

✺広島エンコ 

 中四国から山陰にかけて、河童はエンコと呼ばれている。漢字では猿猴と書く。古来、河童と猿は川と森の神の生きた姿として敬愛されてきた。属性は同じとみる学者もいる。 広島平野は太田川(水系)の恵みを享受して出来あがった。流路102㎞・流域面積1690㎢、熊本県の球磨川よりやや小ぶりになる。

 この川は瀬戸海に向かって南下すると、支流が扇状に分かれて沖積の豊かな三角州をいくつも産んだ。今日の広島市である。平和記念公園のある「中島」も三角州のひとつ、太田川が本川と元安川に分かれてできた。

 太田川水系は中国地方の河童天国だ。広島駅南口の前を『猿猴川』が流れている。駅前大橋と荒神橋の間に『猿猴橋』も架かっている。広島電鉄線には『猿猴橋町駅』もある。 猿猴川は流路10㎞ばかり。短いが瀬戸海に近い往来の便がある。

 この辺りに棲みついた《安芸の長者》というエンコの親分が、代々、太田川全域を仕切ってきた。

 広島は河童づくし、水の町である。

✺ひろしまの悲惨 

 お盆休みに52年前の映画『ひろしま』をみた。日教組(教職員組合)の作品だ。『きけわだつみの声』の関川秀雄が「教え子を再び戦場へ送るな!」の願いをこめてつくった。劇映画だが記録映画をみる臨場感の連鎖、6万人とも7万人とも言われる大群衆(エキストラ)の迫真力! 広島出身の月丘夢路が先生役で出演している。

 新藤兼人の作品に乙羽信子の『原爆の子』(52年作品)がある。広島の子供たちのつづり方が映画になった。新藤兼人も広島出身だ。今村昌平の『黒い雨』(89年作品)も忘れられない。

 爆心地に近い中島の平和公園には峠三吉や原民喜の詩碑もある。被爆六〇年の今年、ここで原爆死没者慰霊式と平和祈念式典が行われた。原爆ドームの横を流れる元安川には一万個の灯籠が流された。

 この辺りはかって「中島本町」と呼ばれた繁華街。一万人ばかり住んでいたという。しかし原爆投下の八月六日、町民と通行人で生きのびた者は一人しかいなかった。本川小学校(児童400人、教師10人)では生存者は二人しかいなかったという。

 中島の悲惨がとくに伝えられるゆえんである。

 新藤兼人は『ヒロシマ』を構想したとき、ここ「中島本町」をオープンセットにする趣向だったらしい。シナリオ原稿には「広島の西の賑やかな街。中学生の一隊が行く。足下は脚半(きゃはん)腰には弁当をぶら下げている」情景が描かれている。広島は軍都ゆえに狙われたが文都でもあった。

 広島原爆のすさまじさを一口にいうのは難しい。上空600mで爆発したとき数百万度の火の玉が発生、爆心地の地表温度は4千度に達し、半径3㎞以内では9割以上の建物が壊滅した。この熱線と放射能を浴びて35万人が被爆、年の暮れまで15万人亡くなった。原爆症の死者は計24万6千6百人。現在、被爆者手帳の保持者は26万6千6百人、平均年齢73・1才。

✺エンコの救援活動 

 太田川水系の河童は市街地の地獄を感知し、安芸の長者の檄で救援に立ち上がった。

 焼けただれた被爆者が水を求め、我れ先にと川に飛び込んできたからだ。

 作曲家の林光は原民喜の詩をもとに全四章の合唱曲『原爆小景』を書いた。「水を下さい」(第一章)から始めている。

 爆心地にちかい本川と元安川は、またたく間に人渦が巻き人恋う断末魔のうめきに覆われ、川の色も一変した。満潮と重なったので何千人もが深みへ押され溺れ死んだ。

 エンコの救援隊は手練の業を発揮した。太田川水系と広島湾内から五百の小舟を瞬時に揃え、五百の筏を素早く組み、簔を五千ばかりかき集めた。葦や茅の葉、藻草を集めて舟底や川べりに敷き、ひとりづつ川からていねいに引き上げ横に寝かせて介抱した。

 炎熱のさなか、にわかに、黒い雨が激しく降り出した。人も川面も赫黒く染まった。

 簑をやさしく被せてやり黒い雨をしのいだ。

 エンコが被爆せず自在に動けたのは水中深くいたので熱線の直射を免れたからだ。ウラン235(放射能)に対する免疫説もある。

 周りが下火になり熱気も少しずつ和らいできた。一刻も早く郊外に避難する必要がある。                              しかし汽車も電車も不通、陸路は死体とがれきが累々としている。

 水路が早く安全だ。小舟と筏が生きた。数珠つなぎ、二手に分かれた。一群は太田川を北上、東回りの支流(京橋川から猿猴川)へ下り、農村域へ移送した。別の一群は南下、広島湾の漁村域に受け入れてもらった。

 広島エンコの頑張りを知る人は少ないが、原爆忌にふさわしいエピソードである。

『猿猴橋』のたもとに河童地蔵がある。

 胡瓜のお供えものが絶えない。

初出・熊本の地名60号 2005