八代の水ー第2回八代の水を考える90シンポジウム  基調報告

田辺達也

はじめに

 只今から「第2回・八代の水を考えるシンポジウム」を開催いたします。

 球磨川水系環境会議準備会は、いまのところ正確には「下流域」をつけ加えた方が良いと思います。その準備会を代表しご挨拶を兼ね八代の水について報告致します。

 私は準備会事務局の田辺でございます。河童共和国の田辺と言ったほうが通りは良いかと思います。

 八代の水を考える第1回の集いは昨年の夏、柳川の広松伝さんを迎えて講演と映画「柳川掘割物語」を企画しましたところ大変好評でした。水問題に対する八代市民の関心の高まりを示すものと思います。これに気を良くして今年もご案内申し上げましたところ、各地から多数ご参集頂きまして主催者として厚く御礼申し上げます。

球磨川水系環境会議とシンポの目的

 球磨川水系環境会議準備会は、現在、「球磨川・水・河童・食べ物と健康・ゴルフ場」などを主題に活動しながら環境問題にかかわっている六つのグループの共同によって運営されております。

 私たちの所属する夫々の団体グループでは、これまで個々にあるいは共同して、ささやかであっても身近かなところで川との接触を深め、川をテーマにしたイベントを計画し環境擁護の運動にも参加してきました。この努力はこれからも非常に大切なことです。

 と同時に流路延長百十五㎞・支流七〇以上もある県下最大の球磨川は、この流域に住む全住民の努力と協力なしには「とても守られるものでない」ことも明らかです。上流域・下流域ともに、これまでお互いに余りにも知らない事が多かったのではないかいう反省もあります。だから今こそ双方から積極的に交流し連帯する必要があります。その絆を確実なものにするため、私たちは球磨川水系環境会議の結成を提起しその実現に努力しているところです。

  今回のシンポを準備するため、七月十二日から九月二十五日まで六回の準備会と一回の実務者会議を開きまして、じっくり・ていねいに事を運んで参りました。これはみんなの努力のあらわれであります。

 そして今回のテーマは「いま下流から坂本のゴルフ場を問う」であります。中心のシンポジウムは、坂本村に計画されているゴルフ場について球磨川下流域の八代からその是非をズバリ問う「学習と討論」の場にしたいとおもいます。

 講師・パネラーとして、水博士でありゴルフ場問題の権威・山田国広先生、球磨郡相良村の医師でゴルフ場問題を考える相良の会代表の緒方俊一郎先生、地元から坂本中学校の社会科教諭で坂本の自然を守る会代表の山本隆英先生、二見の自然を守る会代表の森下洋(ひろし)先生と共に、シンポジウム形式で進めて参りたいと思います。 

 準備会としてこの問題を取り上げたのは、坂本のゴルフ場がもとで起きる水問題のあれこれ、例えば地下水涵養域の破壊による伏流水の減少と枯渇・農薬や化学肥料による環境汚染のおそれは、球磨川水系下流域に住む八代市民にとっては決して他人事でないと考えたからです。

 本日の議事日程については、このあと各地の報告として上流域の緒方先生と下流域の山本先生から各15分。二見の森下先生には10分。講演は山田先生に80分。質疑討論を25分。決議文を生協の梅田さんにお願いして午後九時半には終了したいと思います。

市役所の警告

 球磨川の水が質量共に段々おかしくなっております。このことは八代に長く住んでいる人なら生活実感として誰もが薄々感じていることです。環境の実態については得てして隠したがる行政ですら、たとえば八代市の場合、六年前(一九八四年)、「広報やつしろ」で地下水の枯渇と汚染に警鐘を鳴らす特集記事を組んだくらいです。むしろ近年「割合鈍感・無関心・無責任、しかも沈黙している方は住民の側ではないか」と指摘し懸念する声もありますので心したいと思います。ヤセンスキーというロシアの作家は、『無関心な人々との共謀』という本の中で「無関心な人々をおそれよ。彼らの沈黙の同意があればこそ、地上に裏切りと殺りくが存在するのだ」と警告しています。非常に含蓄のある言葉なので紹介しておきます。

 川と水をめぐっては、少数権力者・支配者の利益のためそれを独占・管理しようとする側と多数住民のためにそうはさせまいとする者との、長い闘いの歴史があります。磨川についてもそうでありまして、私たちはその歴史を学ぶことが必要かと思います。球磨川の水については自力で調査したもの、或いは不十分ながら官公庁の資料もあります。衆知を集めて住民の立場から分析し堂々と提言することが大切かと思います。

球磨川寸描

 八代の水の(本格的な)異変はいつからでしょうか?私の少年時代の体験なり見聞から言えば、その異変は1950年代に入ってから、60年代になって加速度がついたと考えます。

 戦時中の一九四十年代前半(小学生のころですが)、私は前川近くの淵原町におりました。夏休みになると前川鉄橋や徳淵の渡しあたりは子供たちにとって一番の遊び場でした。唇が真っ青になり手足が縮み痙攣するまで、仕舞いには「河童にジゴンスを取らるぞ」と脅されるまで日がな一日水に浸かっていました。干満の激しさと速い流れで、誰もが一度や二度は溺れかかって泳ぎ上手になったものです。

 欄干から川底まで見通せる澄みきった水。ちょっと手を伸ばせば、すぐ手掴かみでもできそうな鯉やイダの大群。箱めがね、鉾(ほこ)やえび網を手にする黒光りした子供たちの歓声。そしてウナギ塚。冬になると鉄橋下の中洲に細なわがひかれ、青のりがひらひら風に舞いました。今では水はすっかり濁って透明度も悪く水辺には人影は「まばら」もありません。橋桁や石垣や栗石には牡蠣がらやヘドロ状のヌルヌルした汚物がくっつき、全体として昔の面影は失われております。

 南川河口にあった海軍省の軍需工場で終戦を迎えました。当時河川改修中の球磨川河口域も含め、植柳の敷石や下って金剛の吊り橋、南川の葭牟田・北原付近など、今でもあの付近の水の匂いや魚群の遊泳する姿まで思い出すことができます。社会人になった一九五〇年代後半、県内実業団では少しは名の通った興人水泳部にいました。プールのなかった頃、唯一の練習場であった萩原の旧鉄橋から天神バネ付近でピンア往復に鍛われましたので良く分かります。

 荒瀬ダムと新遥拝堰ができて球磨川の様子も人の利用のあり方も大きく変わりました。球磨川の風物詩とも言うべき筏の隊列も萩原の木場も四十年まえ姿を消しました。

地下水の減少

 そう言うわけで、球磨川の水を量的なものから見ると、先ず朝鮮戦争特需で市内の化学系大企業の大増産による地下水の大量取水が始まりました。つづいて高度経済成長下の一九六〇年代以降になると、八代市が第一次マスタープランを策定した69年、有明・不知火新産都市計画促進のため市長自ら地下水の大量くみ上げを奨励する大企業ベッタリで無責任な経過と、それが引き金になって大企業による大口径深井戸ボーリングラッシュが始まります。

 球磨川の伏流水は、この川が平野部に入る新遥拝堰付近で一日六〇万トンと推定されています。地下水の利用配分を見ますと、二十年前は農業用71%、生活用2%,工業用27%でした。ところが十五年後(84年)の資料によると農業用32・5%、生活用5・5%、工業用62%に逆転しております。これでは地下水の危機は必然であり、現在球磨川下流域の地下水利用は大手企業の支配下にあると言っても過言ではありません。

 この辺りのことは、元八代第一高校教諭で現在河童共和国大統領の串山先生と私の共著で三年前発表した『球磨川の水は誰のものか』という冊子に詳しいのでそれを参考にして頂ければ有難いと思います。

 紙パルプ大手の十条製紙を一例として、三年前、坂本の工場をつぶして八代に三百億円かけ上質紙の生産を倍増をしております。増設前の会社資料(87・9)によっても、一日の水の使用量は「約二〇万世帯分の生活用水に匹敵」とPRしています。これは八代市全世帯数の6倍すなはち六十六万人分の量に等しい数字であることにも留意しておいてほしいと思います。

 私が地下水に多少こだわったのは、地球上の水のうち生活用水に使用できる水が僅か0・65五%にしか過ぎず、その内の九十六%が地下水という事実を重視したからです。これはゴルフ場問題を論じるうえでも大事なことではないかと思います。

汚染と塩水化の進行

 次に八代の河川の汚濁・汚染は、レーヨンと紙パルプ大手2つの工場廃水の合流する水無川下流域に象徴的に現れております。ここには悪臭がたちこめ、数十年間魚影を見ることもありません。いま県内ではもっとも悪い状況であろうと思います。

 地下水の大量汲み上げが絡む水位の低下は、八代西域の海岸線の住民とくに農民にとっては海水の逆流汚染という大変な難儀があります。三年前、八代市発表の「地下水塩水化に関する調査報告」によると、特に大企業の集中する球磨川右岸下流域の農村地域で、例えば郡築西方面の76%、昭和地区の34%、平和町の40%が「飲料水に不適」と指摘しています。

 ここで私たち住民も大量使い捨ての風潮と生活雑排水の安易な処理や合成洗剤乱用などの中で、環境汚染・加害者の片棒を担いではいないか? 八代では海岸線に近い郡築の遊水池あたりで取れる鯉や鮒から、洗剤の泡がぶくぶく吹き出すので、「この付近の人は誰も食べない」と言っております。ホントの話しで、大いに反省の時期に来ております。

 今日のこの機会が、球磨川水系の環境について正確な現状認識と民主的転換点になることを心から望みます。

土の死

 第三に、農村や山村における除草剤等農薬・化学肥料の使用はこれ又一九五〇年代に入ってから、六十年代に入るといよいよ本格的になっております。

 私は高校卒業までの五年間、お隣の千丁町で農業をしながら八代市まで徒歩通学しました。社会人になってからも農村事情と水全般について調査し発表してきたので農村の変化が少しは分かります。いまでは夢物語ですが、三四十年前の八代市郡の農村には、どこに行っても清冽甘露な湧水が二三十センチの高さに吹き出していました。そこには生活用水のすべてと農業用水の大部分をそれで賄い、人も馬もそれを飲んで往き来した牧歌的風景が見られました。しかし今は枯れてしまいました。

 一九六〇年代スタートした「農業基本法」―農薬と化学肥料万能のアメリカ式農法の普及、加えて農基法をもとに日本農業つぶしが始まりました。この三十年間に、土壌の酸性化それこそ「農薬=農毒」と「化学肥料」による「土の死」が全面的に進行しました。そしていま農村では、アメリカのコメ自由化圧力や儲け本位・効率主義のわな、加えてこの八代では中国からのイ草・畳表の輸入拡大のなかで苦悶していることは先刻ご承知のところです。

 消費者の一部にも、見かけの良さと低価格の欺瞞に惑わされ、防腐剤と消毒液と農薬漬けの輸入食品に依存している惨めなありさまが見かけられます。

沈黙の春

 そこで「日本の悲劇」の始まった一九六〇年代、期せずして思い出されるのは農薬公害・環境破壊の先進地アメリカにおける動物学者レイチェル・カーソン女史の先駆的警告です。カーソン博士の「サイレント・スプリング」は、邦訳で「沈黙の春」副題に言い得て妙なる「生と死の妙薬」として出版され、山田先生も「ゴルフ場亡国論」の序章で真っ先に引用されております。カーソン女史の名著については私なりの感慨がありますが今日は遠慮して、毎日新聞の書評「春爛漫の山谷から野鳥のさえずりホタルや蝶の乱舞が消え失せた一種の不気味な世界」と西日本新聞が球磨川上流域の山江村のゴルフ場で「山村の住民が沈黙すれば『沈黙の春』は広がる」と言う警告めいた論評を紹介しておきます。

フロイスの描いた球磨川

 四百年前の球磨川はどうだったか?について珍しいレポートがあります。これを紹介して終わりにいたします。

 十六世紀後半の事ですが、豊臣秀吉が島津攻めのため南下し五月下旬八代に入りました。このときポルトガルの宣教師ルイス・フロイスも海路この地に入り、小西行長の案内で古麓城に秀吉を表敬訪問しております。フロイスは八代の印象を「日本史」第一巻のなかに記しております。八代紹介としては圧巻というべきです。

 その一部ですが、「我らは・・八代と呼ばれる地に向かったが、そこは薩摩(の島津氏)が肥後の国で有していた町のうち最も主要なところであった。この地がいかに美しく、清らかで(また)優雅であるかは容易に説明できるものではない。……まるで日本の自然はそこに鮮やかな技巧による緞帳を張ったかのようであり、┉┅その地の美しさと快適さはひとしお際立つものがあった。そこには幾つもの美しい川が流れ多数の岩魚が満ちあふれている。・・見渡すかぎり、小麦や大麦の畑が展開し、清浄で優雅な樹木に掩われた森には、多くの寺院が散見し、小鳥たちの快いさえずりが満ち溢れている」とベタ褒めにほめています。

 フロイスは来日以来二十数年、日本のあちこちを見聞しております。「八代ほど、自然の景観を賛美した箇所は『日本史』全般を通じても珍しい」と、翻訳した先生方が注釈を加えているほど彼の眼に八代はすばらしく写ったようであります。なかでも「岩魚が満ち溢れている」と書いているのには驚きです。「いわな」というサケ科の淡水魚は、現代の辞典にはどれもこれも「川の上流の渓谷に住む」と説明しています。それは無理からぬ事で「流域、河口にもいる」と書いたらウソになってしまいます。ところが四百年前の球磨川河口域には「いわな」が満ち溢れていたのですから、フロイスならずとも私たちにも球磨川の清洌な様子が目に見えるようです。

自然と文化を守る責務

 私たちに与えられた任務は、結局、このような美しい球磨川、このような素晴らしいふるさとの自然を如何にして守るかと言うことでしょう。

 人間の歴史は水環境のほかには存在しなかったが故に、水の流域は文化と情操の母なる地でもあります。その意味でも「八代の水を考える」本日のシンポジウムが真に実りありますよう期待して主催者の基調報告を終わります。

一九九〇年九月