田辺達也
一
河童と水の文化団体・河童連邦共和国から本年七月文化勲章をいただいた。そして伝達式の席で受章者を代表して謝辞をのべる光栄にも浴した。
この叙勲は本年度で四回目になり、河童共和国の国民はこの栄誉ある候補者に毎回ノミネートされ、これまで五名受章している。ひとつの組織からこれほどの例は河童族の中では初めてのこと。とくに私の場合、二年前、学位をいただき、今回重ねての名誉である。選考委員会の先生方に心から感謝している。
ところで文化勲章は形のうえでは個人の功績に対し授与されている。それはそれとして確かに一理あり私も素直に有難いと思うが、それだけでは何となく申し訳ないような気もする。何故なら表彰されるその人を育む揺りかごがあってこそ、母なるその地の文化的歴史的土壌を把握してこそ、初めてその人の思想も業績も理解し説明できると考えるからだ。
私の河童学の展開もパロデイの膨らみも、その背景に球磨川があって、河童渡来の碑があって、不知火海があって、そこに悠久の人の営みがあって、いま河童共和国に愉快な仲間がいて、初めてものになったのである。
その揺りかごに感謝しながら河童との五年間を素描してみたい。
二
まずは河童共和国のこと
河童だから面白くなくては話にならぬが、河童共和国に人も河童もうらやむおもしろ自由人の結集はまさに現代の梁山伯というところか。国民個々人の多くが御存じ、多芸多才多趣味のマルチタレント・一流のエンターテイナ-である。その人柄も高邁重厚謹厳実直聖人君子型あり、豪放磊落軽妙洒脱清濁併呑斗酒飄々艶笑型あり、多彩豪華な人脈を形成している。
河童共和国憲法と建国宣言と国立かっぱ大学建学のこころに示された、文化性とロマンチシズム・知的好奇心の固まりだからこその、独自のモジリにひねりにアンチテ-ゼ・確固とした自主性と強烈な個性・鶏鳴蝉噪の議論・徹底した開放性と協調性など優れた資質に、ミニ独立国ブ-ムの立役者で「吉利吉利人」「新釈遠野物語」などを書いて日本のシェ-クスピアと評判の言葉の魔術師・井上ひさし氏が「しっくりきた」とイの一番にほれこみ入国したほどである。
私も河童共和国に身を置き先輩諸氏にどれほどの教えを受けたことか。多士済々の存在と交遊は気持ちのいいものだ、知恵とエネルギ-の確かな源泉にもなっている。
三
次に河童サミット開催の意義とその後の河童フィーバーについて
河童ゆかりの地を訪ねると何処にでもなるほどと唸らせる古い伝承が息づいており、どの地にも優れた研究家やコレクターがいて独自のとり組みを行っている。しかし河童族の全国会議ー河童サミットは、それまで官民誰もが着想しない企画であり実現しなかった事業である。
だから河童共和国建国早々の我われの力量からして、その開催は確かに有意義とはいえ実現を困難視する向きもあったし、実際に主催するとやっぱり大変で、事務局としては猛暑というのに肌が粟立ち薄氷を踏むおもいをした。しかも当時、当地には政治的威嚇と文化の私物化を常とし、それでいて萎靡沈滞した妖怪が棲みついており、河童と嬰児(みどりご)の運動を妨害し圧殺をもくろむなど逆風も吹き荒れた。
しかし我々はみじんもたじろかず、夢とロマンの河童心と一図でまじめなとり組み、世界的視野の壮大な宣伝と組織、不偏不党自主自立の原則的態度、論議のイニシアチブと格調高いサミット宣言等により見事にこれを成功させ、全国的にも注目された。それだけではない、河童族の全国組織の誕生にこの八代は確かな産婆役をひき受けたのである。河童共和国福田瑞男首相の本職が産婦人科医師であることから、在るべき姿の瑞縁に成るべき安産を保証した。もしかすると河童=水神の啓示と援助によるのかもしれない。
そしてなお我われは、ただ単に河童族の全国的結集をお手伝いしたというだけに止まりもしなかった。本会議に参加したそうそうたる顔ぶれと採択された宣言文からも明らかなように、河童愛好家・民俗学者・芸術家と水問題研究家・エコロジストの全国的交流と連帯の確実な橋渡しをしたということである。
これは早くも一九八九年、柳川市開催の第5回水郷水都全国会議における、串山弘助氏(河童共和国大統領)提唱の河童分科会に進化し、河童=水=水環境の一体感の成果を示した。併せてこの会議が九州河童族の本格的な出会いの場になる相乗効果も生みだしている。この延長線上には関東地区で河童連邦共和国と隅田川交流実行委員会・神田川サミットの交流進展などもあり嬉しく思っている。仕掛け人としての河童共和国の功績は非常に大きい。
その後の全国的河童フィーバと河童サミットの発展は多言を要しない。在京グループと主催地カッパ族の努力で、びわ湖・不忍池・長良川・わたらせ川と確実に継承され進展している。この数年、主催地の県知事も出席して挨拶しており、今年など公害の原点になった足尾に近い利根川上流域の辺鄙な山村に全国から二百五十人も参集し、かってない盛会であった。もちろん八代も例外ではない。特に今夏のくま川祭りでは、まさしく「がらっぱが躍った」のである。
このほか『国立かっぱ大学』を早々に開校させたように、八代の河童族は、ともすればお偉いさんの団体にありがちな「動かざるごと山の顎大将」の集まりでもなく、ユニ-クな文芸活動と巧みな組織活動には定評がある。
四
第三に「いいものを残す努力」という点で八代市旧中島町古老の先見性は光彩を放っている。それは河童渡来の碑と「オレオレデライタ」の碑文のことである。
先日開催の「これからどうする八代のまちシンポジウム」で、八代市沖田市長と神奈川大学西教授が講演された。そのなかで西教授は、優れた文化遺産は放っておいても残るという考えの甘さと誤りを指摘され、いいものを残すためにはそこに住む人の目的意識と具体的で積極的な努力を強調され、大変示唆に富むものであった。この話から河童についても同じことが言える。
河童大将九千坊の渡来伝説はいまでこそ日本の河童譚のルーツの地位を確立している。この伝説は八代の国際的好位置とか自然の豊かさとか八代人の先進性など優れた歴史的文化的条件や人的資質を背景に生み出された「海の道と八代のロマン」である。が、このロマンも継承する地元の意志と努力がなければ、とっくのむかし埋もれ廃れていたに違いない。
早い話、もし一九五十年代、球磨川河畔中島町の古老たちが「河童渡来の碑」を建立していなければ、同じころ火野葦平やと佐藤垢石らの助太刀がなかったなら、今ごろ河童共和国の史的考証も文芸活動も成立しておらず、又今日の河童によるまち興しのうねりもなかったであろう。しかも重要なことは、古老たちが「オレオレデライタ」の碑文を刻み込んでいたのである。
碑文には見てのとおり「オレオレ………」の説明はない、別に縁起書みたいなものもない。市民も長い間その「八文字」にこだわり詮索する者がおらず、精々お囃しか呪文か符牒以上には考えつかなかった。だが古老たちが碑(いしぶみ)にこれを書いた以上、この物言わぬ文字には「ロゼッタ石」のように、深い意味のメッセージが込められていた筈である。それは何か?今にして古老たちのちょっと悪戯で手のこんだ謎なぞの遊び心を垣間見る思いがする。
余談だが、建立者の中に進利三郎や吉田朝雄の名前が懐かしい。前者は「我河童」進英夫さんのご尊父であり、私には戦時中父の死で熊本から最初に転校した千丁第二小学校の担任だった。進先生は私の父と同級生であることもわかり何かと励まされ面倒をみていただいた。
このように私の恩師が「渡来の碑」建立にかかわった河童の先達であり、そして今、息子さんと教え子が共に手を携え河童による町おこしに微力をつくしている。この偶然と奇縁も河童の引き合わせによるものだろうか。
後者は少々変人風の学者で人つき合いに物臭だったが、私には大変よくしていただいたので、河童共和国建国の前年あたり読売新聞の日高記者と何回も出かけていった。長い土間つづきの薄暗い部屋に上がり込んだところで、興に乗れば吉田さんは河童について独自の長広舌を振った。氏の風貌からこの人こそ異邦人の河童族=葦平の言うペルシャ系に違いないと思った。
五
第四に「オレオレデライタ」の解明で吉嶋華仙氏の功績について
河童共和国は本年七月開催の閣僚会議で河童芸術大賞(通称吉嶋賞)の創設を決定し来年度から実施することになった。
本賞は「河童と水に関わる文芸と工芸で顕著な功績のあった人」を表彰するもので、「吉嶋賞」と通称するのは「八代の河童渡来伝説を解く鍵である『オレオレデライタ』を解明し新河童学の発展に寄与した吉嶋氏の功績を顕彰し後世に伝える」ためである。
ちなみに我われは、建国を準備した当初から八代の河童伝説を「海の道による文化交流のロマン」と位置づけたが、とりわけ前川の碑文にある「オレオレデライタ」の不思議な響きに強く惹かれていた。後でわかったことだが、一九七九年発表の児童合唱曲「河童渡来の碑(中山秋子作詩・中山義徳作曲)」も影響を受けている。中山義徳氏は作品解説のなかで、「作曲にあたって<オレオレデライタ>の句を歌いこんでみて、その語感から得た旋律より展開させた」と述懐のとおり、八代市出身の音楽家の鋭い感性が「オレオレ……」にこだわっていた。
私にとって河童の世界は畑違いの未知の分野であった。でも私なりの自負それに好奇心も手伝い、何時になくハッスルしていた。八代市史と世界史、民俗学の論考と全国の河童伝承・河童が主役の小説・随筆など片っ端から読みあさり、河童による全国の町おこし事情や河童族の分布も短期間に把握した。この成果は一九八七年発表のいくつかの論考や、建国議会における私の経過報告などに明確で第1回河童サミットの組織方針にも生かされている。
でも河童渡来伝説の謎解きになると実力の差は歴然で、たとえ文化勲章受章者と威張ったところで吉嶋さんには足下にも及ばない。「オレオレ……」の解明で指導的役割を果たした功労者はやはり何と言っても河童共和国文化庁長官の吉嶋華仙氏である。氏は北京大学に留学したあと主に黄河流域で長期間活躍された本物の中国通、風貌物腰からもさながら九千坊の生れ変わり。私の中国に関する知識も大部分は吉嶋さん譲りだ。
「オレオレデライタ」については、私は狩猟した書籍の中からただ一つ、熊本商大の牛島教授が『肥後の民話』(第一法規)に書かれた「呉の国からたくさん来られたの意味といわれる」に注目した。しかし語源との関連が不明なため、このことを建国準備委員会に報告し吉嶋氏に指導と解明を請うたのである。
それから間もなく吉嶋氏の卓見「呉人呉人的来多=呉の人が大勢やって来た」とそれを裏づける論文が発表された。これは古代史を彩る日中交流の視点からも市民の共感を呼び、やがてこの地に定着することになる。丸山民俗学の後継者である牛島教授の説明とも一致している。この五年間、吉嶋説を否定する際立った主張もないから、日本でもほぼ受け入れられたと見るべきであろう。
八代の河童伝説を解く鍵は何となくこの「オレオレ……」付近にもある、とする我われの目星はズバリ当たっており、今にして賢明であった。だから八代市民にとっても吉嶋賞創設の意義は尚さら深いと思う。
六
ふり返って、我われが河童渡来の碑を大切にしながら吉嶋氏の卓見と火野葦平氏らのパロデイを下敷きにしたからこそ、この地の伝承に自由で面白い解釈が可能になり文芸活動にも幅と深みが加わった、と確信できる。そして河童の住み処を民俗学のなかに無理矢理閉じこめず、文化人類学、考古学など諸学問との関連で、またイネの伝播と農業の発達・命の源である水と水環境など暮らしの実態の中に捉えたからこそ、新河童学の誕生も約束され、その結果河童が水文化の中心に甦り町おこしのヒーローとしても活躍できるようになったのである。
吉嶋さんの功績をもうひとつ挙げるなら、八代の河童伝説と河童共和国によくマッチした九千坊のイメージ像で、これには画家・吉嶋華仙の面目躍如たるものが漲っている。この九千坊像をめぐっては第一回河童サミットで静岡の画家・高柳千賀子さんとコスチューム論争が起き、文化会議にふさわしいハイライト場面になった。高柳先生とは今も親しい交流がつづいている。
七
夢とロマンの河童渡来伝説からして、「オレオレ……」については、今後もいろんな仮説と解釈があって結構だ。
末尾になるが、これまで出た二~三例を挙げておく。
在福岡の中国史家・百嶋由一郎氏の手紙によると、これは中国北方語で「俺俺来到=自分たちの統率者がやってきた」と説明されている。「河童族はもともと内蒙古を拠点にした騎馬民族系契丹族の穏健派で、かって呉の孫権と魏の曹操が東北部に遠征したころ、争いを嫌って共に南下し黄河あたりに移住。四世紀のはじめ頃、上海や寧波あたりから八代に渡来したのだろう」と書かれている。
中国瀋陽市生まれの作家で博多仁和加研究家の後藤光秀氏は、著書「カッパの女王・邪馬台国ヒミコ物語一九九一年改定版」で「我們呉人都来了=ウオ-メンウーレンドライラ=私たち呉の国の人、みんなで一緒に来たのです。」と解釈している。
八代の串山弘助氏(河童共和国大統領)は、最近の労作「九千坊が伝えたもの」(葦書房近刊予定)のなかで、韓国の作家リ・ジョンギ氏の著書『卑弥呼渡来の謎』(二見書房一九七一年刊)から、韓南の言葉では「長らく、長らく、成就なさいよ!」になると紹介されている。
文化渡来のル-トは多いから無視できない好例である。
一九九二年八月