おひさまと河童橋

田辺達也

 本年前期の連続ドラマ『おひさま』(NHK)は、長野県の安曇野(あずみの)と松本を舞台に進行しました。ヒロインの丸山陽子(旧姓、須藤)は大正十一(1922)年生まれ。日奈久ペンクラブの福田瑞男会長と同じ年配です。

 このドラマは、歴史に名をとどめた女帝の伝記でも、女流何とかの成功物語でもありません。みんなから「太陽の陽子ちゃん」と愛され伸びやかに育った普通の女の子の半生の記であり、戦中戦後、婚家で家族の絆を大切しながら爽やかに生きた庶民の昭和史です。

 この時代、多くの人が大空襲や原爆で肉親や恋人、家財を失いました。『おひさま』には庶民のささやかな日常を奪った十五年戦争への静かな怒りが込められており、東日本大震災・原発被災の今と重なります。チーフプロデューサーの小松昌代さんが『大地の子』の制作に関係したひとりと知り納得しました。

       *

 北アルプスの渓谷は、豊かな清流群を育み、松本盆地を潤しているようです。調べてみると、ここで犀川(流路153㎞)に合流する支流は10ちかく、松本市が「水の音が聞こえる湧水のまち」と宣伝するだけのことはあります。犀川は千曲川(214㎞)へ、千曲川は日本最長の信濃川(367㎞)へと流れ下っています。本流の信濃川からするとヒ孫のような梓川(あずさがわ)や高瀬川でさえ流路60~70㎞級、熊本県なら県下第2の緑川と同規模なのです。

 湧水(伏流水)ですが、槍ケ岳が源流の梓川ひとつみても、松本市西域の安曇あたりで70万㌧/日、水温15度といわれます。わさびが育つはずです。ちなみに八代平野の命綱・球磨川(流路115㎞)は東部山麓域で、60年代、公称60万㌧/日と言われました。

 『おひさま』の舞台になった安曇野は、長野県の中央部に位置し、松本から電車で30分以内の、北アルプス東域に広がる水田地帯です

ドラマには白い花満開のそば畑や清流に揺らめく水草の美しい映像が頻繁にでてきます。陽子の家族が病弱な母親をリアカーに乗せて引っ越してくるシーンでは、黄金色の稲穂の先に茜色のトンボ。結婚後、そば処「丸庵」の家族みんなが陽子の実家を訪問するとき弁当を広げて夢を語り合う緑野など、このロケーションは影の主役を見事に演じました。

 私はそばを栽培した経験がないのでそば畑の四季を実感できませんが川の清濁なら少しは分かります。長野県には今でもあんなきれいな小川があるのかと半信半疑です。八代なら1960年代までの⟨失われた⟩情景です。あのころは水源からかなり離れた干拓地でも球磨川から分水された農業用水路は確かに透き通っていたし、灌漑用水も生活用水も20~30㎝の高さに自噴する鑿井の湧水でまかなわれていました。汽水湖に注ぐ馬入れ川にも干満のたび藻間に赤鮠が見え隠れしていました。

 だから私はつい安曇野の小川に、昔日の八代の農村風景を重ねてしまったのでした。

       *

 『おひさま』から芥川龍之介の小説『河童』と「河童橋」が閃きました。九州育ちの私にとっては、『おひさま』の安曇野も『河童』の上高地も同じような場所感覚ですから連想したのだと思います。

「河童橋」は、上高地(安曇)の梓川に架かっています。明治時代、ここに初めてハネ橋が架けられ、「河童橋」と命名されました。大正時代、吊り橋にかけ替えられ、現在5代目(1997年架橋、全長36・6m.幅3・6m)に至っています。龍之介は河童ゆかりの東京は深川育ち、中学生の大正時代(1905年)、友人と登山に来て河童橋を渡ったそうです。

 龍之介は、そこで河童と遭遇したに違いなく、主題の着想や物語の展開も稀有の体験から生まれたのでしょう。

 『河童』は、「僕」が上高地の温泉宿から穂高へ登ろうと、梓川を溯るところから始まります。朝霧の下りた梓川の谷沿いを、熊笹を分けながら登っていく途中の岩場で、何か気味悪い顔(河童)と遭遇して驚きながら、その背中に手をかけた瞬間、目の前に稲妻に似たものを感じたきり、深い闇のなかに真っ逆さまに転げ落ち、気を失ってしまいます。奇妙なことに、気を失いかけた寸前、夕べ泊まった温泉宿のそばに「河童橋」という橋があることを思い出すのです。気がついてみると、そこは河童の国。担架に乗せられ最初に連れていかれたところが、チャックという医者(ここがもし日奈久なら福田ガラッパ先生)の家でした。

 龍之介が、総合誌《改造》に『河童』を発表したのは、一九二七(昭和2)年です。梓川に架かる河童橋は、上高地では最も景色の良いところ。しかも日本アルプスの登山口。クライマーは河童橋を渡って、穂高連山へ向かっているようです。

龍之介の小説によって、「河童橋(吊り橋)」は一躍上高地の名所になりました。

       *

ペンクラブの歌人、岩本ツネヨさんは、教職時代の37~38年前(一九七三~七四年?)、この吊り橋を渡られたそうです。上高地・穂高連山に惹かれて3回のキャリアーです。

 

霧厚き河童橋と包まれ男あり 神話の中に在るを見つめて

ツネヨ

 河童橋のたもとで撮った写真を見せてもらいました。素朴な木橋の造りから、現在の橋とは違っており、親柱の標記もひらがな(かっぱばし・あずさがわ)になっています。何代目の橋か不明ですが貴重なショットです。

 上高地河童橋の記念バッジまでいただきました。

四十年近い眠りから目覚めた逸品に、私は思わず手が震えました。コレクターから羨ましがられる、と鼻高々です。

 

「河童橋」については、河童文庫理事長の和田寛さんが著書『河童伝承大事典』(岩田書院,2005)に詳しく解説しています。

写真家の清野文男さんとフリーライターの岩永鈴代さんは、共著『日本列島河童発見伝』(不知火出版会,2007)で、「山を愛する人なら、一度は行ってみたい上高地。河童を愛する人は、一度は渡ってみたい河童橋」と書いています。

松本市発行の『河童橋つり橋百年』(2010)の表紙にはこんな小噺がー「ハネ橋だった橋をつり橋にかえたとたん、そこに、そっと河童が棲みはじめた。今から百年前のことだ」と。

ペンクラブ月報469号、二〇一一年十二月

河童も怒っている! 原発災害

後は野となれ山となれ は許さない

田辺達也

 私は地震や原発の専門家ではないし、東北大震災の体験者でもありません。しかし被災地の惨状には同胞として怒り悲しみがこみ上げ、じっとしていることができません。何かを書いておかなければ・・と。
 日奈久ペンクラブでは、先輩の松原健さんが月報460号に直ぐさまあの人なりの思いを発表されたので、そのイニシアチブに励まされたこともあります。しかし被災映像の奔流と原発の深い闇の前に、思わずひるんだりたじろいだりして、何度も何度も筆が止まるうち九ケ月過ぎてしまいました。
 東北や関東に友人が沢山おります。震災直後、安否を確かめるため、電話をかけまくりましたが、何日も連絡が取れませんでした。みんなどうしているのか、と泣きたい気持ちをじっと堪えました。
 本文は被災地に重ねてお見舞いのつもりで書きました。もとより、九州の水界に暮らすため、本文の首題「原発問題」については一知半解の不十分さは免れません。しかし傍観は許されません。高濃度の放射能は、黒潮や親潮に乗って太平洋ばかりか七つの海を、或いは上昇気流に乗って日本ばかりか四大陸の空を汚染しているからです。

 1 東北大震災の被災者は、地震・津波・原発・風評被害等の多重苦にさいなまれています。中でもレベル7といわれる史上最悪の放射能汚染が深刻で、福島原発近郊3県の住民数十万人がふるさとを追われ、流浪と窮乏の避難生活を余儀なくされています。失業者も十数万と報告されています。向寒季のいま、被災者は経済的にも精神的にも日を増すごとに追いつめられているのです。
 スリーマイル(1979年)やチェルノブイリ(1986年)の惨事から推しても、福島県民が自宅へいつ帰れるかの当てはありません。これが現実です。
 大気や海洋に放出された高濃度・毒性の極めて強い放射能は、半減期が数十年から数百年、福島原発は廃炉解体だけで40年以上かかると言われます。
 古里へ帰りたいけど帰ることができないのです。
 東北大震災は、収束に向かうどころか原発事故がネックになって、事態はむしろ悪化しているのではないでしょうか。

 2 原子の火(核エネルギー)の発見は人類史の画期といわれます。しかしその利用技術(原子炉によるは発電)は幼く未成熟です。原爆(軍事技術)の安易・拙速な転用という点でも、その実用は非常に危険、現段階では核の暴走放射能汚染を止める技術は皆無といわれます。
 福島原発の炉心溶融・水素爆発に直面して、日本政府の右往左往と行き当たりばったりから推して知るべしです。
 ふり返って、原発の危険性は、50年前、アメリカの圧力(原子力の平和利用というペテン)で軽水炉原発が強引に持ち込まれたときから厳しく警告されています。しかし歴代政府と大方の政党、電力・関連大企業は、「原発村ペンタゴン」といわれる五角形プラス1の利益共同体を結成、これを国作として強引に推進、東海1号炉(運転は65年)を手始めに、半世紀の間に54基も増設してしまいました。しかもそのすべてが巨大地震の巣の上に集中的に建設される幾重もの危険に曝されております。原発の危険性を訴え建設に反対した政党は日本共産党だけでした。
 原発建設推進の法律(電源三法)は1974年成立。以後2009年まで約40年、原発建設に9兆円ばかり投入されたと言われます。このお金は、「総括原価方式」というお手盛りの仕掛けで電気料金に上乗せして徴収された国民からのピンハネです。会社の利益も法律でちやんと保証されています。
 このような親方日の丸方式の丸儲けで潤った原発関連企業は、例えば、重役陣の高額年俸、政治献金、原発予定地にウンと言わせる麻薬と毒饅頭(碍助金や寄付金)などに浪費の限りを尽くし、なお溜め込み(内部留保)は80兆円に。電力事業10社の積立金(国会で明らかになった、いわゆる埋蔵金)も5兆円を超えているようです。
 国民の不幸を横睨みに笑いが止まらぬとはこのことでしようか。

 3 原発産業に巣くう「原発村ペンタゴン」とは、政界・財界・官界・学会・マスコミの五角形の強固な利益共同体で、彼らは、原発の蜜桶に手を突っ込み舐め合ってきました。
 プラス1とは「原発村」に尻尾を振る連合系の電力労組です。
 彼らは、原発の安全神話をばらまいて国民を騙し惑わし、狙いをつけた過疎の予定地に莫大なエサ(交付金)をばらまき、立地予定の自治体と政治家を懐柔・買収。公共工事等の利権まで保証し、原発を推進してきました。
「カネが政治を動かす」とは大企業の確信です。自民党と民主党へは毎年億単位の政治献金を貢いできました。(一例をあげると、2010年、自民党へ4億5千万円、民主党へ1億2千万円という具合)
 マスコミも広告料ほしさに世論誘導の一翼を担ってきました。電力業界の広告費は年間9百億円ばかり。鼻薬にしては巨額です。世論誘導にメディアの役割を重視しているのです。
 かつてメディアは15年戦争で軍部の走狗となって戦意をあおる過ちを犯しました。原発翼賛の堕落も戦時体制下の同類の醜態です。
 プラス1の連合系電力総連(22万人)は旧民社党→民主党を支持し、組織から参議院議員2名を送り出し、原発推進の片棒を担いできました。2007年から09年の3年間に、民主党と議員への政治献金は1億765万円、東京電力と関西電力出身の2議員に計7300万の報道もあります。この原資は組合員から集めた政治活動費で2010年だけで7億5千万円といわれます。同年の参議院選挙には、原発容認(の協定書にサイン)を踏み絵に、民主党候補48人を推薦しているようで、ここまでやるのかと驚くばかりです。

 4 原発村ペンタゴンのおこぼれに擦り寄る面々の動きを九州の玄海原発でみてみます。
 佐賀県西端の玄海町は人口6千400人(2011年4月現在)、過疎の町です。政府と九電はここに1975年〜97年まで原発4基を建設、約1兆円投入しました。2号機はプルサーマル方式(後述)、日本では最初に建設されました。
 玄海町の収入は年間57億円(平成21年度)です。同規模の自治体と比較出来ないほどの巨額です。しかし自前の町税収入は僅か10.8億円(18.4%)に過ぎず、6割が原発関係(箱物限定)の交付金です。玄海町がこれまで受け取った原発交付金は計266億円といわれます。町は慢性の原発依存中毒症に長年冒されいびつな姿をさらしております。町議会は共産党議員1名を除き全員推進派です。
 玄海町長は原発の権益と札束にどっぷり浸かり原発ペンタゴンの一翼を担ってきました。大震災後の原発運転再開にいの一番に手を挙げたのが岸本英雄町長です。岸本町長が元社長を務めた(現社長は実弟)ファミリー企業「岸本組」の経営する建設会社は、過去4年間で原発交付金を財源とする工事を15億円受注。中山昭和町議会運営委員長も右同じ。次男経営の「中山組」は過去5年間に原発財源の工事4億円(町発注計12億4700万円)受注しているようです。
 原発様々です。
 古川康佐賀県知事も九電の重役陣や九電取引先から政治献金やパーティ券60数万円(2010年)の恩恵に預かり、やらせ事件の共犯者の役を演じています。
 玄海原発では、通産省原子力保安院・県知事・九電合作の原発推進のやらせ事件や札束攻勢は、日本初のプルサーマル計画〜建設の2005年〜運転開始の2009年ごろ、そして震災後の原発運転再開第1号を狙う本年6月ごろ、佐賀県と玄海町に対する攻勢は特に激しさを増しているようです。
 プルサーマル原発は猛毒のプルトニューム酸化物とウラン酸化物の混合燃潮(MOX燃料)を原子炉で使用する方式です。だから事故が起きたとき大事故につながる危険性があるだけに、この時期、反対の声を封殺する狙いから賛成の見返り(補助金・寄付金)も大きく、例えば玄海漁連13漁協に対する7億円、医療施設に40億円、市民プラザに5億円、私立中高一貫校へ20億円などが報道されてい潰す。この種の札束も電気料金にすべて上乗せされた原価の一部です。しかもこれら寄付金等は明細を明らかにしないでよいという、電力事業にとっては万事都合の良い機密費の性格をもっています。
 本年6月の運転再開前の謀議(やらせとか仕込みなど)はこのような背景の中で進行しました。この図式は川辺川ダムや水俣病とほぼ同じです。

 5 政府と東電の対策は何一つ成果が挙がっておりません。それは当然です。何故なら、原発を運転する技術はあっても、重大事故に対応する技術を世界の誰も持っていないからです。そのため彼らは無策と行き当たりばったりの愚策にのたうち回っております。
「毒を喰わば皿まで」か。原子炉溶融の真相は何一つ解明されていないにもかかわらず、政府と電力各社は原発被害を過小に見せかけ早期再稼働を企んでいるばかりか、発展途上国への原発輸出を積極的に推進し、放射能の危険を世界にばらまく死の商人の正体をバクロしています。
 国連における野田首相の面妖な演説がふるっています。「日本は原子力発電の安全性を世界最高水準に高める」と。
 足下をみて謙虚に発言してもらいたいものです。
 このような国民無視の政治の正体と「儲けのためには手段を選ばぬ」社会の仕組みを、科学的社会主義の創始者カール・マルクスは、150年前こう喝破しています。「大洪水よ、わが亡き後に来たれ! これがすべての資本家および資本国家のスローガンである」と。
 前段を意訳すると「後は野となれ山となれ」になります。

 6 「原発村ペンタゴンのいいようにはさせない。無責任は許さない!」
 日本国民は被災3県民にしっかり寄り添い連帯の絆を強め立ち上がっています。
 人が人らしく助けあうことは人類が二足歩行を始めた20万年前から、生きていくための、そして子孫を残していく上の鉄則になっています。
 私たちの祖先は、地球規模の幾度の困難を何度も克服してきたし、現代人の我々はそのDNAを継承しています。それは『人』という漢字にも象徴的に表意されています。
 思えば60数年前、広島原爆の惨禍に直面して、太田川流域の広島の河童族(エンコ)は被災者の救援に全力を尽くしました。私はいまその連帯の故事を思い出しています。

2011年12月