河童の心

第12回全国河童ドン(市長)会議(千葉県銚子市)講演(2000年)

田辺達也

はじめに

 九州の球磨川に棲む九千坊河童族の田辺と申します。河童共和国の官房長官を十三年つとめ、九州河童族30グループの事務局長を兼任しております。

 千葉県銚子市への訪問は初めて、地方自治体の首長さんの会議でお話するのも初めてでございます。文豪が育ち歌人が魅せられた豊饒のまちー銚子で、しかも海千山千の政治家を前にしてお話をするのは九州の田舎者には役不足かとおもいます。ご指名ですのでご容赦をねがいます。私はこの機会に八代民間大使の役割をつつがなく果たすとともに、ご当地の魅力をたっぷり吸収して帰りたいと思っております。

 持ち時間は1時間になっております。しかし河童の自在性と奥の深さから、いったん話を始めるとあちこちに飛んで切りがありません。十五分ばかり伸びるかもわかりません。その分は「かてしょい」でございます。「かてしょい」とは八代の方言ですが、プラスαの大サービスの意味があります。サービス精神旺盛なところ、河童の特性でございます。

 まずは河童ドン会議の第12回総会おめでとうございます。第8回牛久かっぱ祭りを兼ねた第1回全国会議から十年を超える、河童のふるさと創り・水文化振興の地道なご努力に心から敬意を表します。官民一体の協力によってその実が一層あがるよう、私たちも微力を尽くすつもりです。

 そして、ご当地―銚子かっぱ村の開村15周年と大内かっぱハウスの開館、おめでとうございます。大内コレクションの粋(すい)を体現する『かっぱハウス』は、民間の成果としては量質ともに最良を誇るもので、日本の河童文化・水文化の更なる発展と、民俗学など学術振興に新しい流れをつくり出し貢献することは間違いありません。観光の新名所としても、末永く親しまれることを心から期待いたします。

✺柳田国男の九州旅行と耳に遠い解らぬ言葉

 私は八代ではふだんガラッパ語とヤッチロ弁でしゃべっております。ガラッパ語はペルシャ語に近いという人がおります。河童ペルシャ原産説からすればそうかもしれません。ガラッパとは河童のことで、西南九州の熊本・鹿児島両県では濁音まじりに訛ってそう呼んでおります。ヤッチロは八代です。鹿児島県に入ると九州で二番目に大きい川内川があります。川内川の河童なら鹿児島弁でセンデ・ガラッパになります。ヤツシロがヤッチロ、センダイがセンデです。

 九州の方言から、柳田国男と国木田独歩がモデルの田山花袋の小説を思いだします。

 柳田国男は民俗学の生みの親として河童にも大変縁の深い人です。

 明治41年、今から91年まえになりますか、明治政府の高官(法制局参事官)として五月から七月まで九州を視察旅行しております。三十三才のころです。「後狩詞記(のちのかりのことばのき)の旅」として知られております。

 なぜかというと、柳田国男はこのとき宮崎県の山村・椎葉村に一週間滞在して村の古老から狩りの故実のはなしを聞き、狩りをする際のしきたりや焼き畑農業をなりわいとする村の暮らしや山の神への信仰に強い関心をもち、翌年『後狩詞記』を発表しました。『遠野物語』を書く2年まえのことですから、九州旅行はまさに柳田民俗学の出発点になっております。国男が滞在した椎葉村には「日本民俗学発祥の地」の記念碑が建てられており、椎葉民俗芸能博物館もあります。広く九州・アジアの民俗芸能の展示、調査研究、保存をおこない、情報発信基地の拠点の役割を果たしております。

 国男は八代にも立ち寄っています。

 花袋と国男はもともと自然主義文学や新体詩歌の仲間で、国木田独歩や島崎藤村も同時代の文人でございます。花袋の小説に、国男の九州旅行と旅行中亡くなった独歩を描いた作品に『縁』があります。

 ここで国男がモデルの西さんという主人公が、川内川に沿って県道を下る道すがら「土地のものは外国へでも来たのかと思われるような、耳に遠い、解らぬ言葉で話し合っていた」ことに驚く場面があります。百年前の中央政府の役人にとって、九州のカゴンマ(鹿児島弁)は「耳に遠い、外国の、解らぬ言葉」に映ったにちがいありません。

 今はそうでもありませんが、私がもし全部ヤッチロ弁でやりますと、やっぱり皆さんにはチンプンカンプン、同時通訳がいることになります。今日はその煩わしさを避けるため、怪しげな「東京弁」と時々「キング・イングリッシュ」を使っております。

✺文芸の豊饒なる地ー銚子市

 国木田独歩が出てまいりますと、独歩がご当地―銚子の生まれだけに、九州や柳田国男とのかかわりでこのまま終わるわけにいきません。

 柳田国男の青春時代、国木田独歩は自然主義文学・新体詩歌の同人のなかで最も気心のしれた親友と目され、「独歩はその資質や考えにおいて国男に最も近かったし、国男は独歩の敏く感じ鮮やかな語る才能を高く評価し、その短編に対し推奨を惜しまなかった」といわれているくらいです。

 国男は藤村や花袋らと出した詩集『二十八人集』を、神奈川県茅ケ崎で結核療養中の独歩に届けたあと九州に出発したのです。ですから、きっと独歩の身の上を案じての旅だったとおもわれます。

 国男が外国と錯覚した川内なんですが、彼がこの街にはいったのは雨の降りしきる夕暮れ時だったようです。花袋の小説によると、西さん(国男)は「こんな遠い田舎のさびしい旅籠屋の一間で、田邊(独歩)の訃報を受け取った」とあります。独歩が亡くなったのは六月二十三日、鹿児島県内は梅雨のさ中だったかもしれません。独歩、三十八才でした。               独歩のことはそのくらいにして、次にこちらにゆかりの深い竹久夢二なんですね。

 銚子の市の花が阪東太郎の奔流や太平洋の波濤には似つかぬ可憐な宵待草とは、私にとっては新しい発見でございます。九州は福岡の生活もある夢二の恋の遍歴には、女性への憧憬(あこがれ)と幼少の思い出が色濃く投影しているように思われます。

「まてど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ」の悲恋は余りにも有名です。私は夏の巻の「泣く時はよき母ありき、遊ぶ時はよき姉ありき、七つのころよ」も大好きです。

 実は今朝六時に起きて、犬吠崎燈台から海鹿島(あしかじま)へ。午前中文学碑めぐりをしてきました。ここホテル・ニュー大新から一、二分のところにある水明楼の址から始めました。

 熊本県水俣出身の大文豪・徳富蘆花に敬意を表して最初に挨拶に行ったのです。《不如帰》で知られる徳富蘆花も銚子に行っております。明治三十年十一月、今から百年以上も前になりますか、東京日本橋から利根川経由の船便でご当地にやって来、犬吠崎の水明楼に宿泊しております。今は記念碑文に昔をしのぶばかりでございます。

 蘆花はここからの帰り、銚子河畔の「大新」に宿をとっております。「大新」は、ご存知、銚子かっぱ村村長の大内さん経営の旅館です。大新には島崎藤村も泊っております。明治の青春群像が泊った由緒ある旅館に宿泊できることで、わくわくしながらやって来たのでございます。

 銚子と熊本のご縁では、幕末、肥後の宮部鼎蔵も長州の吉田松陰らと一緒に利根川を下りこちらに来ております。ご当地で日本のこれからのあるべき姿について話し合ったかもしれません。嘉永四年、今から百五十年ばかり前のことです。松陰はアメリカ密航計画がばれて刑死し、鼎蔵は京都の池田屋で新撰組に襲われ憤死しております。熊本県民のひいきから、もし鼎蔵が生きておれば、明治時代、重要な役割をはたしたにと惜しまれる、そんな傑物でございます。

 高浜虚子、佐藤春夫、尾崎行雄、竹久夢二、小川芋銭、最後に国木田独歩と、文学碑めぐりを一通りしてきました。もちろん燈台周辺と海辺の遊歩道もゆっくり一回り。朝は小雨まじりで波風も強く、一部立入禁止になっていました。銚子に来て調子が良すぎ、最初からハッスルしているようです。

✺水の心

 今日の演題には『河童の心』と書いてあります。

 河童は水物語の主人公、水文化を代表するキャラクターです。河童の心とは「水の心」につきると思います。

 水の心といえば、黒田如水の「水の四徳」が思い出されます。ご存知、黒田如水は、豊臣秀吉の軍師として誉れの黒田勘兵衛であります。関が原の戦いがもし長引いておれば天下を取っていたかもしれない戦国の梟雄・策略家であり、三国志の諸葛孔明に比定して評価する人もいるくらいです。

 勘兵衛は自らを「如水」と号したように、彼の人生観・処世観は水の如くありたいと願い、水をよく観察した、正真正銘、河童の一族であります。

 その勘兵衛さんが座右の銘にしたのが『水の四徳』であります。

  • 1.自ら活動して他を動かしむるは水なりー主体性
  •  2.常に己の進路を求め止まざるは水なりー目的意識
  •  3.障害に遭いて、激しくその勢いを倍加するは水なりー逆境をこやしに反転攻勢
  •  4.自らは清らかにして他の汚れ濁りを洗い、なおかつ、清濁併せ容れるの度量あるは水なり。

 戦国時代をたくましく生き抜いた苦労人の哲学だけに、やや生臭いところはありますが、中々含みのある言葉です。

✺外国のカッパ

 河童漫游をしておりますと、全国いたるところ、農村の素朴な水のお祭りとお祈りのなかに河童のはなしが語りつがれております。文芸工芸の成果も大切にされて、民芸品も多彩にユニークに競いあっております。それぞれが、その地の文化を極めて個性的に表現して、「おらが国自慢」はそれなりに十分納得するものがあり、簡単に優劣をつけたり元祖なり本家を特定することはできません。その意味で、ご当地の民話《大新河岸の母子かっぱ》もすぐれて確かなひとつです。

 私はあちこちの川を渡り歩いてきました。ここ阪東太郎の旅も、上流の渡良瀬川の釜が淵にはじまり、潮来のあたりでネネコ河童に逢って、いま河口の銚子に達しました。利根川縦断もこれで何となく達成というわけでございます。

 そこでまず河童は外国にいるか? という設問です。これまで15ケ国・二十数例報告されているようです。この研究は緒についたばかりで、今のところアジアとヨーロッパが中心になっております。

 河童の習性と行動からみて、日本の河童に一番近いのはチェコとロシアではないかと思われます。チェコの童話を何冊か読みましたが、こちらの河童は中々個性的で、しかも国民的アイドルになっております。日本語訳もあります。

 河童の音楽なら、日本では美空ひばりのデビュー曲『河童ブギ』が代表格のようです。チェコなら、ヨーロッパ最大の音楽祭・プラハの春に必ず演奏される、スメタナの《わが祖国第2曲・モルダウ》がもっともよく知られており、私も大好きです。スメタナは、母国チェコの自然・風物・歴史を交響詩として感動的に描写し、この中で河童の出番をちゃんとつくっております。その表題からさわりを紹介すると「ボヘミアの森の奥から流れる二つの水源は、岩に当たって砕け、やがて合流して朝日に輝き、森や牧場、楽しい婚礼が行われている平野を流れていく」と書かれ、「夜になると水面に月が映え、河童が踊る」とつづいております。絵本にもこの場面は描かれております。

 アジアでは日本人なら西遊記の沙悟浄を知っていますが、意外と知られていないのが韓国の建国神話にまつわる河童でございます。古代朝鮮の民族国家は北の高句麗(コグリョ)から始まっており、そこの建国に朱蒙(チュモン)という英雄が登場します。朱蒙は天の神様(天帝)と黄緑江の主・河伯の娘(柳花)の子供です。チュモン伝説は日本の天孫降臨神話の下敷きにもなっております。

✺九州のカッパ

 日本の河童ならやはり八代の九千坊、呉の国渡来伝説(オレオレデラタ物語)が有名です。これは国際交流のロマン・文物舶来のロマンを八代流に時代考証して筋立てしたものです。でも似たような説話はあちこちにありますから、厳密にいうと八代だけの専売特許というわけにはいきません。

 九州のことを少しお話しておきます。

 佐賀県唐津のお隣りー北波多村に行きますと、秦の始皇帝の流れをくむ秦ー波多(はた)氏ゆかりの河童がおります。ここの河童渡来は韓国経由、玄界灘から松浦川に入る魏志倭人伝ルートが浮上いたします。二年まえ九州河童サミットを主催しました。佐賀なら伊万里市の古い造り酒屋・松浦一の全身ミイラが有名です。天井の梁から見つかったそうですが、これが評判になり、今では観光名所になっております。ミイラ見学者へのお酒の直売りが飛躍的に伸びたと聞いております。

 長崎県では十年まえ大噴火をおこした普賢岳の河童のはなしになると、古代中国・呉の国からやってきた河童は最初に島原に上陸し、ここで神様になろうと修業したが、遊びが過ぎたのか神様になりそこね、不知火海と有明海を渡って筑後川や球磨川に棲みついたことになっており、“八代より少し古いぞ”というわけです。

 長崎の西端には小説『沈黙』の舞台になった隠れキリシタンの里・外海町に神浦川があり、環境庁お墨つきの日本一きれいな川をまもる運動の一環として河童が活躍しています。今年ここで九州河童サミットを開催予定のところ、遠藤周作記念館のオープンと重なり実現できませんでした。来年は神話の国・宮崎県高鍋町での開催を決めたので、皆さんのお越しをお待ち申しあげます。

 鹿児島は川内川の南の海岸線・吹上浜に近い金峰町の河童になると、稲作の伝来を示唆する古い河童踊りもあります。八代や天草を含むこの辺りは、黒潮の流れに乗って東シナ海から不知火海や有明海に入る中国江南(呉越)ルートが考えられます。八代は徐福渡来伝説地のひとつにもなっております。

 中世になると、飛び梅の道真伝説、源平合戦、南北朝争乱、キリシタン弾圧にまつわるエピソードが、河童伝説として息づいております。病気で死んだはずの平清盛が河童に姿を変えて筑後川の中流域にひそみ、平家の再興をはかる巨勢入道。関が原のあと加藤清正に追われる球磨川の河童族九千坊と小西行長のキリシタン河童の筑後入りなど、筑後川流域は河童民話の花盛りです。田主丸、吉井、久留米など、この流域はカッパ広域連合を組み、とくにその支流・巨勢川の田主丸は十数年まえまで八代のお株を奪って「田主丸こそ九千坊の本家」を名乗っていたくらいです。

 ここに田主丸町の町長さんもご出席ですので、今日は仲良くどちらも本家ということで進めることにしますが、本日の会議に配布された田主丸町の新しい町政要覧をみまして、河童伝説のところでおもしろい筋だてが目にとまりました。

 新説と言ってもいいかと思います。というのは、河童大将・九千坊は「蒙古から渡来した」ことになっております。これは江上波夫先生の騎馬民族渡来説や、元寇の役で捕虜になった蒙古人が河童に変じて日本各地で馬の飼育を始める民話になじむものとして、興味深く読ませていただきました。

 平清盛は伊勢平氏の出身ですから平家の主力は水軍です。当然、水の神様への信仰が厚く平家ゆかりの九州では、とくに宗像の女性格の神とか弁天さんになるわけです。

 筑後川流域と九州山脈ぞいに『筑後楽』という古い神楽も継承されております。大分耶馬渓と日田、そして福岡吉井町の神楽などそのいわれを書いた祭文や舞楽の踊り手のコスチュームから、河童に五穀豊饒を祈り平家落人を鎮魂する二本の筋だてになっています。 薩摩国分寺のあった川内市は古い歴史の町ですが、川内川と樋脇川の合流点にある戸田観音のご本尊は、全身うろこの木彫で有名な河童さんです。中国江南地方の海人の習俗がルーツの鯨面文身から、全身に入れ墨の古代倭人がよみがえります。川内川中流域に日本一の金鉱山で有名な菱刈町のガラッパ公園は九州では最大規模のものです。建設省との共同で河川敷利用のモデルになって、夏休みに九州都市部からのやって来る子供たちの林間学校でにぎわっております。

✺河童の生みの親ー稲作農業

 ここで、河童ブームはなぜ起こるのか? どういうキッカケで起きているのか? を一緒に考えてみたいと思います。河童の心・水の心を知る上でも大変興味ある設問であるからです。

 河童ブームは時代の大きな変わりめにおきております。河童ブームには社会的背景があるということです。河童ブームの性格ですが、ポジティブ・ネガティブ、時代によってちがっており、どちらも「世直し運動」のうねりをもっております。近年のブームには、抗議の意思表示・怒りの気配がただよっております。

 ご案内のように、世界の四大文明は川のほとりで始まりました。水環境の良いところに人が定着し共同社会が始まったのです。人間の歴史をたどると水と共生の歴史であります。                         日本で河童の出現をうながしたのは、弥生のむかし稲作の始まりと考えられます。河童の生みの親は農業であります。稲の成育にとって水の環境、いわゆる水利が決定的に重要です。したがって原始宗教も農耕作業の無難と五穀豊饒を祈る素朴な自然崇拝としておこりました。祈りの形式も水の中のミソギやスマイから始まっております。

 ミソギもスマイも水の神様を迎え入れるための儀式であり、そのため、祈りの対象として神(ゴッド)や精霊(スピリット)や妖精(フェアリーとかスプライト)段々おちぶれて妖怪(ゴースト)など、あれこれ超人的な概念なり、個性的な水の偶像が産みだされました。それをひとくくりにして代表するキャラクターが河童であるわけです。

 ミソギなんですが、その特徴は巫女としての処女の存在と水辺でのお清めなんです。ミソギ(=お清め)は川のほとりか海辺で行われました。ミソギとは水神さんの言葉を聞き、神の意志を受けいれ、神の種を宿す神聖な交わりです。だから相方として清純無垢の少女が選ばれ、水辺でのお清めが必要と考えられたのです。

 柳田国男の遠野物語を引くまでもなく、民話には河童や龍の子をはらむ小話がたくさんあります。これはポルノまがいの嫌らしいことではなく、自然と人の一体感・融合の表現であります。古代人の豊かな感性の世界⟨アニマ⟩とご理解いただきたいと思います。

 スマイについて少し触れておきます。スマイとは一人舞い(素舞)か複数の舞(相舞)のことで、踊りといったほうがよいでしょう。スマイが格闘技、勝負を決める「スモウ=相撲」に転化するのはずっと後のことになります。相撲の神様・熊本の吉田司家も「それはスポーツとしてではなく、初めは農作物の豊作を祈り、或いは作柄の善し悪しを占う庶民の農耕儀礼、民間信仰として発展した」と言っております。

 民俗学者の折口信夫と柳田国男は、スマイ=スモウの仕方は、もともと相手の手を握りしめ、自分の思いを力の強さで伝え示す「手乞い」から始まったといっております。手乞いの「こう」と恋するの「こう」の語源は同じだといえば納得できるとおもいます。

 そうなると、人間の目に見えない神様が相方のスマイはソロでもペアどっちでもよく、五殻豊饒・豊作祈願の儀式、いわゆる恵みを産み出すスマイなら、男女のエロチックな舞いがもっとも自然です。天の岩戸「アマテラス」のストリップショーもそのたぐいだろうとおもいます。

✺水は命ー河童のお皿

 河童のお皿なんですが、このお皿こそ河童が水の神さまであることを確かな形で示しております。

 地球は水の惑星といわれます。水の惑星だからこそ地球上の住む生物は生存が保証されております。人間の体も7~8割が水分です。それ故に古代人の鋭い感性と知恵は、力の源泉・命の守り神として、ズバリ、自らの頭に水タンクのついたキャラクターを造形したのです。

 お皿の水タンクから河童と人が相撲をとるはなしが全国にあります。河童がお辞儀をしてお皿の水がなくなったとき、河童は神通力を失い必ず負けることになっております。これこそ「水こそ命」の大切さを寓話として伝えていると思います。河童の頭は最高の芸術作品ということができます。        河童がいまの姿になって定着するのは江戸時代でございます。大規模干拓による農業の発展で、コメ作りに用水の確保と水管理に関心が高まる時代の要請に、うまくかみ合っております。干拓地はどこも水利に大変苦労しており、灌漑用水の工夫など水神さんの知恵と力添えが益々必要になって、水の物語いわゆる河童の民話の生まれる必然があります。河童をとらえたはなしが絵入りの文献であちこちに残っていますが、その時代も場所も、だいたい江戸時代後期の農村になっております。

 このように昔の河童ブームは食料生産を象徴する前向きなブームだったのです。

✺現代の河童ブーム

 そして現代の河童ブームです。

 さっき私は河童ブームの様相が昔と今は一変していると申しました。いまの河童ブームの特徴は、政治の腐敗・社会不安というネガチブな要因を色濃く反映しております。

 具体的な事例をあげると何時間も何十時間もかかります。それに私が言わないでも、皆さんも「もう我慢ならん」と腹の立つ想いがいっぱいあるとおもいます。とにもかくにも、夢も希望もない八方ふさがりの現状にたいする不安と危機感のあらわれ、あるいは抗議の証しとして河童ブームがおきているように思われます。ということは、「河童、カッパ」と浮かれてばかりは居れないということです。

 ここで河童の作家・火野葦平の警告を紹介しておく意味があるように思います。ご存知、火野葦平は北九州若松を主な舞台に活躍、『糞尿譚』『花と竜』『兵隊三部作』などで有名な芥川賞作家であります。彼が河童の作家といわれるのは、一生のうちに河童を主題に43の作品、原稿用紙で一千枚以上を書いているからです。地元には葦平をしのぶ文学碑や資料館、旧居「河伯洞」もあります。

 葦平は河童曼陀羅や河童七変化という作品にこう書いております。「河童が跳梁するのは、たいてい乱世か、上に悪い政府や大臣がおり、これが愚劣な政治家たちと一緒になって国民を苦しめる、悪政の時代と言われているからで、河童のバッコはそのためであるに違いない。」またこうも言っております。「河童がはびこるときは、おおむね政治が悪く庶民が苦しんでいる時代である。また河童と税金は大いに関係があって、カレンチュウキュウの暗黒時代にはいつでも河童がチョウリョウバッコした」と。国語辞典ではカレンチュウキュウとは「税金をむごく、きびしく取り立てること」チョウリョウバッコとは「はびこる・のさばる」と説明しております。

 今の日本は火野葦平が四十数年まえに警告したそのとおりです。今の河童ブームは、腐敗した政治と経済、自然破壊にたいする国民の抗議や怒りが擬人法という仕かけで表現されていると言っても間違いはないと思います。

 擬人法とは、別の姿にかこつけ人間の本音を伝達するものです。「訴える力は弱く変革の力にならない」と言ってけなす人もおります。しかし庶民はみんな弱いのです。弱い庶民だからこそ河童の姿を借りて、いい換えるならワンクッションおいて本音をもらしているのです。

 しかし庶民のガマンにも限界があります。昔から「窮鼠、猫を咬む」とか「ウサギ七日なぶれば噛みつく」とかいわれております。河童のうらみは、噛みつくどころか、「ジコンス」の奥の「五臓六腑」を狙うからご用心をねがいます。「ジゴンス」はヤッチロ弁ですが、ケツのアナとか尻子玉などいわれているところです。

✺地球の環境悪化

 河童ブームの背景には地球の深刻な環境悪化もあります。環境擁護のための、切り口の変わった、静かでやさしい運動、それが河童ブームであります。

 十年ばかりまえ、ブラジルで世界環境サミットが開かれました。発展途上国の熱帯雨林は製紙のチップ材や建築材として乱暴に伐採され大部分が日本に輸出されており、これに反対する現地住民と日本の商社・大企業との国際的な紛争が頻発しております。二酸化炭素温暖化による地球の生態系の危機に警告する目的もあったわけです。

 サミットが開かれた国ブラジルを流れるアマゾン川は、流路六千七百キロ、流域面積だけでも日本国土の十八倍といわれる世界一~二を争う大河で、この流域には河童も棲んでおます。現地の言葉で「サシーとかコントラ」とよばれているようです。

 アマゾン流域では二千ヶ所にのぼる金の製錬所で水俣病がまん延、そして乱開発による森林の減少・河川の汚濁は目をおおうばかりです。住みかを失ったサシー・コントラ河童の悲鳴は、まさに水の惑星の危機の根源に人間と大企業のむき出しの欲望と罪の深さをしめしております。

✺農業の危機ー水文化の危機

 最後に日本文化の象徴、コメ・農業の危機になります。農耕文化を象徴する河童がその危機に警告を発しているようにおもいますがいかがでしょうか。

 昔からわが国を褒(ほ)めちぎった言葉に《瑞穂の国》という雅(みやび)な言葉がありました。瑞穂とは「みずみずしい稲の穂」と説明されております。弥生以来、日本人の命の綱・食文化の中心になったお米だからこそ、私たちの祖先は「瑞穂」という雅(みやび)な言葉でお米を大切にしたし、米俵に腰を下ろすことさえ罰あたりとして許さなかったのです。

 しかし近年、瑞穂の国の日本では自分の田んぼに米をまともに作ることが許されず、全国で百万ヘクタールの減反、減反率はすでに四割を超えております。生産者米価もこの四半世紀全然上がっておりません。そのため農業後継者が育たず田畑は荒廃しております。文化とはカルチャーです。カルチャーには元々耕すという意味があります。田んぼが荒れ放題では日本文化が根っこから腐れるはずです。

 国際的には食糧難の時代が到来しつつあるのに、政府の食料安保は無策というより、アメリカに隷従して自国の農業をつぶす売国的な態度です。日本の農政が「ノー政」といわれる由縁であります。

 八代地方では米のほかイ草と畳表では日本一の生産と加工地であります。しかし近年、中国産の流入で壊滅的な打撃をうけ、借金苦と将来に絶望した中堅農業者の自殺と自己破産が激増、深刻な社会問題になっております。イ草農家は十年前の4割まで激減しております。

 歴史のにがい教訓から、主食の自給を放棄し自国の農業を衰退させた民族と国家は、滅亡するか他国への隷従を余儀なくされているということです。日本の伝統的食文化のコメとその生産が廃(すた)れたとき、農耕文化の象徴としての水の神霊(かみさま)も死ぬのです。水の神様=河童の死は日本人の感性の死であり、日本文化の滅亡なのです。

 もし皆さんが河童のドンを自負されるなら、中央政治の堕落を許してはならない。見識と勇気をもって地方から反乱をおこし、悪い政治をやめさせ、水文化をまもる先頭にたつ気概が求められております。

 河童の心とは、辛口の結論として、反乱する心にあります。

 平安朝の末期、平将門が関東の大地から、藤原純友が西海の瀬戸内から決起し、腐敗した貴族政治に痛撃を加えました。このように全国の河川と湖沼に棲みついた河童のドンである皆さんが、それぞれの地方から近代的・合法的な手法による反乱を一斉に起こすことを期待して講演を終わります。

 ご清聴ありがとうございました。

二〇〇〇年十月 初出・夜豆志呂136号