序・絶妙なペアワークの果実―『日本列島 河童発見伝』序文

田辺達也

 清ちゃん河童こと民俗写真家でコラムニストの清野文男さんと、お鈴カッパこと翻訳家でフリーライター岩永鈴代さんの名コンビに出会ったのは何処だったか?
 清野さんが村長さんの、千葉かっぱ村の広報を手にしたのは何号からだったか?
 『河童の系譜』(清野・安藤共著、五月書房93)を読んだのは何時だったのか?

 もうずいぶん前のことになるとだけ。すぐにははっきり思い出せないが、全国あちこちの川と河童の里での思い掛けない再会が幾度も重なり、京都の世界水フォーラムとか台北での河童の国際会議とか菊池の水神シンポなどに共同するうち、いつの間にか仲良しになってしまった。八代への来訪は三年前の五月、九州取材の帰途、球磨川河畔の河童渡来の碑あたりを散策されている。河童がとり持つ不思議なご縁の水魚の交わりである。

 千葉かっぱ村に魔力と冴えを感知したのは広報『かっぱ』からだった。広域多彩な情報の収集ときめ細かな報道、紙面から察する人脈の豊かさ、新刊書評、見て楽しむ写真中心の編集と簡潔な記事の絶妙なハーモニー、12㌻のボリュームに少しの手抜きもない。紙背に遊び上手と知力がうかがえた。

 アマチュアとはいえ私のカメラ歴も50年になり、紙誌の編集や出版にも長年携わってきた。八代では河童共和国の公報『九千坊』を20年間発行、河童の単行本も何冊か出している。その経験から千葉の広報に強烈なパワーを、優雅で品の高さに磨きがかかっており、編集にも工夫のあとが鮮やかである。号数を重ねてもマンネリにならず衰えがない。と、私は兜を脱いで、河童の新聞では「千葉かっぱ村が日本一」と折り紙をつけたほどである。

 その中心にいたのが清野文男さんだったのだ。写真家だけのことはあり、ビジュアル効果を狙った楽しい読みものになっていた。解説文を書いた人は黒子に徹して初めは見えなかったが、つき合いが深まるとやがて見えてきた。お鈴さんこと岩永さんである。

 民俗研究者としての清野文男さんの資質は、村松貞次郎東大名誉教授が、『日本の職人ことば事典』(工業調査会96)序文で絶賛されたように、伝統技術に生きる職人の「知恵と心の機微を表現する、ことばの世界を検証」するフィールドワークのなかで育まれ研ぎ澄まされたと思われる。日本を支えてきた「ものづくりの心」「匠の復権」を訴える目と構えには河童と重なる必然があった。

 河童との遭遇も三十一年前というから我われとは年季がちがう。中河与一さんとの運命的な出会いもある。中河さんは《天の夕顔》で一世を風靡した作家、日本かっぱ村役場の創立者・初代村長である。

 ここで清野さんに北海道の原風景(コタンのミントチカムイ)が熱く甦り、民俗の領域が一気に広がって爆発する。同好の士と千葉市に「かっぱ村」を立ち上げたのは一九八九年である。

 本書『日本列島河童発見伝』は清野さんの面目が躍如する河童探訪の集大成である。この五~六年の間にほぼ全国あまねく足を運んで撮影した中の選りすぐりの映像が収録されており、その数は六三〇枚余にのぼる。

 清野さんの目は報道写真家と民俗研究者の複眼である。

対象物の瞬時を逃さない鋭敏さから、水文化の守り手の素朴な暮らしが浮上し、穏やかな息づかいまでが伝わってきて、読者は居ながら日本中の河童が鳥瞰できる。本書から山村の渓流に干拓地の堀割に、河童の気配を確かに感知して思わず歓喜し震えるだろう。 

お鈴かっぱの優しい眼差しと翻訳家の洗練された解説文が写真を更に盛り上げている。

 河童の嬌声が聞こえて、息の合ったペアワークの果実がここに実った。

 先に大阪堺の和田寛さんが『河童伝承大事典』(岩田書店刊)の編纂で注目されたが、清ちゃん・お鈴かっぱ共著の本書はビジュアル版として誰にでも楽しめる好書である。

 河童族の相次ぐ金字塔に心から敬意を表し、本書が多くの人に愛読されることを切に期待する。

二〇〇七年八月