柳田国男と川内川

田辺達也

 

 柳田国男研究の権威、熊本学園大学牛島盛光教授(民俗学)のお供をして、六月二十三日と四日の二日間、鹿児島県の川内川流域を歩いた。牛島先生には九州河童サミットの、かっぱ大学公開講座に講師として出席していただくことになっており、その矢先で思いがけない踏査行は、河童族の絆を強めながらの、実りある学術調査になった。

 牛島先生から「柳田国男の九州旅行と同じ月日同じコース踏査してみよう」と誘われ道案内を頼まれたのは三月九日だった。

 九州河童サミットのだしもの(公開講座とオペラ)について、在熊本関係者と顔合わせを兼ねた打ち合わせの席であった。牛島先生のほか熊本学園大学丸山和夫教授、『かっぱの河太郎』を書いた脚本家の佐藤幸一さん、熊本シティオペラの佐久間信一さんが出席した。河童共和国から福田瑞男大統領、国会議長の古川保さん、熊本大使の吉田武さん、松永茂生さん(前熊日情報文化センター常務)と私であった。

 私はおつき合いの入口で、独り、こころが躍った。

 柳田国男は一九〇八年(明治四十一年)の五月から七月にかけ、明治政府の高級官僚(法制局参事官)として九州を視察旅行している。三十三才であった。

 人吉市から鹿児島市に入り、六月二十三日、宮之城町から川内市に来ている。このあと七月中旬、宮崎県椎葉村に一週間滞在して狩りの故実の話を聞き、翌年二月、『後狩詞記』(のちのかりのことばのき)を出している。この旅行が「『後狩詞記』といわれるゆえんである。

 『遠野物語』を発表する二年前のことだから、九州旅行はまさに柳田民俗学のルーツとも出発点ともなって両者は強く深く結ばれている。牛島盛光先生の近年の労作『日本民俗学の源流ー柳田国男と椎葉村』(岩崎美術社1993)はその学際的貢献である。

 

 

 今回の踏査は鹿児島県菱刈町ー大口市ー宮之城町ー川内市へ、川内川の下りのコースだった。牛島先生によると、この流域で柳田の足跡は未解明なことが多いといわれ、小旅行の目的はその空白の部分を埋めることにあった。

 スケジュールを任されたので、六月十二日付の手紙で行程の私案を先生に伝えokをいただいた。道案内といっても名前だけ、実は川内河童共和国大統領の箱川政巳さんに助太刀をたのんで菱刈まで来ていただいた。東郷町出身の彼は川内川を知りつくしているから、大船に乗った気持ちで後に従った。

六月二十三日(金)

 八代駅前で牛島先生と待ち合わせ、八時四十五分出発。

 菱刈町役場に十一時少し前着、役場職員森孝一さんの案内でがらっぱ公園と前町長久保さんの河童資料館を見学。

 十三時出発、大口市の曽木の滝周辺調査ー宮之城町教育委員会で十五時半から一時間聞き取り調査。

 川内市十七時着、市役所表敬訪問。

 川内太陽パレスホテル宿泊、川内河童共和国箱川大統領の歓迎晩餐に出席。

六月二十四日(土)

 午前中、川内市文化財保護審議会小倉一夫会長らの案内で柳田国男投宿先跡地の確認。川内歴史資料館訪問。午後から戸田観音の木彫河童見学、薩摩の国東郷かっぱ村代表の箱川辰光さんと懇談など忙しい一日であった。

 箱川さんには最後まで大変お世話になった。以上が概略の日程である。

 菱刈のガラッパ公園は来るたびに河童がふえきれいになっている。国道筋にも巨大な河童像ができていた。前町長の久保敬さん宅に河童資料館が完成しており、膨大なコレクションを見学した。昼食をいただき銘酒「伊佐錦」までお土産にもらう。奥さんがやさしく、心からのもてなしに、いつもいつも、つい甘えてしまう。

 大口から川沿いに左岸の細道を下った。後で調べたら一般県道と記されており、こういう道は勝手知った地の者でなければとても通れない。ダムのある鶴田町から右岸に変わり宮之城町に早目に着いたので、この地の教育委員会でじっくり話ができた。柳田の日程表にある、彼が投宿の山下という旅館について聞きただした。

 このあと通りかがりに『白浜の渡し』を写真におさめ、更に下って頼山陽も歩いた(柳田国男は馬車を利用したかもしれない)旧道(現東部通り)を経て、ちょうど十七時川内市役所に到着した。助役さんと歓談、先生から柳田国男の訪川のことを私は八代の河童サミットについて説明した。後日、同市から企画部長が来代されている。

 私があれこれメモしたのは、「柳田と同じ月日」という牛島先生の思い入れの深さ、学者研究者のこだわりを端的に示すためである。先生の関心は、柳田国男ら明治の文人群像がモデルの、田山花袋の小説『縁』(1910発表)に描写された情景の忠実な確認(再現)にあったと思われる。

 柳田と花袋との交遊は、「しらべ」を重んじロマンチックな作風で知られた和歌の松浦辰雄門下としてはじまっている。小説家に転じた花袋は島崎藤村らと自然主義文学運動を起こし活躍する。

 花袋は書いている。西さん(モデルは柳田)の見たのは「縣道にはそれでも馬車があったが、少し脇に入ると芭蕉、椰子、蒲葵ー日本では見られないような南国の植物が其處此處に繁っていた。土地のものは、外国へでも來たかと思はれるような耳に遠い解らぬ言葉で話し合った。」と。

 そのような道筋の情景は微かとはいえ確かに残っていたので、私たちは子供のようにはしゃいだ。

 言葉について言えば、センデ(川内)訛りは今では「耳に遠い解らぬ言葉」ではなくなった。しかし方言の難解さには経験がある。五十年前(終戦の一九四五年秋・中学一年生だった)川内川流域の樋脇町へ行ったことがある。そのときのこと、何と、地の人の言葉がわからず、通訳の要ったことが思い出される。 言葉の壁は隣県でさえそんなだから、私より更に五十年前、明治の中央役人がここを外国ではないかと錯覚したのは理解できる。

 今度の踏査行で、牛島先生はひとつだけー川内に入ったとき、雨が降っていないことをー残念がられた。花袋の小説には「雨の降頻る夕暮れであった。さびしい海岸から少し入った矢張りさびしいなにがし町に西さんは着いた。」とあるからだ。

 八代出発から大口あたりまで小雨だったので、私たちは雨模様の再現も大いに期待した。ところが午後になってもち直し、四時すぎ白浜の渡しあたり陽光を浴びて汗ばむほどに。

 暮れなずむ私たちの川内は小説のようにはいかなかった。

 西さん(柳田)は「こんな遠い田舎のさびしい旅籠屋の一と間」で田邊(モデルは国木田独歩)の訃報(電報)を受けとっている。

 独歩は花袋や太田玉茗(歌人)ら文学青年グループの友人(先輩)で、一高卒業の一八九七年初めての共著した新体詩集『叙情詩』の詩友だった。国男は、藤村や花袋らと出した『二十八人集』を結核で療養中の独歩に贈ったあと九州に出発したので、きっと彼の身を案じながらの旅だったと思われる。

 「国男が青春をともにした花袋、藤村、独歩のなかで、独歩はその資質や考え方において、国男にもっとも近かった。」「国男は独歩の、敏く感じ鮮やかに語る才能(国木田独歩小伝)を高く評価し、その短編に対して推奨を惜しまなかった」(岡谷公二『柳田国男の青春』筑摩書房91)

 独歩の死を悼むのか、雨はいぜん降りつづいていた。      

 場面は変わって、私たちは、翌二十四日午前中、柳田投宿の高瀬屋(地元新聞の報道では薩摩屋になっている)という名の旅館を確認するため、小倉さんや箱川さんらの案内で、国道3号線と川内川左岸堤防の交差する下方の一帯を散策した。

 牛島先生の歩きの早いこと。

 私は歩くことに始まり歩くことに終わる民俗学の真髄を、元気印の先生の後ろ姿に体感した。この二日間、大学生のつもりで駈けた。思い出の小箱に残る踏査行であった。

 

 

 追記―六月の末、先生からお手紙をいただいた。

田辺達也様

前略 やっと写真ができましたので、わずかですがお届けします。

 何度見ても、戸田観音堂のガワッパは、異様、奇怪ですね。鬼気迫るものがあります。

 さて、柳田国男の八代通過の件、定本柳田国男集・別巻5にあります。

 六月十一日というのは、三角に一泊(六月十日)翌日、つまり熊本に帰る途中ですね。この日の記録ですが、今のところこの年譜以外には見当たりません。

 小生が八代宮の「社務所日誌云々」のことを言いましたが、これは思いちがいでした(阿蘇神社と菊池神社にはありますが、八代宮にはありません)しかし私は八代神社を八代宮と考えてのことで、妙見社を八代神社と別称すれば、話は別です。念のため妙見社の社務日誌(明治四十一年六月十一日の條)を当たってみてください。あればシメタものです。

 愈来月中旬ごろには講演の準備を始めます。なるべく早く当日の配布資料の原稿を(成るべく一枚にまとめます)お送りします。草々

一九九五・六・二九
牛島盛光

 定本・柳田国男集別巻5の年譜によると、六月十一日、柳田は「八代神宮の社務所で神風連の残黨である緒方小太郎に會う」ている。柳田国男は八代に立ち寄っていた。しかし八代神宮は八代宮・八代神社(妙見さん)どちらとも受け取られるので、前記の先生の手紙になったと思われる。

 六月三十日、友人の小林緑郎さん(八代神社宮司)にこのことを尋ねたところ、熊本県大百科事典(熊本日日新聞社82年刊)を示してご教示いただいた。同事典によると、小太郎は「神風連の変で無期懲役、明治十四年放免、のち八代宮宮司となった⟨上田満子⟩」と説明していた。

 柳田の日程表では十一日の宿泊地が空白になっている。十二日熊本で講演しているから、八代に宿をとった確率は低い。緒方小太郎に会うのが目的であれば、三角から八代に来て、その日のうちに熊本に行ったと思われる。十三日、開通直後の肥薩線経由人吉に行ったので、八代駅周辺は車中からもう一度散見したはずだ。

 私にとっては、思いがけない、柳田国男との触れ合いを熱く重ねる一方で、並行して本番の河童サミットのレジュメつくりに牛島先生や丸山和夫先生と何度もやりとりをしながら、公開講座の準備を万端進めていった。      一九九五年八月