日野川紀行 河童九千坊と砂鉄(タタラ)文化

田辺達也

 隠岐ノ島でガラッパトーク

 隠岐ノ島で河童の講演をしたあと帰りを一日延ばし、境港から米子へ出て鳥取県西部を流れる日野川を散策した。日野川の河童代表が球磨川から移り住んだ九千坊という、楽々福(ささふく)神社(鳥取県日野郡)の伝説が気になって惹かれていたからだ。

 日野川の九千坊は、米子市の出版社(立花書院)発行の『日野川の伝説』(1996)と『漫画・日野川の河童』(98)に収録されている。前書は第一話に《河童の親分九千坊のこと》後書は付録《日野川の河童伝説・日南町の楽々福神社の河童》に載っている。 

 九州の住人とカッパ研究家には興味があるだろう。     

 立花書院の楪(ゆずりは)範之社長が私に出版案内をしたのは隠岐島後の河童統領・松岡豊子さんの社長は日野川の河童伝説集に西郷町八尾川(やびがわ)の民話『唐人屋(とうじや)の河童』を採録するとき私のことを聞いたという。八尾川の河童は有名だから山陰地方の伝説に必ず顔をだしている。唐人屋は松岡家の屋号で、海と渡来人のいわれが伝えられている。

 五年まえは神無月だった。稲の掛け干しが記憶にのこる。

 『全国かたりべサミットin隠岐』が《隠岐と河童伝説》をテーマに開催され、遠野と八代の東西代表が案内された。このとき私を推薦したのが松岡さんだった。そんないきさつで、楪社長ともつきあいがつづいていた。

 隠岐へ重ねてのご案内、同じ旅館の奇遇からこの島には不思議なえにしである。 島後全四町村共同で『河童交流会』が企画され、私にはメインステージ《九州の河童王国とかっぱ逹》が用意されたので百分をこえてお話したのだった。

 今度は隠岐島文化会館の島根勝館長や松本悦夫・佳都子さんご夫妻にも大変お世話になった。松本さんの屋号を奈良屋という。この屋号からも古代への夢がふくらむ。

 隠岐後のいざ日野川散策になるが、見ず知らずの河川流域へは心弾む冒険にしても、不慣れな道行きは右往左往するだろう。上石見まで8駅もあるから米子泊にしても帰りはきっと夜になる。当初計画は境港からJRかバスで米子へ出て、そこからJR伯備線で「上石見」まで行き、駅からタクシーを拾い(タクシーがあるかどうかは不明だが、あることにして)日南町の楽々福神社へ。その帰り「溝口」に下車してもう一つの楽々福神社へ行ってみたい、と。

 初めは「日野川の九千坊に是が非でも逢いたい」一心の浮いた高ぶりばかり。何もかもアバウトだった。事前に日南町の楽々福神社へ電話してはみたものの、あっちのことがすぐ分かる筈もなく、ほんの気休めにすぎなかった。

 ひとり旅は慣れてはいるものの不安は隠せない。隠岐への直前、立花書院の楪社長に楽々福さんへのコースを改めて確かめた。

「俺が境港まで迎えに出て楽々福神社へ連れていくよ。境港では水木しげるの妖怪ロードも一回りしよう。」

 日野川を知りつくした地の人のガイドとはありがたい。

 何という幸運か!

 八月二十七日、隠岐西郷港8時35分発境港行きの船は《レインボー》。同じ岸壁に停泊の七類行大型船《おきじ》は一足先に出港した。この船には五年まえ乗っており、そのときは七類から松江を経て米子に泊っている。唐人屋の松岡豊子さん、隠岐文化会館の島根勝館長、旅館松浜の斉藤一志さんらの見送りをうけ、隠岐ノ島に別れを告げた。

《おきじ》がグラマーなら《レインボー》はニンフ。一七〇人乗り、時速37ノット(68・5㎞)の水中翼船はあっという間に先発の《おきじ》を追い越し、朝日を浴びてキラキラ光る凪ぎの日本海を滑走した。

 水木しげるの妖怪ロードー境港

 港湾の奥深い入江「境水道」に入ってアーチ型の鉄橋をくぐると、船は十時ごろ境港に接岸した。鉄橋は鳥取と島根をつないで、堺水道の先に中海宍道湖が広がっている。

 十数年まえ、中海の締め切りに反対する全国的な運動を思い出していた。

 境港へは初めて。

 港湾は新開地か大漁港の雰囲気がある。

 立花書院の楪社長とも初対面、しかし河童の心眼ですぐに通じ合った。

 境港は米子から美保湾に突き出た弓浜半島の突端にある。

 ここは妖怪漫画でおなじみ水木しげるの出身地だ。港に隣接する駅前から妖怪プロムナードが1キロばかり伸びていた。ガイドマップには《ゲゲゲの鬼太郎》など83のオブジェが載っている。

 水木しげるのやさしいまなざしと豊かな夢のふくらみが可愛い妖怪群を生んだ。

 《カッパの三平》は有名だ。駅前から始まる水木ロードの一番目にあった。彼の河童への目覚めは割合早く、十四五年まえ『河童なんでも入門』を。七年まえの『河童千一夜』には「人間よりも義理人情に厚く、礼儀正しく、純情で、そしてちょっぴりいたずらな」と的確に記している。

 酒屋でもお菓子屋でも、店という店で人気キャラクターグッズが売られていた。妖怪神社あり妖怪屋敷あり。境港はいま全市あげ《ミステリーのまち》を売り出し中だ。

 楪さんは海岸線を東へ走らせ、鳥取県伯耆郡名和町の名和神社へ案内した。

 私(八代市民)への格別の配慮だろう。長年の研究者・富永源十郎さんに会う目的もあり、幸い在宅されて歓談することができた。富永さんは八代にも知られている。

 戦中、南朝の後醍醐や正成、義貞、長年、顕家ら太平記の面々を教育勅語と一緒におぼえ高徳の詩も吟わされた。名和の一統は建武の中興で八代庄へ下向、その後この地を百五十年領したのでゆかりのひとである。

 いよいよ米子から中国山脈へ向かい国道181号線に乗る。途中186号線に入りJR伯備線ぞい日野川源流域へ進んだ。

『日野川の伝説』の帯《山陰伯耆国ーきっと日野川を歩いてみたくなる》によると、日野川は「中国山地の三国山・道後山に源を発し全長約80キロ米の川で、日本海に注ぐ。周辺には鬼・河童・大蛇・怪獣など、さまざまな伝説が残されて」いる。河川事典は「流路76・8㎞、流域面積860㎢、支流25を擁する一級河川。皆生温泉で美保湾へ注ぐ」とある。県境の三国山は標高1004m、道後山は1269m。

 立花書店版の河童譚は十一話。その第一話から八代の河童九千坊がいつの間にか日野川流域の代表に納まり、楽々福神社で首座を占めている。

 嬉しいやら恐れ入るやら。

 楽々福と九千坊はどんな関係だろうか?

 楽々福神社ー日南町と溝口町

 日野川と国道とJRは曲がりくねり絡み合っていた。川幅はせまく水量は少なかった。

 楪さんは蛇行する川筋に深みが見えるたびに車を止め、「こっちはショウゴの淵、あっちは弘法ケ淵」と、淵にまつわる河童伝説をはなしてくれた。

 一時間ばかり、黒坂という町の「カワコ淵」という川ぶちの脇に光明寺という大きいお寺さんがあり、そこで小休止。

 若い住職さんから茶を一服いただいた。

黒坂あたりと日野川流域が鳥取西部大地震の震源地だった。

寺社仏閣や墓石の倒壊をはじめ個人住宅の被害は想像を絶して甚大だったようで、修復もまだ半ば、やがて一年になろうというのに、あちこちの屋根がブルーシートに覆われていた。国道筋に虫食い状態の空き地を散見したが解体の跡という。

楪社長はその日この流域で書店まわりしていて、黒坂から少し下った食堂で遅昼を食べていたとき地震に遭遇した。こんどもそこで食事したが、食堂のおばさんとあの日の凄まじさを交々おもい出していた。この食堂は小さな古い木造なので倒壊しなかったのが不思議なくらい。山間部は岩盤が固いのでこうして残ったという。もし鳥取級の大震災が軟弱な埋立地の阪神地方を襲っていたら、あちらの被害はもっと大きかったにちがいないと。 黒坂からさらに二十分ばかり遡った国道の左頭上に目指す楽々福神社(東の宮)があった。

車を止め急坂の石段を喘ぎあえぎ上った右わきに社務所がある。

楪さんは民話収集で再三訪れているのか若い宮司・木山典明さんと面識があった。

木山宮司は私の電話を覚えており、「八代からの訪問者は初めて」とよろこび本殿へ案内した。社務所から百米ばかり奥まった森閑の異界が切り開かれ、そこだけに光が差しこんでいた。まわりは杉の大木が林立して昼日中も薄暗い。本殿の造りは大きくがっしり新しく、遷宮後の経年は浅いように思われた。

 日南町宮内の楽々福さんの神社縁起は長いので意訳すると、ここに祀られているのは記紀神話の「孝霊天皇」とそのファミリーで、開運招福・願望成就の福の神になっている。

 孝霊は幼名を楽楽清有彦命、号を笹福(ささふく)という。このササフクが隠岐や日野川の鬼や大蛇を退治して山陰全域を平定、この地の祖になった。その子が「桃太郎」になって吉備の国の赤鬼青鬼を征伐した。以後この地を聖地として楽々福神社が創建され日野川流域の総氏神になった、と。

 噺はおもしろいが孝霊一統の武勇伝ばかり。肝心の河童はカの字も出てこない。

 明治元年(1868)楽楽福社として県社に、同七年楽楽福神社に改称されている。

 立花書院の『日野川の伝説」にかえると、ここの川祭りには楽々福の神が各地の神社総代を招きご馳走をする。河童九千坊は日野川代表としての出席だ。

 日野川で泳ぐ子供は、楽々福神社のお守りを入れた小さな竹筒を身につけると河童に尻をとられないという。

 楽々福さんのご神紋をいただきここを下り更に川すじを五百米ばかり。右折して小道の

奥にある細媛命(孝霊夫人に比定され、安産の神さまになっている)が眠る伝承の、西の宮の楽々福神社まで足をのばした。川に向かい合う男女の神様はわるくない。東の宮が一緒に管理しており社は無人だった。

 引返し、さっき楪社長が大地震に遭ったという食堂に寄った。強行軍だったので遅い昼飯になってしまった。

 下りの日野川中流あたり、国道から右へ枝道の入りこんだ田んぼの中に小さな森と大きなお宮さんが見えた。溝口町の楽々福神社である。

 この流域には楽々福さんが六社あるという。

「ここに参って宮司さんの自宅を訪問しよう。古代史に詳しいから楽々福と九千坊の関係

で、いいはなしが聞けるかもしれない。」と楪さんが言った。

 突然の訪問だったが家の主はきさくに応対した。蘆立(あだち)達雄宮司である。かなりのご年配とお見受けしたがかくしゃくとして艶がある。

 蘆立さんは、日野川の砂鉄産出と山陰製鉄史の視点から、楽々福の神々とは、実は、稲作農業と砂鉄文化をもった大陸渡来のカッパ族と考察されており、後日、そのことで自説の論稿をおくっていただいた。

 論理的でおもしろい。時間のたつのも忘れて一時間ばかり話しこんだ。

 日野川の砂鉄はタマハガネ又は和鋼として知られており、鍛造を業とする人や金属材料・採鉱冶金学を学んだ者は大方そのすばらしさを承知している。その砂鉄を狙って、昔々鬼や大蛇が現れ人里を苦しめるのだ。その窮状を見かね、謎の「大王と皇子」が鬼蛇をやっつけ平和がよみがえる。説話だから虚実混捏はあたり前にしても、神社縁起や鬼蛇征伐には天皇崇拝の濃い味つけと正邪善悪アベコベが多い。

 出雲路が暮れなずむころ、尼子氏ゆかりの城址を見上げ安来温泉街へ向かっていた。

私は車中で八代の九千坊河童の一統はなぜここへやって来、なぜここに定着したのかをあらためて考えてみた。 

九千坊の一統は先進文化を広めようと幾組にも別れ日本列島を東北へ向かったのだが、そのひと組は対馬海流の日本海ルートをたどった。その中途、石見の国の高津川や江川(ごうかわ)や出雲の神戸川にたち寄り、伯耆へ入って海中に噴出する米子の皆生(かいけ)温泉と三保湾に注ぐ日野川の河口に到達した。

 そのとき彼らはそこに日奈久温泉と球磨川を重ねたにちがいない、と私は思った。

 それだけではない。河童九千坊の慧眼は浅瀬や砂浜に黒光りの帯を見たのだ。

 江南で体得した精銅・製鉄の知識と経験、そして砂鉄の取引きで川内川や菊池川を行き来した不知火・有明の河口域の光景、川筋の風景から鉄の存在を直感したのだった。

 ベンガル伝来の砂鉄文化

 日本史の画期は稲と鉄である。稲の伝播・伝来によって人は水環境のよいところに定着して共同社会を営み農業生産を始めた。その稲作生産を飛躍的に発展させた道具が鉄製農機具であった。

 八代の「オレオレデライタ」伝説によると河童九千坊の一統が古代中国(呉の国)から新しい文物を携え渡来した。九千坊は新しい農業(稲作技術)と新しい金属(製鉄技術)を日本に伝えたのだった。

 どうせ河童のはなしと本気にしない人もいる。しかし稲作のみならず製鉄の日本への伝播も、江南の海人族・河童族がもたらした黒潮文化である。青銅器もそうで、中国の銅の主産地は江南域の雲南・広西チュアン・湖南である。

 日本のアカデミズムには、文献史学の立場から鉄文化は古代朝鮮からときめつける傾向があるという。これは赤鉄鉱・褐鉄鉱から銑鉄→鍛鉄へ、多段階製鉄法のはじまった古墳後期から飛鳥以降を製鉄の始まりとする狭い考えで、砂鉄文化を知らないか無視していると異議を唱える人もいる。

 日本古来の砂鉄文化は文献に見えにくい。経験と口伝による門外不出のシャマーニズム的秘伝として継承されたからだろう。

 製鉄の世界史は古いのだ。メソポタミヤが五千年、ギリシャ四千年、インド三千年、中国は二千五百年といわれる。

 砂鉄文化で日本とゆかりの深い国は「鉄の国・ハガネの国」のインドである。砂鉄から鋼をつくった大先輩がベンガル地方にいたのだ。世界で磁鉄鉱系の砂鉄から直接ハガネをとるのはインドと日本だけといわれる。

 原始的な製鉄は、地面に穴を掘り(露天炉)そこに砂鉄をいれ木炭を重ねて燃やすのだが、送風は自然の風任せ。「野ダタラ」という。しかし鉄は銅や金など非鉄金属に比べ溶融温度が1・5倍も高いので、野ダタラ製鉄は気まぐれ。雨が降れば火も消える。

 インドでは初歩的な溶融炉として粘土性のつぼが用いられるようになり、送風機としての踏みタタラ(ふいご)も考案されて製鉄技術は進歩する。日本では古代製鉄の職能集団をタタラ族ともいうが、タタラの語源はサンスクリット語(古代インドの文語)のタータラ(熱)といわれる。

 ベンガルのハガネや刀のつくり方は、紀元前後、民族の移動や東西交易によって、東方へは当時印度領だったカンボジアへ広がり、東南アジアからは漂海民(河童族)によって言葉と一緒に日本へ伝わった。日本の砂鉄の本場⟨鳥取と島根⟩ではハガネのことを「ケラ」とも言うが、語源は印度ヒンズー語「サケラ」の変化したもの、日本語の刀もヒンズー語の切る意味の「カートナ」から、ビルマ語の「カタナ」も同系といわれる。

 以上から日本の製鉄法と製鋼の源流はどうやら印度のベンガル辺りか。

 中国では「鉄」の文字は紀元前5世紀の春秋時代に現れるようだ。河童族の呉の国と関係するので書いておくが、伝説によると呉の国の男女が共同してフイゴを使い、はじめて名刀をつくったので、戦国時代、呉越を中心に製鉄業が盛り上がったという。

呉と越は「銅と塩の国」だから青銅器文明のルーツでもある。江南では合金・鋳造が発達、鉄との合金(ステンレス)にも生かされていく。製鉄も本場、大治鉄山をはじめたくさんの鉄鉱山があった。何でも呉の国渡来(オレオレデライタ)に結びつけるようだがウソにはならないだろう。

 ただここでは前述したように、砂鉄からの直接法と異なり鉄鉱石からまず銑鉄(不純物の混じった粗鉄)をとり出し順次錬鉄に仕上げる多段階法。だから砂鉄のハガネよりナマ

クラ?が多かったといわれる。かって青龍刀にたいする蔑視も、たぶん素材と製法のちがいからと思われる。日本の近代製鋼も山陰のマサ小鉄(こがね)には劣るという。

 古代山陽の吉備地方も鉄の国であった。ここの鉄はアコメ小鉄として知られており、そのためここも「桃太郎」に狙われ国ごと奪われる。山陽の鉄は山陰の磁鉄鉱(マサ小鉄、楽々福神社の蘆立宮司はマサに「真鉄」を当てておられる)とちがい、主に赤鉄鉱(赭石といわれる酸化第2鉄)から銑鉄をとるので中国・朝鮮方式になるだろうか。鋼性に劣り主に農機具とナベ・カマがつくられた。

 このように河童族のもう一組は瀬戸内を東上しながら吉備の国へ住みついた。九千坊は福山の芦田川や総社の高梁川、岡山の旭川や津山の吉井川の流域でベンガラ色の赫い山肌に気づいて、ここでも新しい稲作農業と銑鉄の技術を伝えたのだ。

 いづれにしても、日本への鉄と鋼の伝播には、インド洋から南シナ海経由にせよチベット・ヒマラヤ経由にせよ、呉越の河童族の協力が前提になったことは容易に想像できることである。

 安来の泥鰌(どじょう)すくい

 蘆立さんの論考は長文なので整理すると、楽々福さんの祭神は鉄の神であり河の神である。鉄の神が河の神に推移していく必然が鉄の神の推移過程で、当然たどる道である。

鉄産業は、(1)浜砂鉄(2)川砂鉄(3)山砂鉄と鉄原料を求める立場から(1)~(3)の時代区分ができる。(3)は山の砂を掘り出し水流(比重差利用)による選別時である。その施設を鉄穴(カンナ)といい、カンナ流しという。     

 カンナ流しで河川は濁流となる。「ヤマタの大蛇(オロチ)」はそれを形容しており後世は明らかに公害の対象になる。そのため楽々福神社では春祭と秋祭を境にして農業期と鉄穴期に大別、神の名でその季節間産業主体の役割を演じることになった。つまり「河止め」と「河明け」である。

 楽々福さんと河童の話はこの期のはなし。川を支配する神の力の物語りである。楽々福神社の祭神・孝霊天皇の伝承は大陸渡来の製鉄集団を神格化したもの、記紀の普及に及んであらわれる。

 補足すると、ササフクの「さ」は「微細・砂・鉄」の意味があり、「ふく」は「吹く」である。だから「ササフク」とはきめ細かな砂鉄によるタタラ製鉄のことをいう。ヤマタのオロチ退治の英雄・素佐鳴命の「スサ」は「素鉄」であり砂鉄を擬神化したもの。安来節の泥鰌すくいの元々の姿は土壌すくい。砂鉄をとる労働のことを指すという。

 金気を嫌う河童のはなし

 さて日野川に着いた九千坊は、砂浜に黒光りする小さな金属粒を見逃さず、この川の上流に宝の山を直感した。伯耆・出雲・石見の山陰地方は磁鉄鉱と銀鉱石の宝庫であった。

 楽々福神社の蘆立宮司は、鉄産業は(1)浜砂鉄(2)川砂鉄(3)山砂鉄に鉄原料を求める立場から(1)~(3)の時代区分ができるとされたが、楽々福神社の在地点からもそれを裏づけている。

 日野川の砂鉄はタマハガネといわれるマサ小鉄のもとで、磁性の強い磁鉄(マグネタイト)から還元される。磁鉄鉱は黒色金属や亜金属の光沢を発するので、九千坊が日野川河口でみた光景は浜砂鉄の発する金属光だったのだ。河口に浜砂鉄の存在は、この川筋がまだ手つかずで、しかも上流の山間部には無尽蔵の磁鉱石が眠っていることを予感させた。亜金属の光沢はクロームの彩色でもあった。

 鎌倉以来の伝統を誇る八代の刀匠・盛高経猛さんによると、球磨川には砂鉄がないので菊池川か川内川から購入してきた。「鋼質で日野川の砂鉄には太刀打ちできない。歩留りは九州が30%、伯耆は60%と格段のちがい」と、日野川に軍配をあげた。

日野川砂鉄の積出港として栄えた島根県安来市には和鋼博物館があり、日本の砂鉄文化を再現している。展示室の天秤ふいごや鈩製鉄(タタラ)用具は国の重要民俗文化財である。日立金属もここで操業し鋼製品をつくっている。

 前出・銑鉄文化の朝鮮渡来に係り、鉄が日本の文献に顔を出すのは奈良時代の風土記あたりからか。平安時代に入ると農村から鉄製品の収奪が激化する。貢物の「庸」としてクワ(鍬)を納入したのは、伯耆(鳥取)美作・備中(岡山)備後(広島)筑前(福岡)の五か国(十世紀の延喜式)にすぎなかったようだ。

 日本では鉄資源が乏しく明治の殖産で八幡に製鉄所ができると外国から鉄鉱石を輸入するようになる。しかしそれまでは、とにもかくにも、山陰・山陽だのみ。明治初期(1874年)の記録に、砂鉄製鉄所416・製鉄は年間五千㌧。産地は両域に集中していたとある。

 日野川に移り棲んだ九千坊の、この地の暮らしは長いあいだ半農半鉱だった。砂鉄収集は農閑期に共同で行い、主に農耕器具、狩猟・漁撈用具、建築用刃物に用いた。蘆立説のとおり、秋の彼岸から来春の彼岸までが砂鉄とりと炭焼き(製鉄用の燃料、砂鉄1に木炭1が推定必要)の季節と決まっていた。

 九千坊は農作業の合間に苧(カラムシ)も採集した。麻の一種で、皮の繊維で布を織り縄をなった。しかし古代国家の成立する古墳時代以降、鉄器の需要が急増し砂鉄産地は鉄ラッシュに沸いて、各地から砂鉄すくい(土壌すくい)が流入するようになり、後では専業化へと進んで鉄穴師(カンナシ)が形成されていく。

 平和な時代もつかの間、稲作地帯と鉱山の支配と収奪権をめぐり、やがて豪族間、小国間の覇権争いが始まる。そのとき鉄は農機具から殺りくの凶器に姿を変えていく。

 河口の浜砂鉄がとり尽くされると川砂鉄のある中流域に移動する。中流域を取りつくすと源流域の山砂鉄へ向かっていく。出雲鉄の鉱脈は日野川上流西岸の山麓にあり、そこは砂鉄採集都市に変貌した。最盛期、日野郡に数百か所、年間三百万貫(11250トン)の砂鉄を採集したという。

 明治のころ日南町には旅館五軒、置屋三軒の記録がある。この流域にステンレス合金やメッキ用途等のクロームも発見されたので鉱山ブームに輪をかけたと思われる。 

  蘆立さんにもあるが、砂鉄を採集する施設(場所)を鉄穴(カンナ)といい、これを洗い流して精選するのが鉄穴流(カンナナガシ)である。山上のため池から放流した激流で鉄含有の山泥を洗い流し、水路に比重の重い砂鉄を沈殿させて採集する。この鉄穴流で下流域に甚大な泥流と鉱害が発生、上流の鉱山師と流域農民の対立が深まった。

 タタラ製鉄に造詣の深い国土交通省日野川工事事務所の高平昌一副所長は、「たたらの操業に不可欠な鉄穴流は、洪水の度に多量の土砂を下流に押し流し、カッパや大ハンザケが棲んだり、悲恋の美女が身を投じたと伝えられる多くの淵は見るも無残な姿を曝す破目になった」と述懐している。

 金気を嫌うかっぱ伝説が全国に分布している。伝承地あたりか上流域には鉄や銅の採掘と精練の跡があるはずだ。河童は公害と職業病に苦しむ農民であった。クローム鉱山の労働者は六価クロームの病毒に冒されたのではなかろうか。

 山陰地方は製鉄燃料の木炭資源にも恵まれた。重量が軽く火熱がやわらかいので大鍛冶や小鍛冶の錬鉄製造に向いていた。鉄の大量生産が求められ木炭の需要も増加する。年間一万貫(37・5トン)つくった粘土で固めた炭焼きガマの跡もある。

余録ー日野川の松本清張と井上靖

 鳥取県日野郡の町村は日野川に張りつく山峡の里である。

 そのひとつ、楽々福神社へ向かう道筋に「矢戸」という集落があった。日南町の中心になるのか、公共施設を散見し個人住宅も多い。

「あれだよ」と楪さんが指さす道左の一段高い広場に記念碑がみえた。

 松本清張の文学碑だった。

「楽々福神社を先行し、ここは帰りにゆっくりと。」

 日南町矢戸(旧矢戸村)は松本清張の父峰太郎の故郷である。

 『半生の記』(河出書房新社1966初版、清張没後の92増補版)に「父の故郷」が最初にみえる。「峰太郎の思い出話の中には必ず日野川の名が出てくる」と記している。

 清張は一九六一年、山陰へ講演旅行をした機会に米子から朝早く車でここに来た。そのとき親戚に請われ「父は他国に出て一生故郷に帰ることはなかった。私は父の眼になってこの村を見て帰りたい」と書いている。

 二年後、連載『回想的自叙伝』を書き始めるが、そこに《父系の指》があり、後で『半生の記』に改題されている。

 清張文学碑は一九八四年建立。碑には「幼き日夜ふと父の手枕で聞きしその郷里矢戸いまわが目の前に在り」と刻まれていた。

 矢戸の文学碑にたたずみ、私はなぜか不図《砂の器》が思い浮かんだ。物語りも舞台も人物も違うけど、砂の器と清張父子は何かがどこかで重なり合っているように感じた。

「清張の父方の係累(田中家)のなかで、清張が心を許しあった親友が健在だから訪ねてみよう。」と楪さんが言った。その人、久城英雄さんを知っているからと。折よくご本人在宅、喜んで応接間に通していただいた。

 久城さんの奥さんが清張と縁つづきの旧姓田中さん。当の英雄さんはアメリカで少年時代をすごし、社会人は満鉄勤務など外国での長い暮らしからか、洗練された知識人の風貌があった。アメリカ時代、二階堂進(後年の副総理)との交友もあったようだ。

 久城さんは清張との故旧を懐かしみ、たくさんの写真や手紙を出していただいた。はなしが弾み小一時間経っていた。

 楪社長の人脈と人徳、友愛と積極性のお陰で幾重にもついていた。

《楼蘭》など西域もので大好きな井上靖ゆかりの場所もある。

 私が最初に楽々福神社へ行くため下車しようと思い立った駅がゆかりのJR上石見である。敗戦直前の一九四五年六月、靖は家族をここ福栄に疎開させている。

 新聞記者のころだ。

 一九四九(昭24)年発表の《通夜の客》(別冊文藝春秋)にこの駅が描かれている。

「夕方の急行で東京を発ち、その翌日の昼、岡山で伯備線に乗換え、あのいかにも高原の駅らしい上石見の小さくて清潔なプラットフォームへ降り立った時はもう暮方でした。」

 文学碑に「ここ中国山脈の稜線天体の植民地風雨順時五殻豊饒夜毎の星闌干たり四季を問わず凛々たる秀気渡る ああここ中国山脈の稜線天体の植民地」(一九七八年建立)と刻んでいることを知った。残念ながらここには寄らなかった。

 ちなみに井上靖は川の一途さを愛したロマン派である。しかしダム問題に早くから警鐘を鳴らした河童族であることは余り知られていない。

 靖は四十六年まえの短編《川の話》にダム工事への怒りを噴流させている。

 私たちは先輩たちが発した危険信号をないがしろにしてはならないと思う。

 川辺川ダムの是非をめぐって大論争のさなか、この作品は一読の価値がある。

 この日、日野川流域の散策はたっぷり九時間、走行距離は200㎞に及んだ。

 楪さんに心から感謝したい。

 以上、球磨川の河童九千坊が鳥取県の日野川に移り棲み、その流域の代表になったあちらの河童伝説についてその背景を探ってみた。ただ私の論述は河童流なので、真偽の判断とつじつま合わせは各位お好きなように。

 

参考資料(年代順)                          安田徳太郎『人間の歴史6』光文社1957

井上靖『川の話、あすなろ物語』旺文社文庫1966

盛高靖博『夜豆志呂17・18合併号、日本古代の鉄と刀工』八代史談会1971

盛高靖博『夜豆志呂58号、古代日本の鉄をたずねてータタラ研究会熊本大会講演』八代史談会1980

楪範之編『日野川の伝説』立花書店1995

寺戸良信『漫画日野川の河童』立花書店1998

高平昌一『日野川今昔写真集、日野川の文化はたたら文化』立花書店1999

八代史談会誌「夜豆志呂」138号2002、2刊