随想 八代がらっぱ物語

信友社賞を受賞して

田辺達也

 風土は個性・独自性を主張する

 河童の研究は民俗学(フォークロア)の領域とされてきました。民俗とは「民間に伝えられている風俗・習慣・伝説など」、民俗学とは「主に自民族の伝統的な生活文化・伝承文化を研究対象とし、文献以外の伝承を有力な手がかりとする学問」(国語辞典)ですから、基本的にはそうなると思います。

 長いあいだ文字・文献から遠避けられてきた私たちの祖先は、暮らしの大事や喜怒哀楽を、処世訓や寓話などの形で口づて代々伝えてきました。口承説話が名もない民衆の郷土史といわれるゆえんです。文字と紙の支配者による歪曲の歴史と対比されています。

 いきなりですが、河童の定番に「胡瓜を好む 尻をとる 相撲をとる」があります。水棲の魔性や説話の回遊からして類話の氾濫はやむを得ません。しかし、ところ変われば、河童の呼び名も噺(はなし)の筋や語り口も地方色が滲み出るのか微妙なちがいを感じます。伝説が歴史や自然の衣をまとって語られるからです。

 風土は個性・独自性を主張したいのです。

 河童共和国は、民俗学の手法(むやみに味つけしない「ありのまま・あったること」)を大事にしながら、この学問のやや内向きにこもりがちなハンディを補う努力をしてきました。八代の河童伝説をしっかり組み立てる上でも大事なことでした。

 早いはなし、八代には河童渡来の碑に刻まれた「オレオレデライタ」の8文字があります。この8文字はなぜ刻まれたのか? どんな意味があるのか? 記念碑建立時の長老たちも亡くなり、この解明は半世紀のあいだ手つかずのままでした。民俗学の古典的手法には、説話成立の歴史的背景とか物語の独自解釈に深く立ち入ってはならないタブーめいたものもあったと思います。

 アマチュアであったが故に私たちはその掟?に縛られずにすみました。少年時代に読んだ古代エジプトのロマン(ロゼッタ石の象形文字)に重ねて夢想、「この碑文には何かがありそうだ」と謎解きを試みたのです。

 手探りといえば手探りのなかで瓢箪(ひょうたん)からコマになりました。河童共和国・建国七人衆の智恵は、八代の河童伝説を、古来、海外との交流を物語る擬人説話(呉越の海人渡来)と読み解き郷土史に新しい光を当てたのでした。

 河童学とその先達

 あれこれ論議するうち、河童誕生の背景とその正体、現代の河童ブームを解明するには(ズバリ、河童を知るには)社会科学・自然科学すべて学問の応援が必要と考えるようになり、この領域の研究を特化する学問としていつの間にか《河童学》と名づけておりました。河童の姿は、人と自然、人と人との関係、そして時代の気分を読みとるなかで、初めて見えてくると確信したからです

 しかしこの思考・手法は、何も私たちの専売特許でない大先達の存在と労作を知ることになります。紙面の都合で僅かしか紹介できないのは残念ですが、今から35年前、日本で最初の、河童愛好家の単一組織の結成に参加した大野芳さん(作家、かっぱ村村長)の著書、たとえば『河童よ、きみは誰なのだ』(中公新書)。河童研究50年の和田寛さん(河童文庫理事長、民俗学者)の膨大な論稿集、特に《河童通信、通巻314号》(私家版ブックレット)。利根川の金井啓二さん(詩人・郷土史家)の『河童考ー利根川流域の先住部族』(崙書房)を読んだり、台湾かっぱ族の碩学、林錦松さん(台北かっぱ村村長)が第3回世界水フォーラム京都・水の苑(03年)で発表された、淡水河(台北)から球磨川(八代)への河童渡来説など、説話の背後には様々なエピソードが秘められていることがわかり共感しました。

 声高に《河童学》を呼称しようがしまいが、河童の実像に迫る豊かな研究の粋は、在野の知識人のなかで、すでに成長期に入っていたのです。四氏とも八代を訪問し河童渡来の碑を見学されています。

 アカデミズムにも変化が起きていました。歴史学と民俗学のコラボレーションです。

 熊本県菊池市の天地元水神社から古文書(渋江文書)を発掘、水神信仰の起源と祭祀の系譜を解き明かし、河童国産説に光りを当てた小馬徹さん(神奈川大学院教授)は、一九九〇年代、すでに《歴史民俗資料学》という新しい学問を提唱されていたのです。

 小馬教授は四年まえ菊池市開催の地名シンポジウムでも「水神・河童研究は歴史学と民俗学が同じ土俵で同一事象を共同研究できる可能性を秘めており、歴史民俗資料学創生の手がかりを得た点で意義があった」(『渋江家文書に見る河童信仰』)とのべています。歴史民俗資料学は、河童・水物語を科学の眼で解明する八代《河童学》の切り口・流れにマッチしているのです。

 妖怪学の権威、小松和彦さん(日本文化研究センター教授)は、近刊書『妖怪文化研究の最前線』(せりか書房)でも、「妖怪研究は人間研究である」という持論を展開しています。ここでは⟨妖怪⟩を⟨河童⟩に差し替えてもよいのです。兵庫県立博物館学芸員の香川雅信さんも、この研究は「一見通俗的に見えながら、実はさまざまな学問分野を踏まえた上での広い視野と柔軟な思考が要求される、きわめて高度な⟨知⟩の領域なのである」(同書評)と述べています。

 熊本県出身の民俗学者で地名研究者の谷川健一さんは、直近の熊本(川尻)地名シンポジウムで、「人も文物も歴史の大きなスケールのなかで動いている。かすかな印象の切り口を通して、自分の体験を普遍化していけば、いろんな問題を発展させることができる」と講演しました。

 意を強くしています。

 異色の知的集団

 河童共和国の幸運は、「オレオレデライタ」の解明や河童渡来伝説構築の成果からも明らかなように、異色の知的集団として出発したことでした。パロディ国家ゆえに奇想天外でもあり、聖俗・清濁あわせ呑む居心地のよい魅力もありました。デフォルメ大好き、異なる研究対象を多彩に深く究めて応用力あり、アカデミズムにも染まらず批判精神旺盛なリベラリストが結盟する、現代の梁山泊めく寄り合いとして、一九八七年、胎動が始まったのです。

 この魅力に惹かれて、作家・劇作家の井上ひさしさん、共同通信社の論説委員長だった内田健三さん、医学者でエスペランティストの鶴野六良さん、直木賞作家の光岡明さん、民俗学者の石川純一郎さんや牛島盛光さん、農学者の清水正元さん、水俣学の原田正純さん、人文地理学者でミニ独立国研究者の白石太良さん、霊長類学者の藤井尚教さんら、各界の知識人がエールをおくり河童とのつきあいを深めたのでした。

 このやまなみを書けば延々切りがないので別の機会に譲りましょう。

 歩いた・会うた

 柳田国男や宮本常一、谷川健一や江口司らがそうであったように、民俗学の基本はどうやら歩くこと、いわゆる現地探訪(フィールドワーク)に尽きるような気がします。私たちも建国から二十数年、全国ほぼくまなく駆けめぐったので実感頻(しきり)です。

 現地探訪とは、河童伝説のあるところ、河童族の活動拠点、川と湖と海の流域へ出向くことで、河童主題のエンタメばかりか水環境の学際的な会合にも積極的に参加しました。そこでご当地の風土をはじめて理解し説話の成り立ちに合点することが多いのです。その一方、多くの人を八代に受け入れナビゲーター役を果たし、あるいはマスコミの取材にも協力して八代がらっぱ物語を積極的にPRしました。

 これは初代・串山弘助大統領、2代・福田瑞男大統領以来のよい伝統です。両先輩は河童サミットだけでなく、水郷水都全国会議(四万十川や柳川)など水環境問題や、井上ひさし主宰の遅筆堂文庫生活者大学(山形)が論議する農村・農業問題にも深くかかわり活動のウイングを広げました。

 現場主義は動的で水魚の交わりを進化させ友愛の絆を固めるのに役に立ちました。河童共和国の豊かな人脈と知識は全国行脚のたまものです。福田ー田辺(2人3脚)の河童游々もすでに二十年ばかりつづいて、今ではすっかり有名になりました。

 文化力の酵母菌

 河童共和国の力量は日奈久ペンクラブの影響がプラスしております。日奈久のガラッパ&ドクター福田瑞男さんの存在が大きく、河童の会員さんもこれまで何人もがペンクラブの同人として文学を論じて感性を磨き書く訓練を積んできました。

 日奈久ペンクラブは小さな文芸集団ですが、五十七年の歴史を有して熊本県では最も息の長い活動をつづけており、月報や同人誌『草原』もきちんと発行しています。かく言う私も会員として十七年、この間、例会に欠けなし出席、四~五枚の掌篇なら50点ばかり、三~四十枚の短篇は10作ばかり発表しております。

「継続は力なり!」といいます。書く努力の積み重ねは筆力の質的高まりをうながし、質の高まりが更に量を増す相互作用、いわゆる弁証法的発展(螺旋状の展開)を、河童共和国と日奈久ペンクラブの歳月のなかで実感しています。

 今回、思い掛けなく信友社賞の栄誉に浴しました。経年32回の受賞者で八代市民は四人。全員ペンクラブ同人の不思議。受賞理由も短歌・河童・医学・映画など多彩です。

 河童共和国の豊潤にはペンクラブの酵母作用があったと感謝しています。  少々の手褒めにはご容赦を。

初出・水魚の交わり(不知火出版会)
二〇一〇年一月