河童のオペラ 海外公演へ

田辺達也

 昨夏、八代市厚生会館で初演のオペラ《かっぱの河太郎》が、来春イタリアで公演されることになった。三月下旬、ミラノ市のテアトロ・ヌオーボ、ローマ市のテアトロ・ギオの両劇場での公演が決まり、このほかシチリア島カルタニゼッタ市立劇場からのはなしもある。在熊本の歌劇団「熊本シティオペラ」の関係者三十人が渡航し熊本弁でうたい、会場には対訳を配布する。

 八代の河童がオペラの本場に進出し熊本弁で紹介されるのは、こりゃ愉快、おもしろい、有難い。このオペラを企画し初演に関与したひとりとして、海外公演の成功を心から期待する。

 すでに良く知られているように、オペラ《かっぱの河太郎》は、第3回九州河童サミット・八代95のメインステージとして、主催者の河童共和国(福田瑞男大統領)が在熊の文芸関係者に脚本・作曲・上演を依頼してプロデュースした作品である。

河童共和国はこの歌劇を「日本で最初のオペラのマンガ」とパロディ風に喧伝したように、オペラを誰にでもわかりやすく親しみやすいものにする新たな試み《オペラの大衆化》を実験して成功させた。この文化創造の出発点と舞台が河童渡来伝説のルーツ・八代であった点大いに意義深く、河童共和国の先見性・イニシアチブは評価されてよいだろう。

 この作品はその後、熊本産業文化会館、東京帝国ホテルで相次ぎ公演され、いずれも盛会であった。こうして熊本(八代)で生まれた新しい河童のオペラは、熊本シティオペラを核にその熱演も得て、少年少女合唱曲「河童渡来の碑」(中山秋子作詞・中山義徳作曲)と対になり定着しつつある。

 

 河童のオペラのヨーロッパ公演については、我われは、昨年、脚本家の佐藤幸一さんにチェコ音楽祭への出演を提言していたところ一足先にイタリアで実現することになり、さすがオペラの本場(の眼力)は違うと感心している。熊本シティオペラ佐久間伸一代表の実績と人脈によるものと思われる。

 そこで日本人の眼には河童は日本固有のものと映りがち。でも水の妖精・精霊はどこにでもいる。とくにヨーロッパの森と湖、国境をいくつもまたぐ大河流域のそれぞれの地域ーアイルランド、イギリス、スエーデン、チェコ、スロバキア、ドイツ、ノルウエー、デンマーク、フィンランド、フランス、ロシア他にも河童の百態千話が多彩に伝承されている。つまり河童は、もともと地球人共有のアイドル・カントリーシンボルなのである。

 ところで、我われが佐藤さんに海外公演先としてチェコを提案したのも、それなりに理由があった。ヨーロッパ最大の音楽祭・プラハの春の開幕を彩る交響詩・わが祖国第二曲『モルダウ』に注目してほしい。

 ボドルジハ・スメタナは、母国の自然・風物・歴史を音楽的に感動的に描写し、そこに河童の出番をつくっている。

 モルダウの標題には、「ボヘミアの森の奥から流れる二つの水源は、岩に当たってくだけ、やがて合流して朝日に輝き、森や牧場、楽しい婚礼が行われている平野を流れていく」と書かれ「夜になると水面に月光が映え、河童が踊る」とつづいている。

 チェコの童話に描かれる著名なヨゼフ・ラダのイラストにも、湖面に月光が映え、そこに河童の思案げにたたずむ姿がよく見かけられる。チェコの(河童の)童話は邦訳もあり、私は数冊を八代市立図書館に寄付している。身近な研究には、田辺ユイ子の『チェコ童話の中の河童さん』(タウンやつしろ41号、1987年)もある。

 とにかく、チェコでは河童が活躍し童話の世界の人気者。河童のオペラが「プラハの春」で喝采を浴びること請け合い。熊本にもチェコ友好協会があるので話は通しやすいはずだが。

 河童のオペラは中国にもすすめたい。中国の「江」と「河」は西遊記の沙悟浄の舞台ではないか。とくに、最近、八代市と友好姉妹都市の縁組を実現した北海市は江南呉越の港まちである。イネの栽培や操船漁撈に長けた河童九千坊の一統が、千七八百年前、この辺りから、呉服やシュウマイのお土産をもって、八代へ船出したかもしれないのだ。

 この推定は、球磨川河口・徳渕の津にある河童渡来の碑に刻まれた「オレオレデライタ(呉の人がたくさんやって来た)」からも容易に理解できる。北海市で、もし、河童のオペラや合唱曲が披露されなら、まさに河童九千坊の里帰り。現地は大いに沸き日中最良の文化交流になるだろう。

 オペラ《かっぱの河太郎》や合唱曲《河童渡来の碑》の舞台は、ヨーロッパと中国に限らず、水環境に恵まれたところ、例えばガンジス、チグリス・ユーフラティス、ナイル、ミシシッピー、アマゾンその他の流域に無限に広がる夢をみる。

「世界の川は河童を愛し、水物語を競う!」

 こうなれば、水文化の発進基地、河童の国際親善大使ー八代市の役割は大きくなるばかり。                                                               一九九六年