淡水河から球磨川へー河童渡来の新伝説

2004・河童の国際会議(台北)での講話

田辺達也

■台北かっぱ呉景聡さんのこと

 河童共和国の田辺でございます。河童共和国の官房長官、河童連邦共和国では副大統領のひとりとして河童文化発展・水環境擁護に微力を尽くしております。

 先ほどお話のあった台北かっぱ村開村のエピソードのなかに、初代村長・呉景聡先生のことが回想されました。

 呉さんは八代にも2回お出いただいております。最初は七年まえ、かっぱ大学公開講座出席のため。河童共和国は河童芸術大賞を贈っております。もう一度はその翌年です。天草島の栖本町で第6回九州河童サミットが開かれたとき、私の自宅に宿泊され翌日ご一緒して天草へ行っております。栖本サミットでは世界一長いカッパ巻き(胡瓜の海苔巻き)に加わっていただきました。カッパ(巻き)一本で212mの長さはギネスに載って未だに破られておりません。そんなおつき合いからも大変懐かしく、ご冥福をお祈りいたします。

■河童共和国と八代

 初めてお会いする方もたくさんいらっしゃるので、河童共和国と八代を簡単に紹介いたします。

 河童共和国は、西九州の八代市内に首都をおく人口50人ばかりの、遊び心旺盛な、パロディ共和国でございます。一九八八年二月建国、その年八月、日本で最初の河童サミットを八代で主催しました。このとき採択されたサミット宣言にもとづき、翌89年第2回びわ湖サミットでかっぱ愛好家の全国組織『河童連邦共和国』が建国されました。

 私たちは一九九五年、九州河童サミット(第3回)を主催。八代初演の河童のオペラはイタリアへ渡り対話つきで公演されました。出版活動が盛ん。情報発信基地の役割も果たしております。

 八代市は人口十一万人、日本では中規模の都市になります。九州3大河川のひとつ、流路115㎞の球磨川が河口に至り、九州西域の不知火海と出会う水環境に恵まれたところ。古代から人の暮らしが始まっております。中国・インド・朝鮮の先進文化も海の道からいち早く伝わり、中世には東南アジアのベンガルやシャムはいうに及ばず西欧のローマやリスボンにまで知られた国際都市としての名声が記録されております。

 八代には、古代、河童・呉の国渡来伝説や中世、クリスチャン河童渡来説など、たくさんの説話が語り伝えられております。呉や越は江南地方の水にゆかりの人々の国のことで、八代の河童伝説は活発な海外交流を偲ぶよすがとなるものです。

 台湾とのおつき合いも、このあと林先生の説話を紹介する形で、河童に思いを託した淡水河と球磨川の水魚の交わりをお話ししたいと思います。

 八代には、不知火海の澪すじと球磨川河口の接点に⟨徳渕の津⟩という古い船泊り、ここに『河童渡来の碑』という石文があります。《オレオレデライタ》という謎めいた物語りが刻まれて、エジプトのロゼッタ石に劣らぬ不思議な碑(いしぶみ)とされております。

 私はここ球磨川の河口で少年時代から河童(ガラッパ)と泳ぎを競い、青年時代になっては水環境を考え水文化をまもる運動に微力を尽くして参りました。

■台北サミットを祝す

 ご挨拶が後先になりました。本年六月、八代で『かっぱ大学公開講座及び河童芸術大賞表彰式』を開催しました。このとき台湾から大型代表団が来日され、公開講座の成功に寄与していただきました。有難く厚くお礼申し上げます。

 そして今回こちらのサミットに招かれ、そのうえカッパ談義の機会まで与えていただき大変光栄に思います。河童がメインテーマのユニークな国際会議が台北で開催されることを、日本の河童族はこぞって歓迎し、盛会を心から喜んでおります。本会議の準備と受入れにご努力いただいた、林錦松先生はじめ台北かっぱ村のみなさん、そして台北市の行政・官民各界のご協力とご支援に深甚の敬意を表します。

 このような平和的で楽しく笑いのこぼれる催しができるのも、自由と民主主義、人権と生活向上の理念のもとでお国づくりに励まれる皆様のご努力のたまものと信じます。今後ますますのご繁栄を心から祈念するものです。

 私たちは、水文化交流の民間大使として国際親善の実をあげ、併せて、訪台の機会に貴国の歴史とフォークロアの有りようを学び、観光も楽しみにしています。私自身、台湾訪問は初めてのこと、妻を同伴し、わくわくしながら参りました。昨日は早速、国立故宮博物院を見学させていただきました。明日は幾変遷の歴史を語る淡水市を訪問する予定です。

 本会議をご縁に双方の交流が益々盛んになることを希望いたします。

■河童渡来の新伝説

 ときに台北かっぱ村の林先生は、昨年、京都で開催された第3回世界水フォーラムの水の宴・河童分科会で日台交流の新伝説を発表されました。球磨川の河童は淡水河のカワペが渡来して棲みついた、淡水河のカワペは三蔵法師にお供した河童沙悟浄の子孫だというものです。

 この説話に日本の河童族はうーんと唸りました。中でも新鮮な驚きをもって一番喜んだのは八代の代表団でした。海に開けた八代の地が、台湾との関係でもいの一番に指名されたからです。

 第2次世界大戦が終わって間もなくのことです。世界中の青年と芸術家が力を合わせ、記録映画『世界の河はひとつの歌をうたう』をつくり、世界の主な川と流域の暮らしを紹介しました。川と川とのつき合いに壁はありません。川の流れは海を介して自由に行き来し、地球の良好な生態系を維持しております。映画のタイトルは、国や民族間の紛争を武力で解決しない誓いの象徴として、世界平和と友好の合言葉になりました。

 私は林先生の卓論を拝聴しながら、なるほど、球磨川と淡水河は東シナ海を介して最も近いところで水魚の交わりを結んできたと合点したのでした。私たちにとっては、国の違い、肌色の違い、言葉の違いは障害になりません。八代人のつき合いの良さが民話の世界にも新しく加わる喜びをじっくり噛みしめたのでした。

■淡水カワペ球磨川渡来のロマン

 私の河童談義は林先生の河童渡来のロマンを日本流・八代流に意訳して解明することになります。

 佛教典を求めてインドへ旅した玄奘三蔵にお供した沙悟浄が、揚子江からミン川へ下り、福建省の谷間を下って河口の福州(フーチョウ)に至り、ここでカワペと呼ばれるようになった。カワペ(河伯)とは河の主(あるじ)のことで、水の神様のことを指しております。

 それから七~八百年ばかり経ち、カワペは海の女神・媽祖神の助けを借りて台湾海峡を渡り、台北の淡水河に至り、平埔(ペーポ)の美女と交わり子孫をふやした。その後、媽祖神に甲羅を用意してもらい、淡水河を出発、黒潮にのって北上、西九州の不知火海(しらぬひ)の球磨川河口(八代)にたどりついた。こうして台湾のカワペは、八代でカッパ・ガラッパに訛り、この一族は九千坊(クセンボウ又はキュウセンボウ)を名乗り球磨川の主(河伯)になって今日に至ったというものです。

 林先生のロマンには、隠し味と言いましょうか、ほのかなエロスが漂っています。河伯(カッペ)八代渡来の目的は、どうやら花嫁探しだったようです。

 八代の方言では気立ての優しい、しかも男心をそそる魅惑的な娘さんのことをオッペシャンと言います。林先生の説話から、オッペシャンの肢体にもたれて幸せそうな台湾のカワペが浮上いたします。

 波を枕に夢うつつ、捜し求めた理想の女性に、球磨川河口でついに遭遇したのです。八代には球磨川のおいしい水、美肌泉質の日奈久温泉があります。八代はこの霊水と銘泉で磨かれた美人(オッペシャン)の里でございます。

 台北(淡水河)から八代(球磨川)までの距離は、直線で約1200㎞。時速5ノットの黒潮に乗って東シナ海を北上すると五~六日で九州の内海・不知火海に入ることができます。時速20㎞の南風(はえ=季節風)の助けを借りると、三~四日で球磨川河口に到着いたします。パスポートの要らなかった時代のおつき合いは、お互い、波任せ風任せ,星が頼りの自由な行き来だった。海の道による人・文物の交友・交易は、日本ではいち早く九州から、とりわけ八代から始まったと思われます。

 林先生の河童渡来説は、まさしく、河童に事よせた日台交流のロマンです。

 淡水河と球磨川の往き来は昔から確かに「あったること」として、八代市民の心に新たに刻まれることでしょう。共同の知恵と努力で、史(ヒストリー)と詩(ポエム)のふくらむ楽しい物語りに育てたいと念じております。

 八代からの河童談義を終わります。ご清聴ありがとうございました。

二〇〇四年十一月