河童なら川へ、海へ

田辺達也

 校内プールの普及は子供の競泳技術とスピードを格段に進歩させました。
 プールは必要、競泳技術も大切です。でも、水の冷暖、波の高低、風の強弱、すべてに変化の少ないコンクリートの巨大な箱の中の泳ぎは、小鉢の中の金魚の泳ぎとあまり変わりません。泳ぎが重視されていると言えないでしょうか。
 だから、いまの子供は川や海に行くとこわごわになり、どうかすると、プールの覇者さえおぼれやすいのです。
 どうして?
 子供が自然を知らず、環境の変化に対応できないからです。これは偏差値・ツメコミ主義で試験技術にだけ長けた子供ほど、実社会では挫折しやすいと言われるのと似ているように思います。
 子供が川に寄りつかなくなって久しくなります。学校が親が、「川に近づくな」と言って、遊泳禁止措置をとり、子供を河川から完全に遮断した結果ではないでしょうか。
 川や海へのかかわりが薄くなると、しだいに川を大切にしなくなります。そこを単に家庭や工場の排水口とみなしたり、あるいは、大きなゴミ捨て場と勘違いするようにならないでしょうか。こうして長い間に汚染が広がりドブ川と化し、埋め立てか暗渠の発想も安易に生まれます。
 川への愛と畏敬は、ひとが川に近づき、漁撈、遊泳を積み重ねる日常的な一体感から始まります。たのしい思い出、おそろしい思い出を積み重ねて、川としだいに仲よしになるのです。
 釣り糸をたらしたり、水中に潜ったりして、川の深さや形状や流れを、瀬や淵、日中と朝夕の水温の差を、魚類の習性を、そして四季の変化を知るようになります。二、三回おぼれかかってたくましくなり、また自然への畏敬の念もわくのではないでしょうか。
 いまは大人も川に寄りつきません。だから、子供だけを一気にそこに近づけることには無理があるかも知れません。10年、20年の計画で、川のすみずみまで知ってもらうようにしたいものです。

2012年7月

随想 スカイツリーのテクノと言問のロマン

田辺達也

1 関東かっぱ族の並みはずれた力量

 河童サミッ卜は全国会議だけに、組織と運営は大変骨の折れる大事業です。会場の設営と飾りつけ、河童民芸品展と写真展、本会議の受付、議事運営と懇親会の進行、オプションツアーなど、すべてに細心の注意が払われていて、お陰でこの2日間、楽しく過ごすことができました。
 サミット開催24回、このほか日常活動をこつこつたゆみなくつづけた努力によって、河童連邦共和国の存在は中央でもあらためて注目され、市民権を待ていることを確信しました。浅草曹源寺/かっぱ橋と共に、大江戸カッパの双壁である「おいてけ堀」の名声を考慮しても、墨田区の山崎区長や芙点の木久扇師匠の出席など中々できないことですから。  記念サミットにふさわしい成功を、心から喜ぶとともに、連邦本部の卓越した力量と関東かっぱ族のチームワークに敬意を表します。

2 八代サミットから25年

 本会議場のロビーでは、かっぱ民芸品の即売会と河童連邦共和国の歴史を綴る写真展でにぎわっていました。本部の田辺宏守事務局長から、第1回サミット(八代市開催)の写真を展示していると説明を受け、事務局の気配りに感謝しました。
 鏡割りの大役とスピーチを指名される光栄に浴しました。私は25年前、八代から始まった河童サミットの四半世紀をふり返り、感無量の想いを率直に伝えました。
 1988年8月開催の第1回サミット出席者で、2012年の今年まで、おつき合いのつづく河童族は、銚子の大内恭平さん、堺の和田寛さん、八代の福田瑞男さんら僅か数名です。河童連邦の建国委員なら神栖の岡見晨明さんや船橋の牧野圭一さんのお二人、第2回の琵琶湖サミット(大津)の出会いなら、浅草の森本佳直さんくらいでしょうか。
 河童族も高齢化がすすみ、多くの人が亡くなるか病床にあります。今回出席できた八代以来の顔ぶれは、大内さんと私の二人です。共に傘寿を迎えました。

3 業平ゆかりの地

 スカイツリ−には、私なりの興味がありました。天空からの展望ではありません。
 ひとつは、タワーの建造技術。ふたつめは、在原業平ゆかりの地に惹かれたこと。みっつめ、この巨大な建造物は、果たして、区民の生活や地元経済(商売)に役立つものになるのだろうか? ということです。
 私は1950年代後半の数年、東京の生活があります。八代へ帰った60年代以降も頻繁に上京しました。でも、なぜか都東城には縁遠く、せいぜい地下鉄で浅草止まりでした。隅田川に架かる橋の記憶も、浅草近くの吾妻橋と言問橋ぐらい。欲ばっても、駒形橋・厩橋・蔵前橋など三つ四つです。在京時代、仕事場が新橋近くの芝田村町、下宿が中央線の荻窪や西武新宿線の新井薬師だったので、ぶらぶらの場所は、ついつい、有楽町か新宿界隈になっていました。東京タワーは、鉄骨の伸びる様子を仕事場から毎日見上げていたものの、一度も上っておりません。

①スカイツリー見学は、河童連邦本部の特別の計らいで、公開前の入場券が入手できたので実現できました。634mは中途半端な数と思っていたら、この地の古名=ムサシ・武蔵にちなんだ高さと聞いて納得しました。
 最上階、450mの天望回廊は、少し揺れていました。
 夫婦といっても見方は遠います。私の嫁さんは、双眼鏡を持って行ったので、眼下に広がる東京のパノラマを満喫したようでした。その日は前日の小雨も止んで薄曇り、展望には絶好の日和でした。
 私の興味はつくりです。青年時代、エンジニアリングの仕事にかかわった、職能的なならいからでしょうか。鋼管の大きさ、土台とかパイピング工事、遠近のスタイルなどに目が向きました。タワーの心柱はコンクリートと聞いています。足場から天空へ伸びる、大口径鋼管の絡み具合は、遠方からは美しく、近くでは不気味でした。
 巨大タワーを支える土台部分は、もっと末広がりに、どっしり感が安心できるのではなかろうかとか、このタワーはスタイルが良過ぎて、震度7クラスに耐えられるだろうかなど、余計な?心配をしました。
 アニメ(動画)やフィギュア(模型)の世界ではなく、現に目の前で巨大な鉄の化け物に遭遇すると、日本のテクノロジーには脱帽です。財界にとってのスカイツリーとは、高層タワーを発展途上国に売り込むための、実物見本にもなっています。原子力発電所の輸出で、死の灰を世界にばらまくより、少しはましかもしれません。

②言問橋とか業平橋命名の由来から、隅田川対岸の向島の一角が、平安初期の歌人、在原業平(ありわらのなりひら)ゆかりの地ということは、聞きかじり承知していました。都鳥に言問う伊勢物語の秀歌と、希代の色男の艶聞は余りにも有名だからです。
 『伊勢物語』は、業平らしい貴人の、センチメンタルジャーニーとも読み取れるのですが、何か違うような気がします。
 平安初期の武蔵の国は、京都から遠っ国、ある意味では辺境の地です。名うてのドンファンが、ほれたはれたの悩みを癒す遠国への感傷旅行は、どうもしっくりきません。在平は、武蔵の国の長官(武蔵守)か何かに任官して、東下りしたのではないか? 向島は、平安時代、すでにかなり陸地化がすすみ、貴族や寺社の領有地(荘園)が広がっていたからです。
 あくまでも推量で、伊勢物語の読みの浅さかもしれません。

③スカイサリー周辺の道路は、バス・マイカーで大渋滞でした。違法駐車がふえて地元の人は因っているようです。もともと、江東の下町・職人(中小企業)の町に、突然降って湧いた巨大タワーの出現、日に数万〜十数万人が押し寄せています。見た目の華やかさとは裏腹に、公共トイレ、ごみ、騒音、落雷、電磁波による健康障害など難問山積のようです。拙速なオープン、との声も聞きました。
 スカイツリーは、地上デジタル放送用のタワーです。経営主体は東武鉄道、投入資金は1430億円、入場者は年間270万人予定。30年で回収する計画のようです。
 行政(墨田区)は「地域活性化の起爆剤」にと、120億円つぎ込んだといわれます。区の一般会計は年間約885億円(平成24年度)です。
 さいころの目は逆さまに出ていませんか?
 スカイツリー内の巨大な物品販売施設「ソラマチ」(312店舗)は、テナント料が墨田区平均の3〜5倍もするので、表向き地元優先といっても中々入店できないといわれます。案のとおり、資金力のある大手系列の店舗が目立ちました。
 入場料は3500円、これは世界一高い。展望台世界1の中国(上海環球金融中心、474m)は1900円、世界第2のアラブ首長国連邦(ブルジュ・バリファジョ、452m)は2200円のようです。入場料収入を今年度70億円見込んでおり、大企業のせっかちが透けて見えてきます。
 ここの商品(土産物や飲みもの)も高い。あそこへ行く人は、せめて自前のボトルを1〜2本、用意して行った方がよいと思いました。
 結局、スカイツリーは、乗武鉄道ひとり勝の観光名所になっていやしないか?
 旅行会社は、「スカイツリーの後は浅草へ、隅田川を渡ればすぐそこです」と誘っています。こうなると、いわゆるストロー現象が起きて、地元商店街、素通りのダブルパンチです。そうならないことを切に望みます。

2012年6月

 

映画 『愛しの座敷わらし』をみて

田辺達也

 映画「HOME 愛しの座敷わらし」をみました。実は題名に牽かれて行ったのです。      

 この作品は、3・11大震災の、被災地と被災者への応援歌になっている、と思いました。

 高橋家の3世代5人家族が、お父さん(晃一さん)の転勤で、東京から岩手へ引っ越し、築二百年の「曲がり屋」といわれる、むかし人馬一体の暮らしだった、ばかデッカイ古民家で、新しい暮らしをはじめるのですが……。

 晃一お父さんは、不慣れな顧客開拓の重圧からか。史子お母さんは、突然の田舎暮らしからか。中3の長女梓美さんは、転校の不安からか。ストレスがたまって、お互いの気持ちが乱れ、新しい生活はぎくしゃくします。そして、夜な夜な、不思議な気配を感じて、怯える、てんやわんやの大騒動も始まるのです。意外、物怖じせずにしゃんとしていているのが、澄代おばあちゃんです。物の怪といち早く仲良しになり、里の子供たちにもすぐ馴染むのが、小学五年生の智也君です。

 村人のはなしから、その正体は、古民家に住みつく小童精霊=座敷わらしでした。人には危害を加えないばかりか、座敷わらしのいる家は繁栄するそうで、ほっとします。

 どたばたはあったものの、晃一さん一家は、山村の魅力を実感しはじめ、難解な方言や隣近所とのつきあいにも慣れていきます。

 大都会の生活で失われつつあった対話が、囲炉裏を囲む暮らしのながで、次第に回復し、家族の絆が強まっていったのです。清々しく、温もりを体感するドラマでした。

 ロケは、遠野をはじめ岩手県内数ケ所で行われたようです。東北の自然をジオラマ風に楽しむ余録もありました。

      *

 この映画は題名のとおり、ファンタジックなホームドラマですが、切り口のやさしい社会派作品の仕上がりにもなっていました。座敷わらしをキーパーソンに、その由来にまで深く立ち入り、ていねいに描かれているからです。

 座敷わらしは、岩手県(を中心にした東北地方)の精霊で、旧家の奥座敷に出現し、家の繁栄を守護するようです。童形で、顔が赤く、おかっぱ頭をしています。「座敷ぼっこ」ともいわれます。東北では河童も赫肌ですね。

「座敷わらし」の由来を、近所のハルおばあちゃんから、ズーズー弁で聞くシーンがあります。

 ハルさんは、「座敷わらしはな、貧乏ゆえに間引きされてしまった子供の化身だべ」と説明します。しかし智也少年は、「間引き」の意味がのみ込めず、帰り道、お母さんにその訳を聞くのです。

⟨いわればなし⟩には、故事来歴というか、それなりの訳が必ずあるものです。

 民話⟨座敷わらし⟩の生れる背景には、為政者の過酷な収奪による農民の悲惨な暮らし、追い討ちをかける寒冷と豪雪の大飢饉があります。岩手県は8割が森林で、田畑が少ないのです。食べ物がないから、子供が生まれてもお乳がでない。子供が死んでも、お寺に埋葬するお金もない。だから、泣く泣く川へ流してしまうのです。

 『遠野物語』を読むと「河童の子殺し」も出てきます。河童の子を孕んだ不義?を表向きの理由に、⟨水子⟩として始末する、すり替え、悲しい偽りと重なります。

 徳川時代、旧南部藩の資料(「南部史要」)によると、18世紀の宝歴飢饉で、人口31万人のうち餓死5万5千人。八年後の天明飢饉では人口36万人のうち死者6万5千人(うち餓死約5万人)といわれます。遠野だけでも、18世紀初頭の元禄飢饉で、死者約3千人。前出、宝歴飢饉では2千500人の報告があります。

 南部藩の百姓一揆も、19世紀末の明治二(1869)年まで一五〇回以上発生しています。ひとつの藩では日本一多い農民の蜂起です。

 このはなしは、小学五年生の智也君には、やや難しいかもしれません、しかし、ハルばあちゃんのはなしがきっかけになって、彼は社会に目を向き始めるような気がします。

 農山村の貧困と飢餓を題材の哀話は、全国のあちこちに伝承されています。つい数カ月前、四国の河童サミット出席のため、四万十川流域の大正町を訪問しました。そこには「馬之助」の物語がありました。

 

追記

 遠野市には2回ご縁があります。盛岡・花巻、そして三陸沿岸も回遊しました。遠野では、河童が出そうな猿ケ石川水系のあちこちの小川を。カッパ狛犬の常堅寺と河童淵の周りを散策したり、伝承園(歴史民俗資料館)を見学したり、柳田国男の『遠野物語』や井上ひさしの『新釈遠野物語』を読んだりして、少しは東北に近づきました。

 あちらの風土と名跡に接し、あちらゆかりの名著を読むと、回りが急にざわついて「何かが存在する気配、何かが現れる兆候」を確かに感じますね。

 3・11大震災では、遠野市民と座敷わらし・みちのく河童連合は、被災地支援の物流・情報発信の要衝・後背地として、重責を立派に果たしています。すでに六年前、三陸沿岸の大震災を想定した独自の救援対策を立てていたので、今回、即応・機敏な成果を上げ、近隣の被災地から深謝されています。無為無策・右往左往の政府と対比されるゆえんです。

 遠野地方は、昔も今も、みちのく岩手のヘソなのです。

日奈久ペンクラブ月報475号、二〇一二年五月