河童のオペラ 海外公演へ

田辺達也

 昨夏、八代市厚生会館で初演のオペラ《かっぱの河太郎》が、来春イタリアで公演されることになった。三月下旬、ミラノ市のテアトロ・ヌオーボ、ローマ市のテアトロ・ギオの両劇場での公演が決まり、このほかシチリア島カルタニゼッタ市立劇場からのはなしもある。在熊本の歌劇団「熊本シティオペラ」の関係者三十人が渡航し熊本弁でうたい、会場には対訳を配布する。

 八代の河童がオペラの本場に進出し熊本弁で紹介されるのは、こりゃ愉快、おもしろい、有難い。このオペラを企画し初演に関与したひとりとして、海外公演の成功を心から期待する。

 すでに良く知られているように、オペラ《かっぱの河太郎》は、第3回九州河童サミット・八代95のメインステージとして、主催者の河童共和国(福田瑞男大統領)が在熊の文芸関係者に脚本・作曲・上演を依頼してプロデュースした作品である。

河童共和国はこの歌劇を「日本で最初のオペラのマンガ」とパロディ風に喧伝したように、オペラを誰にでもわかりやすく親しみやすいものにする新たな試み《オペラの大衆化》を実験して成功させた。この文化創造の出発点と舞台が河童渡来伝説のルーツ・八代であった点大いに意義深く、河童共和国の先見性・イニシアチブは評価されてよいだろう。

 この作品はその後、熊本産業文化会館、東京帝国ホテルで相次ぎ公演され、いずれも盛会であった。こうして熊本(八代)で生まれた新しい河童のオペラは、熊本シティオペラを核にその熱演も得て、少年少女合唱曲「河童渡来の碑」(中山秋子作詞・中山義徳作曲)と対になり定着しつつある。

 

 河童のオペラのヨーロッパ公演については、我われは、昨年、脚本家の佐藤幸一さんにチェコ音楽祭への出演を提言していたところ一足先にイタリアで実現することになり、さすがオペラの本場(の眼力)は違うと感心している。熊本シティオペラ佐久間伸一代表の実績と人脈によるものと思われる。

 そこで日本人の眼には河童は日本固有のものと映りがち。でも水の妖精・精霊はどこにでもいる。とくにヨーロッパの森と湖、国境をいくつもまたぐ大河流域のそれぞれの地域ーアイルランド、イギリス、スエーデン、チェコ、スロバキア、ドイツ、ノルウエー、デンマーク、フィンランド、フランス、ロシア他にも河童の百態千話が多彩に伝承されている。つまり河童は、もともと地球人共有のアイドル・カントリーシンボルなのである。

 ところで、我われが佐藤さんに海外公演先としてチェコを提案したのも、それなりに理由があった。ヨーロッパ最大の音楽祭・プラハの春の開幕を彩る交響詩・わが祖国第二曲『モルダウ』に注目してほしい。

 ボドルジハ・スメタナは、母国の自然・風物・歴史を音楽的に感動的に描写し、そこに河童の出番をつくっている。

 モルダウの標題には、「ボヘミアの森の奥から流れる二つの水源は、岩に当たってくだけ、やがて合流して朝日に輝き、森や牧場、楽しい婚礼が行われている平野を流れていく」と書かれ「夜になると水面に月光が映え、河童が踊る」とつづいている。

 チェコの童話に描かれる著名なヨゼフ・ラダのイラストにも、湖面に月光が映え、そこに河童の思案げにたたずむ姿がよく見かけられる。チェコの(河童の)童話は邦訳もあり、私は数冊を八代市立図書館に寄付している。身近な研究には、田辺ユイ子の『チェコ童話の中の河童さん』(タウンやつしろ41号、1987年)もある。

 とにかく、チェコでは河童が活躍し童話の世界の人気者。河童のオペラが「プラハの春」で喝采を浴びること請け合い。熊本にもチェコ友好協会があるので話は通しやすいはずだが。

 河童のオペラは中国にもすすめたい。中国の「江」と「河」は西遊記の沙悟浄の舞台ではないか。とくに、最近、八代市と友好姉妹都市の縁組を実現した北海市は江南呉越の港まちである。イネの栽培や操船漁撈に長けた河童九千坊の一統が、千七八百年前、この辺りから、呉服やシュウマイのお土産をもって、八代へ船出したかもしれないのだ。

 この推定は、球磨川河口・徳渕の津にある河童渡来の碑に刻まれた「オレオレデライタ(呉の人がたくさんやって来た)」からも容易に理解できる。北海市で、もし、河童のオペラや合唱曲が披露されなら、まさに河童九千坊の里帰り。現地は大いに沸き日中最良の文化交流になるだろう。

 オペラ《かっぱの河太郎》や合唱曲《河童渡来の碑》の舞台は、ヨーロッパと中国に限らず、水環境に恵まれたところ、例えばガンジス、チグリス・ユーフラティス、ナイル、ミシシッピー、アマゾンその他の流域に無限に広がる夢をみる。

「世界の川は河童を愛し、水物語を競う!」

 こうなれば、水文化の発進基地、河童の国際親善大使ー八代市の役割は大きくなるばかり。                                                               一九九六年  

柳田国男と川内川

田辺達也

 

 柳田国男研究の権威、熊本学園大学牛島盛光教授(民俗学)のお供をして、六月二十三日と四日の二日間、鹿児島県の川内川流域を歩いた。牛島先生には九州河童サミットの、かっぱ大学公開講座に講師として出席していただくことになっており、その矢先で思いがけない踏査行は、河童族の絆を強めながらの、実りある学術調査になった。

 牛島先生から「柳田国男の九州旅行と同じ月日同じコース踏査してみよう」と誘われ道案内を頼まれたのは三月九日だった。

 九州河童サミットのだしもの(公開講座とオペラ)について、在熊本関係者と顔合わせを兼ねた打ち合わせの席であった。牛島先生のほか熊本学園大学丸山和夫教授、『かっぱの河太郎』を書いた脚本家の佐藤幸一さん、熊本シティオペラの佐久間信一さんが出席した。河童共和国から福田瑞男大統領、国会議長の古川保さん、熊本大使の吉田武さん、松永茂生さん(前熊日情報文化センター常務)と私であった。

 私はおつき合いの入口で、独り、こころが躍った。

 柳田国男は一九〇八年(明治四十一年)の五月から七月にかけ、明治政府の高級官僚(法制局参事官)として九州を視察旅行している。三十三才であった。

 人吉市から鹿児島市に入り、六月二十三日、宮之城町から川内市に来ている。このあと七月中旬、宮崎県椎葉村に一週間滞在して狩りの故実の話を聞き、翌年二月、『後狩詞記』(のちのかりのことばのき)を出している。この旅行が「『後狩詞記』といわれるゆえんである。

 『遠野物語』を発表する二年前のことだから、九州旅行はまさに柳田民俗学のルーツとも出発点ともなって両者は強く深く結ばれている。牛島盛光先生の近年の労作『日本民俗学の源流ー柳田国男と椎葉村』(岩崎美術社1993)はその学際的貢献である。

 

 

 今回の踏査は鹿児島県菱刈町ー大口市ー宮之城町ー川内市へ、川内川の下りのコースだった。牛島先生によると、この流域で柳田の足跡は未解明なことが多いといわれ、小旅行の目的はその空白の部分を埋めることにあった。

 スケジュールを任されたので、六月十二日付の手紙で行程の私案を先生に伝えokをいただいた。道案内といっても名前だけ、実は川内河童共和国大統領の箱川政巳さんに助太刀をたのんで菱刈まで来ていただいた。東郷町出身の彼は川内川を知りつくしているから、大船に乗った気持ちで後に従った。

六月二十三日(金)

 八代駅前で牛島先生と待ち合わせ、八時四十五分出発。

 菱刈町役場に十一時少し前着、役場職員森孝一さんの案内でがらっぱ公園と前町長久保さんの河童資料館を見学。

 十三時出発、大口市の曽木の滝周辺調査ー宮之城町教育委員会で十五時半から一時間聞き取り調査。

 川内市十七時着、市役所表敬訪問。

 川内太陽パレスホテル宿泊、川内河童共和国箱川大統領の歓迎晩餐に出席。

六月二十四日(土)

 午前中、川内市文化財保護審議会小倉一夫会長らの案内で柳田国男投宿先跡地の確認。川内歴史資料館訪問。午後から戸田観音の木彫河童見学、薩摩の国東郷かっぱ村代表の箱川辰光さんと懇談など忙しい一日であった。

 箱川さんには最後まで大変お世話になった。以上が概略の日程である。

 菱刈のガラッパ公園は来るたびに河童がふえきれいになっている。国道筋にも巨大な河童像ができていた。前町長の久保敬さん宅に河童資料館が完成しており、膨大なコレクションを見学した。昼食をいただき銘酒「伊佐錦」までお土産にもらう。奥さんがやさしく、心からのもてなしに、いつもいつも、つい甘えてしまう。

 大口から川沿いに左岸の細道を下った。後で調べたら一般県道と記されており、こういう道は勝手知った地の者でなければとても通れない。ダムのある鶴田町から右岸に変わり宮之城町に早目に着いたので、この地の教育委員会でじっくり話ができた。柳田の日程表にある、彼が投宿の山下という旅館について聞きただした。

 このあと通りかがりに『白浜の渡し』を写真におさめ、更に下って頼山陽も歩いた(柳田国男は馬車を利用したかもしれない)旧道(現東部通り)を経て、ちょうど十七時川内市役所に到着した。助役さんと歓談、先生から柳田国男の訪川のことを私は八代の河童サミットについて説明した。後日、同市から企画部長が来代されている。

 私があれこれメモしたのは、「柳田と同じ月日」という牛島先生の思い入れの深さ、学者研究者のこだわりを端的に示すためである。先生の関心は、柳田国男ら明治の文人群像がモデルの、田山花袋の小説『縁』(1910発表)に描写された情景の忠実な確認(再現)にあったと思われる。

 柳田と花袋との交遊は、「しらべ」を重んじロマンチックな作風で知られた和歌の松浦辰雄門下としてはじまっている。小説家に転じた花袋は島崎藤村らと自然主義文学運動を起こし活躍する。

 花袋は書いている。西さん(モデルは柳田)の見たのは「縣道にはそれでも馬車があったが、少し脇に入ると芭蕉、椰子、蒲葵ー日本では見られないような南国の植物が其處此處に繁っていた。土地のものは、外国へでも來たかと思はれるような耳に遠い解らぬ言葉で話し合った。」と。

 そのような道筋の情景は微かとはいえ確かに残っていたので、私たちは子供のようにはしゃいだ。

 言葉について言えば、センデ(川内)訛りは今では「耳に遠い解らぬ言葉」ではなくなった。しかし方言の難解さには経験がある。五十年前(終戦の一九四五年秋・中学一年生だった)川内川流域の樋脇町へ行ったことがある。そのときのこと、何と、地の人の言葉がわからず、通訳の要ったことが思い出される。 言葉の壁は隣県でさえそんなだから、私より更に五十年前、明治の中央役人がここを外国ではないかと錯覚したのは理解できる。

 今度の踏査行で、牛島先生はひとつだけー川内に入ったとき、雨が降っていないことをー残念がられた。花袋の小説には「雨の降頻る夕暮れであった。さびしい海岸から少し入った矢張りさびしいなにがし町に西さんは着いた。」とあるからだ。

 八代出発から大口あたりまで小雨だったので、私たちは雨模様の再現も大いに期待した。ところが午後になってもち直し、四時すぎ白浜の渡しあたり陽光を浴びて汗ばむほどに。

 暮れなずむ私たちの川内は小説のようにはいかなかった。

 西さん(柳田)は「こんな遠い田舎のさびしい旅籠屋の一と間」で田邊(モデルは国木田独歩)の訃報(電報)を受けとっている。

 独歩は花袋や太田玉茗(歌人)ら文学青年グループの友人(先輩)で、一高卒業の一八九七年初めての共著した新体詩集『叙情詩』の詩友だった。国男は、藤村や花袋らと出した『二十八人集』を結核で療養中の独歩に贈ったあと九州に出発したので、きっと彼の身を案じながらの旅だったと思われる。

 「国男が青春をともにした花袋、藤村、独歩のなかで、独歩はその資質や考え方において、国男にもっとも近かった。」「国男は独歩の、敏く感じ鮮やかに語る才能(国木田独歩小伝)を高く評価し、その短編に対して推奨を惜しまなかった」(岡谷公二『柳田国男の青春』筑摩書房91)

 独歩の死を悼むのか、雨はいぜん降りつづいていた。      

 場面は変わって、私たちは、翌二十四日午前中、柳田投宿の高瀬屋(地元新聞の報道では薩摩屋になっている)という名の旅館を確認するため、小倉さんや箱川さんらの案内で、国道3号線と川内川左岸堤防の交差する下方の一帯を散策した。

 牛島先生の歩きの早いこと。

 私は歩くことに始まり歩くことに終わる民俗学の真髄を、元気印の先生の後ろ姿に体感した。この二日間、大学生のつもりで駈けた。思い出の小箱に残る踏査行であった。

 

 

 追記―六月の末、先生からお手紙をいただいた。

田辺達也様

前略 やっと写真ができましたので、わずかですがお届けします。

 何度見ても、戸田観音堂のガワッパは、異様、奇怪ですね。鬼気迫るものがあります。

 さて、柳田国男の八代通過の件、定本柳田国男集・別巻5にあります。

 六月十一日というのは、三角に一泊(六月十日)翌日、つまり熊本に帰る途中ですね。この日の記録ですが、今のところこの年譜以外には見当たりません。

 小生が八代宮の「社務所日誌云々」のことを言いましたが、これは思いちがいでした(阿蘇神社と菊池神社にはありますが、八代宮にはありません)しかし私は八代神社を八代宮と考えてのことで、妙見社を八代神社と別称すれば、話は別です。念のため妙見社の社務日誌(明治四十一年六月十一日の條)を当たってみてください。あればシメタものです。

 愈来月中旬ごろには講演の準備を始めます。なるべく早く当日の配布資料の原稿を(成るべく一枚にまとめます)お送りします。草々

一九九五・六・二九
牛島盛光

 定本・柳田国男集別巻5の年譜によると、六月十一日、柳田は「八代神宮の社務所で神風連の残黨である緒方小太郎に會う」ている。柳田国男は八代に立ち寄っていた。しかし八代神宮は八代宮・八代神社(妙見さん)どちらとも受け取られるので、前記の先生の手紙になったと思われる。

 六月三十日、友人の小林緑郎さん(八代神社宮司)にこのことを尋ねたところ、熊本県大百科事典(熊本日日新聞社82年刊)を示してご教示いただいた。同事典によると、小太郎は「神風連の変で無期懲役、明治十四年放免、のち八代宮宮司となった⟨上田満子⟩」と説明していた。

 柳田の日程表では十一日の宿泊地が空白になっている。十二日熊本で講演しているから、八代に宿をとった確率は低い。緒方小太郎に会うのが目的であれば、三角から八代に来て、その日のうちに熊本に行ったと思われる。十三日、開通直後の肥薩線経由人吉に行ったので、八代駅周辺は車中からもう一度散見したはずだ。

 私にとっては、思いがけない、柳田国男との触れ合いを熱く重ねる一方で、並行して本番の河童サミットのレジュメつくりに牛島先生や丸山和夫先生と何度もやりとりをしながら、公開講座の準備を万端進めていった。      一九九五年八月

ミニ独立国運動の盛衰

田辺達也

 

 流通科学大学白石太良教授* の論文「地域づくり型ミニ独立国運動の変容(Ⅱ)」が昨年九月、同大学学術研究会から発表された。白石教授はミニ独立国の研究で著名な学者である。この論文は、同教授一九九〇年九月発表の、「ミニ独立国運動による地域づくりの現況」、91年九月発表の「地域づくり型ミニ独立国運動の変容」に続く、ミニ独立国研究三部作の完結編になる。

  白石教授の論文は、90年三月、全国のミニ独立国203ケ国に対するアンケート調査を基礎データに、併せて膨大な関係資料収集と全国行脚による対面調査の結果をもとにまとめられた。八代には92年三月、来訪されている。

 第一部は、アンケート調査結果のまとめ。第二部と第三部ではミニ独立国の変容いわゆる盛衰(第二部は主に衰退、第三部は主に発展)の事例検討が試みられており、優れて示唆に富むものである。

 ところで、ミニ独立国運動は、井上ひさしの小説「吉利吉利人」をきっかけに全国的ブームを巻きおこした。そうなると、猫も杓子も、これこそ浮揚策の切り札とばかり狂乱群舞する。とにかく、この十年の間に、何百一千ものミニ独立国・まち興しグループが雨後のタケノコのように芽を吹いた。

 しかし大方は「三日か三ケ月か三年」という。この数字は倦怠や低迷や絶縁のサイクルを示すいやな指標で、「閉国・廃国・休国」が続出。近年どうやら「停滞期を迎えている」(白石教授)ようだ。もちろん元気印の長寿国もある。

 白石論文にはミニ独立国の在り様がリアルに描かれている。そして運動のあるべき方向もみえている。私は当事国の一員として、この論文を身につまされながら読ませていただいた。

 

 

 白石教授は、ミニ独立国あるいはパロデイ王国について「自らの地域またはグループを独立国と称し、擬似国家の組織や運営をパロデイ化した手法で展開することによって、地域の振興やアイデンテイテイの確立を求める運動である。」と規定されている。

 その上で前出アンケート調査からミニ独立国の実情を一見すると、

 まず建国の目的には、やや拙速に「経済効果を期待するものが多い」ようだ。大企業本位・大都市一極集中、拝金主義に汚染された大国?日本の現状を色濃く反映するひとつの流れで、過疎地では切ないほどである。しかしその陥穽と限界には教授も深く懸念されている。

 次に行政との関係では、三分の二が何らかのかかわりをもっている。資金・資材の援助はいうに及ばず中には行政丸がかえもある。この場合、一過性のカンパニアならまだしも永続性と自主的発展の求められるミニ独立国運動に、もし行政(長)の強い影響や特定政党・政治家の特権がまかりとおるなら、運動の歪みやもろさなど危険性をはらんでいる。

 第三に人の問題では「指導性のあるリーダ−とやる気をもった集団が必要である。最も重視されるのは、幅広い視野に立った問題意識と総合的な思考力、その上での独創性に富む実践力」と述べている。これにはコメントの必要はない。

 白石教授の結びを意訳すると、

  • 1.ミニ独立国運動は、ユーモアやパロデイの要素にもっと高い評価をあたえるべきである。
  • 2.地域興しの視点を、「もの=銭勘定」から「こころ=文化」に転換すべきである。
  • 3.いまは、地域が自分の顔をもつ努力・地域へのこだわり=個性化(アイデンテイテイ)が要求される時代である。従って、ミニ独立国(運動)は、現代社会において求められている「地域」とは何かを知るきっかけを人々に与えなければならない。

 

 

 自主的な運動には困難はつきものであり、その過程で惰性や不振は免れない。運動体は生きものであるから栄枯盛衰は不可避である。そのことを前提にしても「地域づくりにおける『もの』から『こころ』への意識改革が進むなかで、ミニ独立国運動に見る総合的な『地域』へのこだわりこそが、この運動の今後を決める」という白石教授ご指摘の「地域文化論」は、基本的には運動の成否を占うキーワードになってくる。

  白石教授は活動が継続し発展している元気印の事例として、小町の国(秋田県雄勝町)さんさい共和国(新潟県入広瀬村)河童共和国(熊本県八代市)を挙げ、三国に共通する特徴をまとめられている。

 それは「地域への愛情と愛着を根底において展開されている」という評価である。

  • 1.最も地域らしさを示すものや事がらをシンボルとして見出し、それを強調、時には誇張して押しだしていること。広域の地域文化の裏づけをもって運動を展開している。
  • 2.活動の目的が明確にしめされ、しかもそれが主張されている。「なぜミニ独立国なのかの考え方」つまり「思想あるいは哲学」をもっている。
  • 3.地域社会に対して自らの立場と主張をつたえ、地域にねざした活動を展開しながら地域との連帯を実現しようとしている。
  • 4.必ずしも即効性のある経済効果に期待せず、むしろ社会的・文化的側面を全面に打ちだしている。

 

 

 ミニ独立国運動が全体として停滞期にある中で、白石教授が「その活動に意義を認め、国家を維持している」いわば発展途上国のひとつに、我が河童共和国を挙げ長文紹介していただいたことは大変光栄なことである。

 白石教授は河童共和国について、「パロデイの形をとりながら地方文化の再構築をはかるねらいを有しており、地域づくりに方向性を見据えたミニ独立国といってよい」と高く評価し、社会的に極めて有用な存在であることを認めている。特に一九八八年の建国宣言と92年の第四回国民議会の総括(河童共和国の存在意義と活動の成果)に注目されているのは、まさしく慧眼である。

 白石教授は、河童共和国には「明確な思想と主張がある」と述べ、「国名にまつわる文化的背景を歴史学や民俗学の立場をふまえて追求し、その住む水環境を人間生活の舞台に当てはめて考え、自らの主張を明らかにする活動に重点が置かれて」おり、地域づくりを経済的浮揚ととらえるのではなく「生活環境や精神的・文化的豊かさと考えている」と紹介されている。

 その文化性に注目し、「憲法に感動した」と河童共和国に「いの一番」に入国したのが言葉の魔術師・井上ひさしであった。井上さんは河童共和国建国直後の一九八八年四月二十二日、熊本日日新聞のインタビューに答えて、「いろんな共和国があるが河童共和国には思想があり初めて国民になりたいと思った。シャレと本気のバランスがとれ、まじめに遊んでいる姿勢もしっくりきた」と入国の動機を明快にのべている。河童共和国の面目躍如たるものがある。

 球磨川水系上流域の友邦国くまがわ共和国池井良暢大統領の視点も同じである。池井さんは昨年四月十二日、河童共和国国民議会への祝辞のなかで、「多くのミニ独立国が衰退期のなかにあるのに、独りこの国だけは逞しく生き、ひたすら驀進しつづけていることです。何度もくり返しますが、まさに驚嘆に値します。これもこの国のもつ思想性がそうさせているのでしょう」とのべられている。

 我々がこれまで運動の王道を歩むことができたのは、ひとえに理念の堅持、八代への徹底したこだわり、たゆみない運動による。そのことを白石論文からあらためて学び確信したしだいである。

*白石太良(しらいし・たろう)氏.一九三七年生.大阪市立大学大学院終了.流通科学大学商学部教授(人文地理学)

一九九三年一月

河童文化勲章とオレオレデライタ

田辺達也

 

 河童と水の文化団体・河童連邦共和国から本年七月文化勲章をいただいた。そして伝達式の席で受章者を代表して謝辞をのべる光栄にも浴した。

この叙勲は本年度で四回目になり、河童共和国の国民はこの栄誉ある候補者に毎回ノミネートされ、これまで五名受章している。ひとつの組織からこれほどの例は河童族の中では初めてのこと。とくに私の場合、二年前、学位をいただき、今回重ねての名誉である。選考委員会の先生方に心から感謝している。

 ところで文化勲章は形のうえでは個人の功績に対し授与されている。それはそれとして確かに一理あり私も素直に有難いと思うが、それだけでは何となく申し訳ないような気もする。何故なら表彰されるその人を育む揺りかごがあってこそ、母なるその地の文化的歴史的土壌を把握してこそ、初めてその人の思想も業績も理解し説明できると考えるからだ。

 私の河童学の展開もパロデイの膨らみも、その背景に球磨川があって、河童渡来の碑があって、不知火海があって、そこに悠久の人の営みがあって、いま河童共和国に愉快な仲間がいて、初めてものになったのである。

その揺りかごに感謝しながら河童との五年間を素描してみたい。

 

 

 まずは河童共和国のこと

 河童だから面白くなくては話にならぬが、河童共和国に人も河童もうらやむおもしろ自由人の結集はまさに現代の梁山伯というところか。国民個々人の多くが御存じ、多芸多才多趣味のマルチタレント・一流のエンターテイナ-である。その人柄も高邁重厚謹厳実直聖人君子型あり、豪放磊落軽妙洒脱清濁併呑斗酒飄々艶笑型あり、多彩豪華な人脈を形成している。

 河童共和国憲法と建国宣言と国立かっぱ大学建学のこころに示された、文化性とロマンチシズム・知的好奇心の固まりだからこその、独自のモジリにひねりにアンチテ-ゼ・確固とした自主性と強烈な個性・鶏鳴蝉噪の議論・徹底した開放性と協調性など優れた資質に、ミニ独立国ブ-ムの立役者で「吉利吉利人」「新釈遠野物語」などを書いて日本のシェ-クスピアと評判の言葉の魔術師・井上ひさし氏が「しっくりきた」とイの一番にほれこみ入国したほどである。

 私も河童共和国に身を置き先輩諸氏にどれほどの教えを受けたことか。多士済々の存在と交遊は気持ちのいいものだ、知恵とエネルギ-の確かな源泉にもなっている。

 

 

 次に河童サミット開催の意義とその後の河童フィーバーについて

 河童ゆかりの地を訪ねると何処にでもなるほどと唸らせる古い伝承が息づいており、どの地にも優れた研究家やコレクターがいて独自のとり組みを行っている。しかし河童族の全国会議ー河童サミットは、それまで官民誰もが着想しない企画であり実現しなかった事業である。

 だから河童共和国建国早々の我われの力量からして、その開催は確かに有意義とはいえ実現を困難視する向きもあったし、実際に主催するとやっぱり大変で、事務局としては猛暑というのに肌が粟立ち薄氷を踏むおもいをした。しかも当時、当地には政治的威嚇と文化の私物化を常とし、それでいて萎靡沈滞した妖怪が棲みついており、河童と嬰児(みどりご)の運動を妨害し圧殺をもくろむなど逆風も吹き荒れた。

 しかし我々はみじんもたじろかず、夢とロマンの河童心と一図でまじめなとり組み、世界的視野の壮大な宣伝と組織、不偏不党自主自立の原則的態度、論議のイニシアチブと格調高いサミット宣言等により見事にこれを成功させ、全国的にも注目された。それだけではない、河童族の全国組織の誕生にこの八代は確かな産婆役をひき受けたのである。河童共和国福田瑞男首相の本職が産婦人科医師であることから、在るべき姿の瑞縁に成るべき安産を保証した。もしかすると河童=水神の啓示と援助によるのかもしれない。

 そしてなお我われは、ただ単に河童族の全国的結集をお手伝いしたというだけに止まりもしなかった。本会議に参加したそうそうたる顔ぶれと採択された宣言文からも明らかなように、河童愛好家・民俗学者・芸術家と水問題研究家・エコロジストの全国的交流と連帯の確実な橋渡しをしたということである。

 これは早くも一九八九年、柳川市開催の第5回水郷水都全国会議における、串山弘助氏(河童共和国大統領)提唱の河童分科会に進化し、河童=水=水環境の一体感の成果を示した。併せてこの会議が九州河童族の本格的な出会いの場になる相乗効果も生みだしている。この延長線上には関東地区で河童連邦共和国と隅田川交流実行委員会・神田川サミットの交流進展などもあり嬉しく思っている。仕掛け人としての河童共和国の功績は非常に大きい。

 その後の全国的河童フィーバと河童サミットの発展は多言を要しない。在京グループと主催地カッパ族の努力で、びわ湖・不忍池・長良川・わたらせ川と確実に継承され進展している。この数年、主催地の県知事も出席して挨拶しており、今年など公害の原点になった足尾に近い利根川上流域の辺鄙な山村に全国から二百五十人も参集し、かってない盛会であった。もちろん八代も例外ではない。特に今夏のくま川祭りでは、まさしく「がらっぱが躍った」のである。

 このほか『国立かっぱ大学』を早々に開校させたように、八代の河童族は、ともすればお偉いさんの団体にありがちな「動かざるごと山の顎大将」の集まりでもなく、ユニ-クな文芸活動と巧みな組織活動には定評がある。

 

 

 第三に「いいものを残す努力」という点で八代市旧中島町古老の先見性は光彩を放っている。それは河童渡来の碑と「オレオレデライタ」の碑文のことである。

 先日開催の「これからどうする八代のまちシンポジウム」で、八代市沖田市長と神奈川大学西教授が講演された。そのなかで西教授は、優れた文化遺産は放っておいても残るという考えの甘さと誤りを指摘され、いいものを残すためにはそこに住む人の目的意識と具体的で積極的な努力を強調され、大変示唆に富むものであった。この話から河童についても同じことが言える。

 河童大将九千坊の渡来伝説はいまでこそ日本の河童譚のルーツの地位を確立している。この伝説は八代の国際的好位置とか自然の豊かさとか八代人の先進性など優れた歴史的文化的条件や人的資質を背景に生み出された「海の道と八代のロマン」である。が、このロマンも継承する地元の意志と努力がなければ、とっくのむかし埋もれ廃れていたに違いない。

 早い話、もし一九五十年代、球磨川河畔中島町の古老たちが「河童渡来の碑」を建立していなければ、同じころ火野葦平やと佐藤垢石らの助太刀がなかったなら、今ごろ河童共和国の史的考証も文芸活動も成立しておらず、又今日の河童によるまち興しのうねりもなかったであろう。しかも重要なことは、古老たちが「オレオレデライタ」の碑文を刻み込んでいたのである。

 碑文には見てのとおり「オレオレ………」の説明はない、別に縁起書みたいなものもない。市民も長い間その「八文字」にこだわり詮索する者がおらず、精々お囃しか呪文か符牒以上には考えつかなかった。だが古老たちが碑(いしぶみ)にこれを書いた以上、この物言わぬ文字には「ロゼッタ石」のように、深い意味のメッセージが込められていた筈である。それは何か?今にして古老たちのちょっと悪戯で手のこんだ謎なぞの遊び心を垣間見る思いがする。

 余談だが、建立者の中に進利三郎や吉田朝雄の名前が懐かしい。前者は「我河童」進英夫さんのご尊父であり、私には戦時中父の死で熊本から最初に転校した千丁第二小学校の担任だった。進先生は私の父と同級生であることもわかり何かと励まされ面倒をみていただいた。

 このように私の恩師が「渡来の碑」建立にかかわった河童の先達であり、そして今、息子さんと教え子が共に手を携え河童による町おこしに微力をつくしている。この偶然と奇縁も河童の引き合わせによるものだろうか。

 後者は少々変人風の学者で人つき合いに物臭だったが、私には大変よくしていただいたので、河童共和国建国の前年あたり読売新聞の日高記者と何回も出かけていった。長い土間つづきの薄暗い部屋に上がり込んだところで、興に乗れば吉田さんは河童について独自の長広舌を振った。氏の風貌からこの人こそ異邦人の河童族=葦平の言うペルシャ系に違いないと思った。

 

 

 第四に「オレオレデライタ」の解明で吉嶋華仙氏の功績について

 河童共和国は本年七月開催の閣僚会議で河童芸術大賞(通称吉嶋賞)の創設を決定し来年度から実施することになった。

 本賞は「河童と水に関わる文芸と工芸で顕著な功績のあった人」を表彰するもので、「吉嶋賞」と通称するのは「八代の河童渡来伝説を解く鍵である『オレオレデライタ』を解明し新河童学の発展に寄与した吉嶋氏の功績を顕彰し後世に伝える」ためである。

 ちなみに我われは、建国を準備した当初から八代の河童伝説を「海の道による文化交流のロマン」と位置づけたが、とりわけ前川の碑文にある「オレオレデライタ」の不思議な響きに強く惹かれていた。後でわかったことだが、一九七九年発表の児童合唱曲「河童渡来の碑(中山秋子作詩・中山義徳作曲)」も影響を受けている。中山義徳氏は作品解説のなかで、「作曲にあたって<オレオレデライタ>の句を歌いこんでみて、その語感から得た旋律より展開させた」と述懐のとおり、八代市出身の音楽家の鋭い感性が「オレオレ……」にこだわっていた。

 私にとって河童の世界は畑違いの未知の分野であった。でも私なりの自負それに好奇心も手伝い、何時になくハッスルしていた。八代市史と世界史、民俗学の論考と全国の河童伝承・河童が主役の小説・随筆など片っ端から読みあさり、河童による全国の町おこし事情や河童族の分布も短期間に把握した。この成果は一九八七年発表のいくつかの論考や、建国議会における私の経過報告などに明確で第1回河童サミットの組織方針にも生かされている。

 でも河童渡来伝説の謎解きになると実力の差は歴然で、たとえ文化勲章受章者と威張ったところで吉嶋さんには足下にも及ばない。「オレオレ……」の解明で指導的役割を果たした功労者はやはり何と言っても河童共和国文化庁長官の吉嶋華仙氏である。氏は北京大学に留学したあと主に黄河流域で長期間活躍された本物の中国通、風貌物腰からもさながら九千坊の生れ変わり。私の中国に関する知識も大部分は吉嶋さん譲りだ。

「オレオレデライタ」については、私は狩猟した書籍の中からただ一つ、熊本商大の牛島教授が『肥後の民話』(第一法規)に書かれた「呉の国からたくさん来られたの意味といわれる」に注目した。しかし語源との関連が不明なため、このことを建国準備委員会に報告し吉嶋氏に指導と解明を請うたのである。

 それから間もなく吉嶋氏の卓見「呉人呉人的来多=呉の人が大勢やって来た」とそれを裏づける論文が発表された。これは古代史を彩る日中交流の視点からも市民の共感を呼び、やがてこの地に定着することになる。丸山民俗学の後継者である牛島教授の説明とも一致している。この五年間、吉嶋説を否定する際立った主張もないから、日本でもほぼ受け入れられたと見るべきであろう。

 八代の河童伝説を解く鍵は何となくこの「オレオレ……」付近にもある、とする我われの目星はズバリ当たっており、今にして賢明であった。だから八代市民にとっても吉嶋賞創設の意義は尚さら深いと思う。

 

 

 ふり返って、我われが河童渡来の碑を大切にしながら吉嶋氏の卓見と火野葦平氏らのパロデイを下敷きにしたからこそ、この地の伝承に自由で面白い解釈が可能になり文芸活動にも幅と深みが加わった、と確信できる。そして河童の住み処を民俗学のなかに無理矢理閉じこめず、文化人類学、考古学など諸学問との関連で、またイネの伝播と農業の発達・命の源である水と水環境など暮らしの実態の中に捉えたからこそ、新河童学の誕生も約束され、その結果河童が水文化の中心に甦り町おこしのヒーローとしても活躍できるようになったのである。

 吉嶋さんの功績をもうひとつ挙げるなら、八代の河童伝説と河童共和国によくマッチした九千坊のイメージ像で、これには画家・吉嶋華仙の面目躍如たるものが漲っている。この九千坊像をめぐっては第一回河童サミットで静岡の画家・高柳千賀子さんとコスチューム論争が起き、文化会議にふさわしいハイライト場面になった。高柳先生とは今も親しい交流がつづいている。

 

 

 夢とロマンの河童渡来伝説からして、「オレオレ……」については、今後もいろんな仮説と解釈があって結構だ。

末尾になるが、これまで出た二~三例を挙げておく。

 在福岡の中国史家・百嶋由一郎氏の手紙によると、これは中国北方語で「俺俺来到=自分たちの統率者がやってきた」と説明されている。「河童族はもともと内蒙古を拠点にした騎馬民族系契丹族の穏健派で、かって呉の孫権と魏の曹操が東北部に遠征したころ、争いを嫌って共に南下し黄河あたりに移住。四世紀のはじめ頃、上海や寧波あたりから八代に渡来したのだろう」と書かれている。

 中国瀋陽市生まれの作家で博多仁和加研究家の後藤光秀氏は、著書「カッパの女王・邪馬台国ヒミコ物語一九九一年改定版」で「我們呉人都来了=ウオ-メンウーレンドライラ=私たち呉の国の人、みんなで一緒に来たのです。」と解釈している。

 八代の串山弘助氏(河童共和国大統領)は、最近の労作「九千坊が伝えたもの」(葦書房近刊予定)のなかで、韓国の作家リ・ジョンギ氏の著書『卑弥呼渡来の謎』(二見書房一九七一年刊)から、韓南の言葉では「長らく、長らく、成就なさいよ!」になると紹介されている。

 文化渡来のル-トは多いから無視できない好例である。

一九九二年八月