日野川紀行 河童九千坊と砂鉄(タタラ)文化

田辺達也

 隠岐ノ島でガラッパトーク

 隠岐ノ島で河童の講演をしたあと帰りを一日延ばし、境港から米子へ出て鳥取県西部を流れる日野川を散策した。日野川の河童代表が球磨川から移り住んだ九千坊という、楽々福(ささふく)神社(鳥取県日野郡)の伝説が気になって惹かれていたからだ。

 日野川の九千坊は、米子市の出版社(立花書院)発行の『日野川の伝説』(1996)と『漫画・日野川の河童』(98)に収録されている。前書は第一話に《河童の親分九千坊のこと》後書は付録《日野川の河童伝説・日南町の楽々福神社の河童》に載っている。 

 九州の住人とカッパ研究家には興味があるだろう。     

 立花書院の楪(ゆずりは)範之社長が私に出版案内をしたのは隠岐島後の河童統領・松岡豊子さんの社長は日野川の河童伝説集に西郷町八尾川(やびがわ)の民話『唐人屋(とうじや)の河童』を採録するとき私のことを聞いたという。八尾川の河童は有名だから山陰地方の伝説に必ず顔をだしている。唐人屋は松岡家の屋号で、海と渡来人のいわれが伝えられている。

 五年まえは神無月だった。稲の掛け干しが記憶にのこる。

 『全国かたりべサミットin隠岐』が《隠岐と河童伝説》をテーマに開催され、遠野と八代の東西代表が案内された。このとき私を推薦したのが松岡さんだった。そんないきさつで、楪社長ともつきあいがつづいていた。

 隠岐へ重ねてのご案内、同じ旅館の奇遇からこの島には不思議なえにしである。 島後全四町村共同で『河童交流会』が企画され、私にはメインステージ《九州の河童王国とかっぱ逹》が用意されたので百分をこえてお話したのだった。

 今度は隠岐島文化会館の島根勝館長や松本悦夫・佳都子さんご夫妻にも大変お世話になった。松本さんの屋号を奈良屋という。この屋号からも古代への夢がふくらむ。

 隠岐後のいざ日野川散策になるが、見ず知らずの河川流域へは心弾む冒険にしても、不慣れな道行きは右往左往するだろう。上石見まで8駅もあるから米子泊にしても帰りはきっと夜になる。当初計画は境港からJRかバスで米子へ出て、そこからJR伯備線で「上石見」まで行き、駅からタクシーを拾い(タクシーがあるかどうかは不明だが、あることにして)日南町の楽々福神社へ。その帰り「溝口」に下車してもう一つの楽々福神社へ行ってみたい、と。

 初めは「日野川の九千坊に是が非でも逢いたい」一心の浮いた高ぶりばかり。何もかもアバウトだった。事前に日南町の楽々福神社へ電話してはみたものの、あっちのことがすぐ分かる筈もなく、ほんの気休めにすぎなかった。

 ひとり旅は慣れてはいるものの不安は隠せない。隠岐への直前、立花書院の楪社長に楽々福さんへのコースを改めて確かめた。

「俺が境港まで迎えに出て楽々福神社へ連れていくよ。境港では水木しげるの妖怪ロードも一回りしよう。」

 日野川を知りつくした地の人のガイドとはありがたい。

 何という幸運か!

 八月二十七日、隠岐西郷港8時35分発境港行きの船は《レインボー》。同じ岸壁に停泊の七類行大型船《おきじ》は一足先に出港した。この船には五年まえ乗っており、そのときは七類から松江を経て米子に泊っている。唐人屋の松岡豊子さん、隠岐文化会館の島根勝館長、旅館松浜の斉藤一志さんらの見送りをうけ、隠岐ノ島に別れを告げた。

《おきじ》がグラマーなら《レインボー》はニンフ。一七〇人乗り、時速37ノット(68・5㎞)の水中翼船はあっという間に先発の《おきじ》を追い越し、朝日を浴びてキラキラ光る凪ぎの日本海を滑走した。

 水木しげるの妖怪ロードー境港

 港湾の奥深い入江「境水道」に入ってアーチ型の鉄橋をくぐると、船は十時ごろ境港に接岸した。鉄橋は鳥取と島根をつないで、堺水道の先に中海宍道湖が広がっている。

 十数年まえ、中海の締め切りに反対する全国的な運動を思い出していた。

 境港へは初めて。

 港湾は新開地か大漁港の雰囲気がある。

 立花書院の楪社長とも初対面、しかし河童の心眼ですぐに通じ合った。

 境港は米子から美保湾に突き出た弓浜半島の突端にある。

 ここは妖怪漫画でおなじみ水木しげるの出身地だ。港に隣接する駅前から妖怪プロムナードが1キロばかり伸びていた。ガイドマップには《ゲゲゲの鬼太郎》など83のオブジェが載っている。

 水木しげるのやさしいまなざしと豊かな夢のふくらみが可愛い妖怪群を生んだ。

 《カッパの三平》は有名だ。駅前から始まる水木ロードの一番目にあった。彼の河童への目覚めは割合早く、十四五年まえ『河童なんでも入門』を。七年まえの『河童千一夜』には「人間よりも義理人情に厚く、礼儀正しく、純情で、そしてちょっぴりいたずらな」と的確に記している。

 酒屋でもお菓子屋でも、店という店で人気キャラクターグッズが売られていた。妖怪神社あり妖怪屋敷あり。境港はいま全市あげ《ミステリーのまち》を売り出し中だ。

 楪さんは海岸線を東へ走らせ、鳥取県伯耆郡名和町の名和神社へ案内した。

 私(八代市民)への格別の配慮だろう。長年の研究者・富永源十郎さんに会う目的もあり、幸い在宅されて歓談することができた。富永さんは八代にも知られている。

 戦中、南朝の後醍醐や正成、義貞、長年、顕家ら太平記の面々を教育勅語と一緒におぼえ高徳の詩も吟わされた。名和の一統は建武の中興で八代庄へ下向、その後この地を百五十年領したのでゆかりのひとである。

 いよいよ米子から中国山脈へ向かい国道181号線に乗る。途中186号線に入りJR伯備線ぞい日野川源流域へ進んだ。

『日野川の伝説』の帯《山陰伯耆国ーきっと日野川を歩いてみたくなる》によると、日野川は「中国山地の三国山・道後山に源を発し全長約80キロ米の川で、日本海に注ぐ。周辺には鬼・河童・大蛇・怪獣など、さまざまな伝説が残されて」いる。河川事典は「流路76・8㎞、流域面積860㎢、支流25を擁する一級河川。皆生温泉で美保湾へ注ぐ」とある。県境の三国山は標高1004m、道後山は1269m。

 立花書店版の河童譚は十一話。その第一話から八代の河童九千坊がいつの間にか日野川流域の代表に納まり、楽々福神社で首座を占めている。

 嬉しいやら恐れ入るやら。

 楽々福と九千坊はどんな関係だろうか?

 楽々福神社ー日南町と溝口町

 日野川と国道とJRは曲がりくねり絡み合っていた。川幅はせまく水量は少なかった。

 楪さんは蛇行する川筋に深みが見えるたびに車を止め、「こっちはショウゴの淵、あっちは弘法ケ淵」と、淵にまつわる河童伝説をはなしてくれた。

 一時間ばかり、黒坂という町の「カワコ淵」という川ぶちの脇に光明寺という大きいお寺さんがあり、そこで小休止。

 若い住職さんから茶を一服いただいた。

黒坂あたりと日野川流域が鳥取西部大地震の震源地だった。

寺社仏閣や墓石の倒壊をはじめ個人住宅の被害は想像を絶して甚大だったようで、修復もまだ半ば、やがて一年になろうというのに、あちこちの屋根がブルーシートに覆われていた。国道筋に虫食い状態の空き地を散見したが解体の跡という。

楪社長はその日この流域で書店まわりしていて、黒坂から少し下った食堂で遅昼を食べていたとき地震に遭遇した。こんどもそこで食事したが、食堂のおばさんとあの日の凄まじさを交々おもい出していた。この食堂は小さな古い木造なので倒壊しなかったのが不思議なくらい。山間部は岩盤が固いのでこうして残ったという。もし鳥取級の大震災が軟弱な埋立地の阪神地方を襲っていたら、あちらの被害はもっと大きかったにちがいないと。 黒坂からさらに二十分ばかり遡った国道の左頭上に目指す楽々福神社(東の宮)があった。

車を止め急坂の石段を喘ぎあえぎ上った右わきに社務所がある。

楪さんは民話収集で再三訪れているのか若い宮司・木山典明さんと面識があった。

木山宮司は私の電話を覚えており、「八代からの訪問者は初めて」とよろこび本殿へ案内した。社務所から百米ばかり奥まった森閑の異界が切り開かれ、そこだけに光が差しこんでいた。まわりは杉の大木が林立して昼日中も薄暗い。本殿の造りは大きくがっしり新しく、遷宮後の経年は浅いように思われた。

 日南町宮内の楽々福さんの神社縁起は長いので意訳すると、ここに祀られているのは記紀神話の「孝霊天皇」とそのファミリーで、開運招福・願望成就の福の神になっている。

 孝霊は幼名を楽楽清有彦命、号を笹福(ささふく)という。このササフクが隠岐や日野川の鬼や大蛇を退治して山陰全域を平定、この地の祖になった。その子が「桃太郎」になって吉備の国の赤鬼青鬼を征伐した。以後この地を聖地として楽々福神社が創建され日野川流域の総氏神になった、と。

 噺はおもしろいが孝霊一統の武勇伝ばかり。肝心の河童はカの字も出てこない。

 明治元年(1868)楽楽福社として県社に、同七年楽楽福神社に改称されている。

 立花書院の『日野川の伝説」にかえると、ここの川祭りには楽々福の神が各地の神社総代を招きご馳走をする。河童九千坊は日野川代表としての出席だ。

 日野川で泳ぐ子供は、楽々福神社のお守りを入れた小さな竹筒を身につけると河童に尻をとられないという。

 楽々福さんのご神紋をいただきここを下り更に川すじを五百米ばかり。右折して小道の

奥にある細媛命(孝霊夫人に比定され、安産の神さまになっている)が眠る伝承の、西の宮の楽々福神社まで足をのばした。川に向かい合う男女の神様はわるくない。東の宮が一緒に管理しており社は無人だった。

 引返し、さっき楪社長が大地震に遭ったという食堂に寄った。強行軍だったので遅い昼飯になってしまった。

 下りの日野川中流あたり、国道から右へ枝道の入りこんだ田んぼの中に小さな森と大きなお宮さんが見えた。溝口町の楽々福神社である。

 この流域には楽々福さんが六社あるという。

「ここに参って宮司さんの自宅を訪問しよう。古代史に詳しいから楽々福と九千坊の関係

で、いいはなしが聞けるかもしれない。」と楪さんが言った。

 突然の訪問だったが家の主はきさくに応対した。蘆立(あだち)達雄宮司である。かなりのご年配とお見受けしたがかくしゃくとして艶がある。

 蘆立さんは、日野川の砂鉄産出と山陰製鉄史の視点から、楽々福の神々とは、実は、稲作農業と砂鉄文化をもった大陸渡来のカッパ族と考察されており、後日、そのことで自説の論稿をおくっていただいた。

 論理的でおもしろい。時間のたつのも忘れて一時間ばかり話しこんだ。

 日野川の砂鉄はタマハガネ又は和鋼として知られており、鍛造を業とする人や金属材料・採鉱冶金学を学んだ者は大方そのすばらしさを承知している。その砂鉄を狙って、昔々鬼や大蛇が現れ人里を苦しめるのだ。その窮状を見かね、謎の「大王と皇子」が鬼蛇をやっつけ平和がよみがえる。説話だから虚実混捏はあたり前にしても、神社縁起や鬼蛇征伐には天皇崇拝の濃い味つけと正邪善悪アベコベが多い。

 出雲路が暮れなずむころ、尼子氏ゆかりの城址を見上げ安来温泉街へ向かっていた。

私は車中で八代の九千坊河童の一統はなぜここへやって来、なぜここに定着したのかをあらためて考えてみた。 

九千坊の一統は先進文化を広めようと幾組にも別れ日本列島を東北へ向かったのだが、そのひと組は対馬海流の日本海ルートをたどった。その中途、石見の国の高津川や江川(ごうかわ)や出雲の神戸川にたち寄り、伯耆へ入って海中に噴出する米子の皆生(かいけ)温泉と三保湾に注ぐ日野川の河口に到達した。

 そのとき彼らはそこに日奈久温泉と球磨川を重ねたにちがいない、と私は思った。

 それだけではない。河童九千坊の慧眼は浅瀬や砂浜に黒光りの帯を見たのだ。

 江南で体得した精銅・製鉄の知識と経験、そして砂鉄の取引きで川内川や菊池川を行き来した不知火・有明の河口域の光景、川筋の風景から鉄の存在を直感したのだった。

 ベンガル伝来の砂鉄文化

 日本史の画期は稲と鉄である。稲の伝播・伝来によって人は水環境のよいところに定着して共同社会を営み農業生産を始めた。その稲作生産を飛躍的に発展させた道具が鉄製農機具であった。

 八代の「オレオレデライタ」伝説によると河童九千坊の一統が古代中国(呉の国)から新しい文物を携え渡来した。九千坊は新しい農業(稲作技術)と新しい金属(製鉄技術)を日本に伝えたのだった。

 どうせ河童のはなしと本気にしない人もいる。しかし稲作のみならず製鉄の日本への伝播も、江南の海人族・河童族がもたらした黒潮文化である。青銅器もそうで、中国の銅の主産地は江南域の雲南・広西チュアン・湖南である。

 日本のアカデミズムには、文献史学の立場から鉄文化は古代朝鮮からときめつける傾向があるという。これは赤鉄鉱・褐鉄鉱から銑鉄→鍛鉄へ、多段階製鉄法のはじまった古墳後期から飛鳥以降を製鉄の始まりとする狭い考えで、砂鉄文化を知らないか無視していると異議を唱える人もいる。

 日本古来の砂鉄文化は文献に見えにくい。経験と口伝による門外不出のシャマーニズム的秘伝として継承されたからだろう。

 製鉄の世界史は古いのだ。メソポタミヤが五千年、ギリシャ四千年、インド三千年、中国は二千五百年といわれる。

 砂鉄文化で日本とゆかりの深い国は「鉄の国・ハガネの国」のインドである。砂鉄から鋼をつくった大先輩がベンガル地方にいたのだ。世界で磁鉄鉱系の砂鉄から直接ハガネをとるのはインドと日本だけといわれる。

 原始的な製鉄は、地面に穴を掘り(露天炉)そこに砂鉄をいれ木炭を重ねて燃やすのだが、送風は自然の風任せ。「野ダタラ」という。しかし鉄は銅や金など非鉄金属に比べ溶融温度が1・5倍も高いので、野ダタラ製鉄は気まぐれ。雨が降れば火も消える。

 インドでは初歩的な溶融炉として粘土性のつぼが用いられるようになり、送風機としての踏みタタラ(ふいご)も考案されて製鉄技術は進歩する。日本では古代製鉄の職能集団をタタラ族ともいうが、タタラの語源はサンスクリット語(古代インドの文語)のタータラ(熱)といわれる。

 ベンガルのハガネや刀のつくり方は、紀元前後、民族の移動や東西交易によって、東方へは当時印度領だったカンボジアへ広がり、東南アジアからは漂海民(河童族)によって言葉と一緒に日本へ伝わった。日本の砂鉄の本場⟨鳥取と島根⟩ではハガネのことを「ケラ」とも言うが、語源は印度ヒンズー語「サケラ」の変化したもの、日本語の刀もヒンズー語の切る意味の「カートナ」から、ビルマ語の「カタナ」も同系といわれる。

 以上から日本の製鉄法と製鋼の源流はどうやら印度のベンガル辺りか。

 中国では「鉄」の文字は紀元前5世紀の春秋時代に現れるようだ。河童族の呉の国と関係するので書いておくが、伝説によると呉の国の男女が共同してフイゴを使い、はじめて名刀をつくったので、戦国時代、呉越を中心に製鉄業が盛り上がったという。

呉と越は「銅と塩の国」だから青銅器文明のルーツでもある。江南では合金・鋳造が発達、鉄との合金(ステンレス)にも生かされていく。製鉄も本場、大治鉄山をはじめたくさんの鉄鉱山があった。何でも呉の国渡来(オレオレデライタ)に結びつけるようだがウソにはならないだろう。

 ただここでは前述したように、砂鉄からの直接法と異なり鉄鉱石からまず銑鉄(不純物の混じった粗鉄)をとり出し順次錬鉄に仕上げる多段階法。だから砂鉄のハガネよりナマ

クラ?が多かったといわれる。かって青龍刀にたいする蔑視も、たぶん素材と製法のちがいからと思われる。日本の近代製鋼も山陰のマサ小鉄(こがね)には劣るという。

 古代山陽の吉備地方も鉄の国であった。ここの鉄はアコメ小鉄として知られており、そのためここも「桃太郎」に狙われ国ごと奪われる。山陽の鉄は山陰の磁鉄鉱(マサ小鉄、楽々福神社の蘆立宮司はマサに「真鉄」を当てておられる)とちがい、主に赤鉄鉱(赭石といわれる酸化第2鉄)から銑鉄をとるので中国・朝鮮方式になるだろうか。鋼性に劣り主に農機具とナベ・カマがつくられた。

 このように河童族のもう一組は瀬戸内を東上しながら吉備の国へ住みついた。九千坊は福山の芦田川や総社の高梁川、岡山の旭川や津山の吉井川の流域でベンガラ色の赫い山肌に気づいて、ここでも新しい稲作農業と銑鉄の技術を伝えたのだ。

 いづれにしても、日本への鉄と鋼の伝播には、インド洋から南シナ海経由にせよチベット・ヒマラヤ経由にせよ、呉越の河童族の協力が前提になったことは容易に想像できることである。

 安来の泥鰌(どじょう)すくい

 蘆立さんの論考は長文なので整理すると、楽々福さんの祭神は鉄の神であり河の神である。鉄の神が河の神に推移していく必然が鉄の神の推移過程で、当然たどる道である。

鉄産業は、(1)浜砂鉄(2)川砂鉄(3)山砂鉄と鉄原料を求める立場から(1)~(3)の時代区分ができる。(3)は山の砂を掘り出し水流(比重差利用)による選別時である。その施設を鉄穴(カンナ)といい、カンナ流しという。     

 カンナ流しで河川は濁流となる。「ヤマタの大蛇(オロチ)」はそれを形容しており後世は明らかに公害の対象になる。そのため楽々福神社では春祭と秋祭を境にして農業期と鉄穴期に大別、神の名でその季節間産業主体の役割を演じることになった。つまり「河止め」と「河明け」である。

 楽々福さんと河童の話はこの期のはなし。川を支配する神の力の物語りである。楽々福神社の祭神・孝霊天皇の伝承は大陸渡来の製鉄集団を神格化したもの、記紀の普及に及んであらわれる。

 補足すると、ササフクの「さ」は「微細・砂・鉄」の意味があり、「ふく」は「吹く」である。だから「ササフク」とはきめ細かな砂鉄によるタタラ製鉄のことをいう。ヤマタのオロチ退治の英雄・素佐鳴命の「スサ」は「素鉄」であり砂鉄を擬神化したもの。安来節の泥鰌すくいの元々の姿は土壌すくい。砂鉄をとる労働のことを指すという。

 金気を嫌う河童のはなし

 さて日野川に着いた九千坊は、砂浜に黒光りする小さな金属粒を見逃さず、この川の上流に宝の山を直感した。伯耆・出雲・石見の山陰地方は磁鉄鉱と銀鉱石の宝庫であった。

 楽々福神社の蘆立宮司は、鉄産業は(1)浜砂鉄(2)川砂鉄(3)山砂鉄に鉄原料を求める立場から(1)~(3)の時代区分ができるとされたが、楽々福神社の在地点からもそれを裏づけている。

 日野川の砂鉄はタマハガネといわれるマサ小鉄のもとで、磁性の強い磁鉄(マグネタイト)から還元される。磁鉄鉱は黒色金属や亜金属の光沢を発するので、九千坊が日野川河口でみた光景は浜砂鉄の発する金属光だったのだ。河口に浜砂鉄の存在は、この川筋がまだ手つかずで、しかも上流の山間部には無尽蔵の磁鉱石が眠っていることを予感させた。亜金属の光沢はクロームの彩色でもあった。

 鎌倉以来の伝統を誇る八代の刀匠・盛高経猛さんによると、球磨川には砂鉄がないので菊池川か川内川から購入してきた。「鋼質で日野川の砂鉄には太刀打ちできない。歩留りは九州が30%、伯耆は60%と格段のちがい」と、日野川に軍配をあげた。

日野川砂鉄の積出港として栄えた島根県安来市には和鋼博物館があり、日本の砂鉄文化を再現している。展示室の天秤ふいごや鈩製鉄(タタラ)用具は国の重要民俗文化財である。日立金属もここで操業し鋼製品をつくっている。

 前出・銑鉄文化の朝鮮渡来に係り、鉄が日本の文献に顔を出すのは奈良時代の風土記あたりからか。平安時代に入ると農村から鉄製品の収奪が激化する。貢物の「庸」としてクワ(鍬)を納入したのは、伯耆(鳥取)美作・備中(岡山)備後(広島)筑前(福岡)の五か国(十世紀の延喜式)にすぎなかったようだ。

 日本では鉄資源が乏しく明治の殖産で八幡に製鉄所ができると外国から鉄鉱石を輸入するようになる。しかしそれまでは、とにもかくにも、山陰・山陽だのみ。明治初期(1874年)の記録に、砂鉄製鉄所416・製鉄は年間五千㌧。産地は両域に集中していたとある。

 日野川に移り棲んだ九千坊の、この地の暮らしは長いあいだ半農半鉱だった。砂鉄収集は農閑期に共同で行い、主に農耕器具、狩猟・漁撈用具、建築用刃物に用いた。蘆立説のとおり、秋の彼岸から来春の彼岸までが砂鉄とりと炭焼き(製鉄用の燃料、砂鉄1に木炭1が推定必要)の季節と決まっていた。

 九千坊は農作業の合間に苧(カラムシ)も採集した。麻の一種で、皮の繊維で布を織り縄をなった。しかし古代国家の成立する古墳時代以降、鉄器の需要が急増し砂鉄産地は鉄ラッシュに沸いて、各地から砂鉄すくい(土壌すくい)が流入するようになり、後では専業化へと進んで鉄穴師(カンナシ)が形成されていく。

 平和な時代もつかの間、稲作地帯と鉱山の支配と収奪権をめぐり、やがて豪族間、小国間の覇権争いが始まる。そのとき鉄は農機具から殺りくの凶器に姿を変えていく。

 河口の浜砂鉄がとり尽くされると川砂鉄のある中流域に移動する。中流域を取りつくすと源流域の山砂鉄へ向かっていく。出雲鉄の鉱脈は日野川上流西岸の山麓にあり、そこは砂鉄採集都市に変貌した。最盛期、日野郡に数百か所、年間三百万貫(11250トン)の砂鉄を採集したという。

 明治のころ日南町には旅館五軒、置屋三軒の記録がある。この流域にステンレス合金やメッキ用途等のクロームも発見されたので鉱山ブームに輪をかけたと思われる。 

  蘆立さんにもあるが、砂鉄を採集する施設(場所)を鉄穴(カンナ)といい、これを洗い流して精選するのが鉄穴流(カンナナガシ)である。山上のため池から放流した激流で鉄含有の山泥を洗い流し、水路に比重の重い砂鉄を沈殿させて採集する。この鉄穴流で下流域に甚大な泥流と鉱害が発生、上流の鉱山師と流域農民の対立が深まった。

 タタラ製鉄に造詣の深い国土交通省日野川工事事務所の高平昌一副所長は、「たたらの操業に不可欠な鉄穴流は、洪水の度に多量の土砂を下流に押し流し、カッパや大ハンザケが棲んだり、悲恋の美女が身を投じたと伝えられる多くの淵は見るも無残な姿を曝す破目になった」と述懐している。

 金気を嫌うかっぱ伝説が全国に分布している。伝承地あたりか上流域には鉄や銅の採掘と精練の跡があるはずだ。河童は公害と職業病に苦しむ農民であった。クローム鉱山の労働者は六価クロームの病毒に冒されたのではなかろうか。

 山陰地方は製鉄燃料の木炭資源にも恵まれた。重量が軽く火熱がやわらかいので大鍛冶や小鍛冶の錬鉄製造に向いていた。鉄の大量生産が求められ木炭の需要も増加する。年間一万貫(37・5トン)つくった粘土で固めた炭焼きガマの跡もある。

余録ー日野川の松本清張と井上靖

 鳥取県日野郡の町村は日野川に張りつく山峡の里である。

 そのひとつ、楽々福神社へ向かう道筋に「矢戸」という集落があった。日南町の中心になるのか、公共施設を散見し個人住宅も多い。

「あれだよ」と楪さんが指さす道左の一段高い広場に記念碑がみえた。

 松本清張の文学碑だった。

「楽々福神社を先行し、ここは帰りにゆっくりと。」

 日南町矢戸(旧矢戸村)は松本清張の父峰太郎の故郷である。

 『半生の記』(河出書房新社1966初版、清張没後の92増補版)に「父の故郷」が最初にみえる。「峰太郎の思い出話の中には必ず日野川の名が出てくる」と記している。

 清張は一九六一年、山陰へ講演旅行をした機会に米子から朝早く車でここに来た。そのとき親戚に請われ「父は他国に出て一生故郷に帰ることはなかった。私は父の眼になってこの村を見て帰りたい」と書いている。

 二年後、連載『回想的自叙伝』を書き始めるが、そこに《父系の指》があり、後で『半生の記』に改題されている。

 清張文学碑は一九八四年建立。碑には「幼き日夜ふと父の手枕で聞きしその郷里矢戸いまわが目の前に在り」と刻まれていた。

 矢戸の文学碑にたたずみ、私はなぜか不図《砂の器》が思い浮かんだ。物語りも舞台も人物も違うけど、砂の器と清張父子は何かがどこかで重なり合っているように感じた。

「清張の父方の係累(田中家)のなかで、清張が心を許しあった親友が健在だから訪ねてみよう。」と楪さんが言った。その人、久城英雄さんを知っているからと。折よくご本人在宅、喜んで応接間に通していただいた。

 久城さんの奥さんが清張と縁つづきの旧姓田中さん。当の英雄さんはアメリカで少年時代をすごし、社会人は満鉄勤務など外国での長い暮らしからか、洗練された知識人の風貌があった。アメリカ時代、二階堂進(後年の副総理)との交友もあったようだ。

 久城さんは清張との故旧を懐かしみ、たくさんの写真や手紙を出していただいた。はなしが弾み小一時間経っていた。

 楪社長の人脈と人徳、友愛と積極性のお陰で幾重にもついていた。

《楼蘭》など西域もので大好きな井上靖ゆかりの場所もある。

 私が最初に楽々福神社へ行くため下車しようと思い立った駅がゆかりのJR上石見である。敗戦直前の一九四五年六月、靖は家族をここ福栄に疎開させている。

 新聞記者のころだ。

 一九四九(昭24)年発表の《通夜の客》(別冊文藝春秋)にこの駅が描かれている。

「夕方の急行で東京を発ち、その翌日の昼、岡山で伯備線に乗換え、あのいかにも高原の駅らしい上石見の小さくて清潔なプラットフォームへ降り立った時はもう暮方でした。」

 文学碑に「ここ中国山脈の稜線天体の植民地風雨順時五殻豊饒夜毎の星闌干たり四季を問わず凛々たる秀気渡る ああここ中国山脈の稜線天体の植民地」(一九七八年建立)と刻んでいることを知った。残念ながらここには寄らなかった。

 ちなみに井上靖は川の一途さを愛したロマン派である。しかしダム問題に早くから警鐘を鳴らした河童族であることは余り知られていない。

 靖は四十六年まえの短編《川の話》にダム工事への怒りを噴流させている。

 私たちは先輩たちが発した危険信号をないがしろにしてはならないと思う。

 川辺川ダムの是非をめぐって大論争のさなか、この作品は一読の価値がある。

 この日、日野川流域の散策はたっぷり九時間、走行距離は200㎞に及んだ。

 楪さんに心から感謝したい。

 以上、球磨川の河童九千坊が鳥取県の日野川に移り棲み、その流域の代表になったあちらの河童伝説についてその背景を探ってみた。ただ私の論述は河童流なので、真偽の判断とつじつま合わせは各位お好きなように。

 

参考資料(年代順)                          安田徳太郎『人間の歴史6』光文社1957

井上靖『川の話、あすなろ物語』旺文社文庫1966

盛高靖博『夜豆志呂17・18合併号、日本古代の鉄と刀工』八代史談会1971

盛高靖博『夜豆志呂58号、古代日本の鉄をたずねてータタラ研究会熊本大会講演』八代史談会1980

楪範之編『日野川の伝説』立花書店1995

寺戸良信『漫画日野川の河童』立花書店1998

高平昌一『日野川今昔写真集、日野川の文化はたたら文化』立花書店1999

八代史談会誌「夜豆志呂」138号2002、2刊

2001河川文化発見フォーラム 球磨川代表としての発言

田辺達也

✺河童渡来伝説と河童共和国

 

(1)私は球磨川のガラッパです。河童共和国というミニ独立国の閣僚・官房長官でございます。今日は球磨川水系と不知火海域の代表として河童の目線から発言いたします。

 わが国の大統領は、カッパ研究と水文化の振興で信友社賞をいただいた日奈久のガラッパ・ドクターこと福田瑞男さんです。東京・岡山・沖縄・熊本に大使館があります。東京大使は天保水滸伝でおなじみの浪曲界の中堅・玉川福太郎さん。熊本大使はモダンダンスの第一人者でシャロック・ホームズの著名な研究家・吉田武さん。鎌倉にいる劇作家の井上ひさしさんは、河童共和国の憲法にゾッコン惚れこんで、イの一番に国民になっております。

(2)最初にガラッパの跳梁バッコのあらましを、品の良い言葉なら河童の活動報告をいたします。

 河童共和国という水と河童の文化団体が八代にできてから14年目になります。人間世界からは屁のカッパと安がわれております。しかし私たちは「しゃれと本音、まじめな遊び心」を発揮しており、憲法と建国宣言にも「切り口のやさしい水環境擁護の運動、八代の河童伝説・オレオレデライタ物語りによる新たな街おこしの仕掛け、そして河童愛好家や水研究家との友好親善を図る」ことを目的に活動すると明記しおります。

 河童が出没して物申すことは、擬人法・間接法といってワンクッションおくソフトなやり方です。問題のすり替えとか、遊び半分では訴える力が弱く問題解決に時間もかかると批判されることがあります。しかし心にじわじわ染みるおだやかな手法には知恵が必要です。今の時代こそ河童の知恵と流れる水の自在性が必要です。

(3)河童共和国の名前はすでに十三年まえ日本で最初の河童サミットを自力で主催し、世界の125ケ国に案内状を送ったのでにわかに注目されました。つづいて九州河童サミットも主催した力量が評価されました。

 この国には国立かっぱ大学があり、市民大学風の公開講座を開いており、聴講生はすでに二千人を超えました。この大学で学んだ学生には学位・自称河童学博士を授与しています。自称というところが河童ならではのパロディです。六年前には八代弁で歌う本格オペラ『かっぱの河太郎』を制作。この作品はオペラの本場イタリアで対訳つき上演、好評を博しました。

 河童共和国とか王国の河童団体は全国に百グループ、そのうち九州には35グループあります。毎年、広域的なイベント・九州河童サミットを開き交流しています。今年は今月の末、宮崎県高鍋町で開催されます。九州は河童王国です。

(4)球磨川ガラッパの先祖はいったいどこから来たのか? ということですが、

 八代の伝説「オレオレデライタ物語り」によりますと、二千年ばかりまえ古代中国の呉の国から新しい文化を携え海の道からやって来た人々だった、と伝えられております。

 呉の国と九千坊からして、八代に渡来したのは万に近い多くの人々だった。そして渡来人の統領は徳の高い知識人だったことが伺えます。三国志のハイライト「赤壁の戦い」で魏の大軍を火攻めにして破った呉の水軍は、実は海と川に生きる河童族だったと思われます。                 

 河童族が八代に渡来したとき、呉服とか胡瓜(きゅうり)とか焼売(しゅうまい)など、あちらの珍しいものを沢山もってきました。焼売の形は河童のギザギザ頭がヒントになっており、八代が日本における焼売のルーツという訳です。私たちはこのお盆休み、久しぶりあっちへ里帰りして、南シナ海や珠江流域の同胞・蛋民のみなさんと再会して泳ぎを楽しんできました。

(5)最近の珍事は、JR八代駅のホームに本物の河童が出没して「がらっぱ弁当」を売り始めたので、乗客はウッタマがるやら喜ぶやら。テレビ局も新聞社も事件発生とばかりの大騒ぎしました。誘拐とか殺人とか、外務省幹部のネコババとか裁判官の買春、警察署と暴力団の癒着などいやな事件が多いなかで、八代駅に河童の出没は、同じ人騒がせでもこっちは夢があり何となくほっとするニュースです。

 八代では近年中学校が文化祭に河童をとり上げており、河童共和国に協力依頼がございます。この協力は小学校へ広がって、先日は松高小学校でガラッパの民話を30分しました。相手が三年生の子供さんですから少し工夫しなければと先生方と相談し、河童のお面と背中に甲羅、全身緑のコスチューム、ヤッチロベンで授業しましたところ大変喜ばれ、後でみんなが感想文を書いてくれました。

 感想文には、川にゴミを捨てない決意もさることながら、私の話を聞いて、ガラッパが本当にいるような気になってきたとか、将来河童の研究をしたいなどになってくると、もうこっちが嬉し涙です。最初の発言はこれで終わります。

 

✺河川文化は水系・流域の文化

 

(1)ここでは「河川文化」について球磨川ガラッパの考えをのべてみます。

 ごくあたり前のはなしですが、川は、源流域から中流域へ、下流の河口域・海域に流れる、水系と流域の営みです。球磨川水系は、九州山脈に源を発する人吉・球磨地方と不知火海に面した八代地方を一くくりにした、水の環境域・水の文化圏のなかにあります。

 ですから、川の文化とは、河川水系流域の自然と人の暮らしの総和であり、流域相互の行き来の歴史をいうものと思います。

 球磨川水系の文化を考えるとき私はいつも鎌倉前期の歌人・藤原家隆の歌を思い出します。

 夏来れば流るる麻の木綿葉(ゆうは)川 誰れ水上にみそぎしつらん

 木綿葉川は球磨川の古い名前です。家隆は下流域の川べりでコウゾやカラムシの繊維を偶然みつけ、その糸くずから、川上に人の暮らしやミソギの風習に思いを馳せたとおもいます。万葉にも通じた鎌倉歌人の優雅さが、この川の名前に美しく実を結んでいるように思います。

(2)河川文化を言うのならルーツを探る必要があります。

 ガラッパが山と里を行き来する民話から、日本人の心象風景が見え始め、そして水の文化・稲作文化を学ぶことができるはずです。

 私たちの祖先は、山奥の異界に荒ぶる神々が潜み祖先の霊魂が宿ると信じてきました。その山の神・水のアニマは、毎年春先になると里に下りて水田に宿るのです。祖先の体験から、形象化された水の精の代表が『河童』であるわけです。

 その河童ですが、田植え前になると森の栄養分と水の恵みをタップリお土産に、カッパ道といわれる不思議な川筋を「ヒョウヒョウ」トラツグミのような鳴き声を発しながら里へ下って、川の神いわゆるカワンタロウに変身、田んぼの水まわりを確かめ稲作農業を手伝いました。干潟の栄養分を調べ海水の具合も見守りました。

 そして秋の深まるころ、黄金色の瑞穂の実りを見届けると、川筋を再び山へのぼってヤマワロになり、山の里で炭を焼き森の枝をうち焼き畑農業を手伝うのです。河童の鳴き声を聞いた古老が八代にも居られ、私も録音された河童の鳴き声を聞かせてもらったことがあります。

 この物語りは全国に分布しており、これは熊本が生んだ民俗学の泰斗、丸山学先生の『河童の山川往来説』としてまとめられております。

 河童が山と里を往来する説話は、稲作の源流とコメが伝わり広がった道筋、いわゆる東南アジア、中国の雲南・江南から日本へ北東に伸びる昭葉樹林帯の農耕文化圏が共有する民話です。

 (3)そして私たちは山麓の森林と海干潟の関係を何時のころからか『山は海の恋人』と呼ぶようになりました。実にロマンチック、しかも科学的なたとえでして、うっとりする響きをもっております。山の神と海の神の恋のプロムナードが川の道です。山海の幸の運び屋、山海の仲をとり持つキュウピッドの役が川の神・河童であったということです。

 水の惑星・地球の面目躍如といいましょうか。このように河童の躍動を通して日本人の暮らしと考えが見えてまいります。そして日本人の心と風土を研究するうえで、水の化身・河童の存在がいま世界の注目を浴びております。

 そのことを最も端的に象徴するできごとが、つい先日福岡で開かれた水泳の世界選手権大会で起きております。この大会のマスコットが河童でして、報道の中で河童のアニメが選手たちと一体になり泳ぎ踊っていました。

 Kappa, who ?「河童とは何(誰)ぞや」ですが、この世界大会の成果は、河童が最も日本的な水の精であり泳ぎの達人としてストレートに理解され、もう一人の選手になったりお友達になったりして友好親善の実をあげたこと。河童が日本人の大好きな民話の主人公であることを、日本人の水への信仰の深さを非常にわかりやすい形で紹介したことだと思います。

(4)河童を通して河川文化の原点に迫る試みは行政の文化事業としても近年あちこちにみられます。十年前には東北の遠野市が世界民俗博、八年前には埼玉県立博物館が『河童VS天狗』の特別展。今年の夏休み、佐倉市にある国立歴史民俗博物館が妖怪と河童展を大々的に開きました。特に今年の目玉は、江戸時代に描かれた河童図と文献をもとに実物大の河童を制作して注目されました。来年は県立埼玉・水の博物館が河童展を予定し準備しております。

 このように、河童ブームが起きて河童が主役になること自体、私たち河童族にとっては大変嬉しく有難いことです。しかしなぜ河童が引っ張り出されのか? なぜいま河川文化が強調されるのか? 喜んでばかりはおれない水環境の危機があります。

 河童のシグナルは次に発信したいと思います。

 

✺ダム推進と河川文化の整合性

 

(1)河童ブームが十数年つづいております。流行に飽き易く冷め易い現代の風潮からは大変珍しい現象です。

 芥川賞作家で若松の河童を自称した火野葦平は一九五〇年代にこう言っております。

「河童が跳梁バッコするのは世の中が乱れ、政治が腐敗しているからだ」とかっ破しました。河童ブームの底流には深刻な社会不安・政治不安があるということです。近年、河川環境とか河川文化が声高に叫ばれたり、川のフォーラムに河童が引っ張りだされる背景には水環境の危機・河川文化の危機があり、河童も悲鳴をあげております。

 私は球磨川と不知火海の代表として、母なる川・母なる海でいま起きているダム問題やノリ問題から目を反らすことができません。今日のスポンサーには少し苦い言葉になるかと思いますが、水の神・河童の苦言としてご寛容ねがいます。

 河童がズバリ申しますには、球磨川の流域文化を根底からぶっ壊しかねない「無目的の川辺川ダム推進」の国土交通省が今日のスポンサーであることは、何だか不似合いで漫画チックに見えてまいります。

 関係省庁の行いと21世紀の河川文化には果たして整合性が有るのか無いのか? 

 シェークスピアに言わせるなら「ザット・イズ・ザ・クエスチョン」になりましょうか。球磨川ガラッパの率直な疑問として提起しておきます。

 水環境について日本国民の目はいま九州に注がれております。

 球磨川支流の川辺川でダム建設の是非をめぐって、また諫早湾締め切り後の海洋汚染をめぐって、自然保護とは何か、利水とは何かが、私たちの目の前で真正面から鋭く問われております。有明海と不知火海域でノリの壊滅的な悲惨を目の当たりにすると、何かが大きく狂っていることに気づかれると思います。

(2)今日は五十年前と十六年まえの熊本日日新聞を持ってきました。

 戦後の河童ブームをリードした人に佐藤垢石という河童と釣りの随筆家がおります。

 昭和二十七年、熊本日日新聞社の招待で熊本に来て一か月滞在。県内をくまなく回り、そのとき人吉の黒木市長を交えた座談会でこう言っております。

「球磨川は有数の立派な川で、ここの鮎がまたよそでは見られない見事なものだ。日本の大概の川が経験していると思うが、ダムができたらそこで鮎は産卵しなくなるし、上流へ上がる数も激減するので、そうならないよう地元でしっかり努力してほしい」と。

 熊日新聞はこのとき「ダムが出来たら鮎は滅亡」の見出しをつけていることを、どうかご記憶願います。これは新聞人の見識と勇気であります。

 もう一つは、人吉市の委託を受けて二十年まえから球磨川上流域を調査した熊本大学工学部が十六年まえ、「川辺川ダム建設でアユ絶滅の危機」を発表した記事です。新聞各紙は「川辺川ダム清流を汚す」「汚濁進む多良木水域」「球磨川のアユピンチ」の見出しをつけております。人吉市長は永田さんですが、この調査に衝撃を受け「アユは観光人吉の目玉であり何としても守らねば」とコメントしております。

 かって熊大医学部が水俣病の原因物質は有機水銀であることを突き止め発表しました、しかしその事実は政府に押しつぶされ、その結果、水俣病蔓延の悲惨をまねきました。

 川の一途さを愛した水の作家、井上靖さんも、ダム工事への怒りを静かに書いております。四十六年まえ(1955年)発表した《川の話》です。ぜひご一読をおすすめします。熊本県でもこの《川の話》を印刷しダム副読本として全戸に配布されたらいかがでしょうか。

 球磨川ガラッパが言いたいのは、先輩たちの発した危険信号を無視してはならない。マスコミ各社も先輩記者の見出しを決してないがしろにしてはならないということです。

 河川文化の危機については、日本ではコメ文化の衰退で河童も滅亡しそうな、深刻な様相を呈しております。そのことについてはご指名があれば補足して発言いたします。

✺コメ文化の衰退は水文化と河童文化の滅亡

 稲のとり入れを前にして青田刈りが強制され、農家の悲鳴が聞こえてきます。

 日本人は自分の国を豊芦原・瑞穂の国と言って農業とお米を大切にしてきました。稲作農耕は日本文化・河川文化の原点のはずです。しかし今はどうでしょう。国や地方自治体が、減反を強制してコメをつくらせず、コメの値段は四半世紀も抑えられています。田畑 を荒れ放題にまかせて農業をつぶしにかかる。その一方で外国から怪しげな食べ物がじゃんじゃん輸入されております。

 主食の生産を大切にしない国、食料の自給を放棄する国は、世界では日本だけです。この逆立ちからも、「これは何だか変だぞ、これでは日本がだめになるのではないか、コメ文化の申し子・河童もいなくなるのではないか?」ということです。

 これで終わります。

二〇〇一年九月

河童の心

第12回全国河童ドン(市長)会議(千葉県銚子市)講演(2000年)

田辺達也

はじめに

 九州の球磨川に棲む九千坊河童族の田辺と申します。河童共和国の官房長官を十三年つとめ、九州河童族30グループの事務局長を兼任しております。

 千葉県銚子市への訪問は初めて、地方自治体の首長さんの会議でお話するのも初めてでございます。文豪が育ち歌人が魅せられた豊饒のまちー銚子で、しかも海千山千の政治家を前にしてお話をするのは九州の田舎者には役不足かとおもいます。ご指名ですのでご容赦をねがいます。私はこの機会に八代民間大使の役割をつつがなく果たすとともに、ご当地の魅力をたっぷり吸収して帰りたいと思っております。

 持ち時間は1時間になっております。しかし河童の自在性と奥の深さから、いったん話を始めるとあちこちに飛んで切りがありません。十五分ばかり伸びるかもわかりません。その分は「かてしょい」でございます。「かてしょい」とは八代の方言ですが、プラスαの大サービスの意味があります。サービス精神旺盛なところ、河童の特性でございます。

 まずは河童ドン会議の第12回総会おめでとうございます。第8回牛久かっぱ祭りを兼ねた第1回全国会議から十年を超える、河童のふるさと創り・水文化振興の地道なご努力に心から敬意を表します。官民一体の協力によってその実が一層あがるよう、私たちも微力を尽くすつもりです。

 そして、ご当地―銚子かっぱ村の開村15周年と大内かっぱハウスの開館、おめでとうございます。大内コレクションの粋(すい)を体現する『かっぱハウス』は、民間の成果としては量質ともに最良を誇るもので、日本の河童文化・水文化の更なる発展と、民俗学など学術振興に新しい流れをつくり出し貢献することは間違いありません。観光の新名所としても、末永く親しまれることを心から期待いたします。

✺柳田国男の九州旅行と耳に遠い解らぬ言葉

 私は八代ではふだんガラッパ語とヤッチロ弁でしゃべっております。ガラッパ語はペルシャ語に近いという人がおります。河童ペルシャ原産説からすればそうかもしれません。ガラッパとは河童のことで、西南九州の熊本・鹿児島両県では濁音まじりに訛ってそう呼んでおります。ヤッチロは八代です。鹿児島県に入ると九州で二番目に大きい川内川があります。川内川の河童なら鹿児島弁でセンデ・ガラッパになります。ヤツシロがヤッチロ、センダイがセンデです。

 九州の方言から、柳田国男と国木田独歩がモデルの田山花袋の小説を思いだします。

 柳田国男は民俗学の生みの親として河童にも大変縁の深い人です。

 明治41年、今から91年まえになりますか、明治政府の高官(法制局参事官)として五月から七月まで九州を視察旅行しております。三十三才のころです。「後狩詞記(のちのかりのことばのき)の旅」として知られております。

 なぜかというと、柳田国男はこのとき宮崎県の山村・椎葉村に一週間滞在して村の古老から狩りの故実のはなしを聞き、狩りをする際のしきたりや焼き畑農業をなりわいとする村の暮らしや山の神への信仰に強い関心をもち、翌年『後狩詞記』を発表しました。『遠野物語』を書く2年まえのことですから、九州旅行はまさに柳田民俗学の出発点になっております。国男が滞在した椎葉村には「日本民俗学発祥の地」の記念碑が建てられており、椎葉民俗芸能博物館もあります。広く九州・アジアの民俗芸能の展示、調査研究、保存をおこない、情報発信基地の拠点の役割を果たしております。

 国男は八代にも立ち寄っています。

 花袋と国男はもともと自然主義文学や新体詩歌の仲間で、国木田独歩や島崎藤村も同時代の文人でございます。花袋の小説に、国男の九州旅行と旅行中亡くなった独歩を描いた作品に『縁』があります。

 ここで国男がモデルの西さんという主人公が、川内川に沿って県道を下る道すがら「土地のものは外国へでも来たのかと思われるような、耳に遠い、解らぬ言葉で話し合っていた」ことに驚く場面があります。百年前の中央政府の役人にとって、九州のカゴンマ(鹿児島弁)は「耳に遠い、外国の、解らぬ言葉」に映ったにちがいありません。

 今はそうでもありませんが、私がもし全部ヤッチロ弁でやりますと、やっぱり皆さんにはチンプンカンプン、同時通訳がいることになります。今日はその煩わしさを避けるため、怪しげな「東京弁」と時々「キング・イングリッシュ」を使っております。

✺文芸の豊饒なる地ー銚子市

 国木田独歩が出てまいりますと、独歩がご当地―銚子の生まれだけに、九州や柳田国男とのかかわりでこのまま終わるわけにいきません。

 柳田国男の青春時代、国木田独歩は自然主義文学・新体詩歌の同人のなかで最も気心のしれた親友と目され、「独歩はその資質や考えにおいて国男に最も近かったし、国男は独歩の敏く感じ鮮やかな語る才能を高く評価し、その短編に対し推奨を惜しまなかった」といわれているくらいです。

 国男は藤村や花袋らと出した詩集『二十八人集』を、神奈川県茅ケ崎で結核療養中の独歩に届けたあと九州に出発したのです。ですから、きっと独歩の身の上を案じての旅だったとおもわれます。

 国男が外国と錯覚した川内なんですが、彼がこの街にはいったのは雨の降りしきる夕暮れ時だったようです。花袋の小説によると、西さん(国男)は「こんな遠い田舎のさびしい旅籠屋の一間で、田邊(独歩)の訃報を受け取った」とあります。独歩が亡くなったのは六月二十三日、鹿児島県内は梅雨のさ中だったかもしれません。独歩、三十八才でした。               独歩のことはそのくらいにして、次にこちらにゆかりの深い竹久夢二なんですね。

 銚子の市の花が阪東太郎の奔流や太平洋の波濤には似つかぬ可憐な宵待草とは、私にとっては新しい発見でございます。九州は福岡の生活もある夢二の恋の遍歴には、女性への憧憬(あこがれ)と幼少の思い出が色濃く投影しているように思われます。

「まてど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ」の悲恋は余りにも有名です。私は夏の巻の「泣く時はよき母ありき、遊ぶ時はよき姉ありき、七つのころよ」も大好きです。

 実は今朝六時に起きて、犬吠崎燈台から海鹿島(あしかじま)へ。午前中文学碑めぐりをしてきました。ここホテル・ニュー大新から一、二分のところにある水明楼の址から始めました。

 熊本県水俣出身の大文豪・徳富蘆花に敬意を表して最初に挨拶に行ったのです。《不如帰》で知られる徳富蘆花も銚子に行っております。明治三十年十一月、今から百年以上も前になりますか、東京日本橋から利根川経由の船便でご当地にやって来、犬吠崎の水明楼に宿泊しております。今は記念碑文に昔をしのぶばかりでございます。

 蘆花はここからの帰り、銚子河畔の「大新」に宿をとっております。「大新」は、ご存知、銚子かっぱ村村長の大内さん経営の旅館です。大新には島崎藤村も泊っております。明治の青春群像が泊った由緒ある旅館に宿泊できることで、わくわくしながらやって来たのでございます。

 銚子と熊本のご縁では、幕末、肥後の宮部鼎蔵も長州の吉田松陰らと一緒に利根川を下りこちらに来ております。ご当地で日本のこれからのあるべき姿について話し合ったかもしれません。嘉永四年、今から百五十年ばかり前のことです。松陰はアメリカ密航計画がばれて刑死し、鼎蔵は京都の池田屋で新撰組に襲われ憤死しております。熊本県民のひいきから、もし鼎蔵が生きておれば、明治時代、重要な役割をはたしたにと惜しまれる、そんな傑物でございます。

 高浜虚子、佐藤春夫、尾崎行雄、竹久夢二、小川芋銭、最後に国木田独歩と、文学碑めぐりを一通りしてきました。もちろん燈台周辺と海辺の遊歩道もゆっくり一回り。朝は小雨まじりで波風も強く、一部立入禁止になっていました。銚子に来て調子が良すぎ、最初からハッスルしているようです。

✺水の心

 今日の演題には『河童の心』と書いてあります。

 河童は水物語の主人公、水文化を代表するキャラクターです。河童の心とは「水の心」につきると思います。

 水の心といえば、黒田如水の「水の四徳」が思い出されます。ご存知、黒田如水は、豊臣秀吉の軍師として誉れの黒田勘兵衛であります。関が原の戦いがもし長引いておれば天下を取っていたかもしれない戦国の梟雄・策略家であり、三国志の諸葛孔明に比定して評価する人もいるくらいです。

 勘兵衛は自らを「如水」と号したように、彼の人生観・処世観は水の如くありたいと願い、水をよく観察した、正真正銘、河童の一族であります。

 その勘兵衛さんが座右の銘にしたのが『水の四徳』であります。

  • 1.自ら活動して他を動かしむるは水なりー主体性
  •  2.常に己の進路を求め止まざるは水なりー目的意識
  •  3.障害に遭いて、激しくその勢いを倍加するは水なりー逆境をこやしに反転攻勢
  •  4.自らは清らかにして他の汚れ濁りを洗い、なおかつ、清濁併せ容れるの度量あるは水なり。

 戦国時代をたくましく生き抜いた苦労人の哲学だけに、やや生臭いところはありますが、中々含みのある言葉です。

✺外国のカッパ

 河童漫游をしておりますと、全国いたるところ、農村の素朴な水のお祭りとお祈りのなかに河童のはなしが語りつがれております。文芸工芸の成果も大切にされて、民芸品も多彩にユニークに競いあっております。それぞれが、その地の文化を極めて個性的に表現して、「おらが国自慢」はそれなりに十分納得するものがあり、簡単に優劣をつけたり元祖なり本家を特定することはできません。その意味で、ご当地の民話《大新河岸の母子かっぱ》もすぐれて確かなひとつです。

 私はあちこちの川を渡り歩いてきました。ここ阪東太郎の旅も、上流の渡良瀬川の釜が淵にはじまり、潮来のあたりでネネコ河童に逢って、いま河口の銚子に達しました。利根川縦断もこれで何となく達成というわけでございます。

 そこでまず河童は外国にいるか? という設問です。これまで15ケ国・二十数例報告されているようです。この研究は緒についたばかりで、今のところアジアとヨーロッパが中心になっております。

 河童の習性と行動からみて、日本の河童に一番近いのはチェコとロシアではないかと思われます。チェコの童話を何冊か読みましたが、こちらの河童は中々個性的で、しかも国民的アイドルになっております。日本語訳もあります。

 河童の音楽なら、日本では美空ひばりのデビュー曲『河童ブギ』が代表格のようです。チェコなら、ヨーロッパ最大の音楽祭・プラハの春に必ず演奏される、スメタナの《わが祖国第2曲・モルダウ》がもっともよく知られており、私も大好きです。スメタナは、母国チェコの自然・風物・歴史を交響詩として感動的に描写し、この中で河童の出番をちゃんとつくっております。その表題からさわりを紹介すると「ボヘミアの森の奥から流れる二つの水源は、岩に当たって砕け、やがて合流して朝日に輝き、森や牧場、楽しい婚礼が行われている平野を流れていく」と書かれ、「夜になると水面に月が映え、河童が踊る」とつづいております。絵本にもこの場面は描かれております。

 アジアでは日本人なら西遊記の沙悟浄を知っていますが、意外と知られていないのが韓国の建国神話にまつわる河童でございます。古代朝鮮の民族国家は北の高句麗(コグリョ)から始まっており、そこの建国に朱蒙(チュモン)という英雄が登場します。朱蒙は天の神様(天帝)と黄緑江の主・河伯の娘(柳花)の子供です。チュモン伝説は日本の天孫降臨神話の下敷きにもなっております。

✺九州のカッパ

 日本の河童ならやはり八代の九千坊、呉の国渡来伝説(オレオレデラタ物語)が有名です。これは国際交流のロマン・文物舶来のロマンを八代流に時代考証して筋立てしたものです。でも似たような説話はあちこちにありますから、厳密にいうと八代だけの専売特許というわけにはいきません。

 九州のことを少しお話しておきます。

 佐賀県唐津のお隣りー北波多村に行きますと、秦の始皇帝の流れをくむ秦ー波多(はた)氏ゆかりの河童がおります。ここの河童渡来は韓国経由、玄界灘から松浦川に入る魏志倭人伝ルートが浮上いたします。二年まえ九州河童サミットを主催しました。佐賀なら伊万里市の古い造り酒屋・松浦一の全身ミイラが有名です。天井の梁から見つかったそうですが、これが評判になり、今では観光名所になっております。ミイラ見学者へのお酒の直売りが飛躍的に伸びたと聞いております。

 長崎県では十年まえ大噴火をおこした普賢岳の河童のはなしになると、古代中国・呉の国からやってきた河童は最初に島原に上陸し、ここで神様になろうと修業したが、遊びが過ぎたのか神様になりそこね、不知火海と有明海を渡って筑後川や球磨川に棲みついたことになっており、“八代より少し古いぞ”というわけです。

 長崎の西端には小説『沈黙』の舞台になった隠れキリシタンの里・外海町に神浦川があり、環境庁お墨つきの日本一きれいな川をまもる運動の一環として河童が活躍しています。今年ここで九州河童サミットを開催予定のところ、遠藤周作記念館のオープンと重なり実現できませんでした。来年は神話の国・宮崎県高鍋町での開催を決めたので、皆さんのお越しをお待ち申しあげます。

 鹿児島は川内川の南の海岸線・吹上浜に近い金峰町の河童になると、稲作の伝来を示唆する古い河童踊りもあります。八代や天草を含むこの辺りは、黒潮の流れに乗って東シナ海から不知火海や有明海に入る中国江南(呉越)ルートが考えられます。八代は徐福渡来伝説地のひとつにもなっております。

 中世になると、飛び梅の道真伝説、源平合戦、南北朝争乱、キリシタン弾圧にまつわるエピソードが、河童伝説として息づいております。病気で死んだはずの平清盛が河童に姿を変えて筑後川の中流域にひそみ、平家の再興をはかる巨勢入道。関が原のあと加藤清正に追われる球磨川の河童族九千坊と小西行長のキリシタン河童の筑後入りなど、筑後川流域は河童民話の花盛りです。田主丸、吉井、久留米など、この流域はカッパ広域連合を組み、とくにその支流・巨勢川の田主丸は十数年まえまで八代のお株を奪って「田主丸こそ九千坊の本家」を名乗っていたくらいです。

 ここに田主丸町の町長さんもご出席ですので、今日は仲良くどちらも本家ということで進めることにしますが、本日の会議に配布された田主丸町の新しい町政要覧をみまして、河童伝説のところでおもしろい筋だてが目にとまりました。

 新説と言ってもいいかと思います。というのは、河童大将・九千坊は「蒙古から渡来した」ことになっております。これは江上波夫先生の騎馬民族渡来説や、元寇の役で捕虜になった蒙古人が河童に変じて日本各地で馬の飼育を始める民話になじむものとして、興味深く読ませていただきました。

 平清盛は伊勢平氏の出身ですから平家の主力は水軍です。当然、水の神様への信仰が厚く平家ゆかりの九州では、とくに宗像の女性格の神とか弁天さんになるわけです。

 筑後川流域と九州山脈ぞいに『筑後楽』という古い神楽も継承されております。大分耶馬渓と日田、そして福岡吉井町の神楽などそのいわれを書いた祭文や舞楽の踊り手のコスチュームから、河童に五穀豊饒を祈り平家落人を鎮魂する二本の筋だてになっています。 薩摩国分寺のあった川内市は古い歴史の町ですが、川内川と樋脇川の合流点にある戸田観音のご本尊は、全身うろこの木彫で有名な河童さんです。中国江南地方の海人の習俗がルーツの鯨面文身から、全身に入れ墨の古代倭人がよみがえります。川内川中流域に日本一の金鉱山で有名な菱刈町のガラッパ公園は九州では最大規模のものです。建設省との共同で河川敷利用のモデルになって、夏休みに九州都市部からのやって来る子供たちの林間学校でにぎわっております。

✺河童の生みの親ー稲作農業

 ここで、河童ブームはなぜ起こるのか? どういうキッカケで起きているのか? を一緒に考えてみたいと思います。河童の心・水の心を知る上でも大変興味ある設問であるからです。

 河童ブームは時代の大きな変わりめにおきております。河童ブームには社会的背景があるということです。河童ブームの性格ですが、ポジティブ・ネガティブ、時代によってちがっており、どちらも「世直し運動」のうねりをもっております。近年のブームには、抗議の意思表示・怒りの気配がただよっております。

 ご案内のように、世界の四大文明は川のほとりで始まりました。水環境の良いところに人が定着し共同社会が始まったのです。人間の歴史をたどると水と共生の歴史であります。                         日本で河童の出現をうながしたのは、弥生のむかし稲作の始まりと考えられます。河童の生みの親は農業であります。稲の成育にとって水の環境、いわゆる水利が決定的に重要です。したがって原始宗教も農耕作業の無難と五穀豊饒を祈る素朴な自然崇拝としておこりました。祈りの形式も水の中のミソギやスマイから始まっております。

 ミソギもスマイも水の神様を迎え入れるための儀式であり、そのため、祈りの対象として神(ゴッド)や精霊(スピリット)や妖精(フェアリーとかスプライト)段々おちぶれて妖怪(ゴースト)など、あれこれ超人的な概念なり、個性的な水の偶像が産みだされました。それをひとくくりにして代表するキャラクターが河童であるわけです。

 ミソギなんですが、その特徴は巫女としての処女の存在と水辺でのお清めなんです。ミソギ(=お清め)は川のほとりか海辺で行われました。ミソギとは水神さんの言葉を聞き、神の意志を受けいれ、神の種を宿す神聖な交わりです。だから相方として清純無垢の少女が選ばれ、水辺でのお清めが必要と考えられたのです。

 柳田国男の遠野物語を引くまでもなく、民話には河童や龍の子をはらむ小話がたくさんあります。これはポルノまがいの嫌らしいことではなく、自然と人の一体感・融合の表現であります。古代人の豊かな感性の世界⟨アニマ⟩とご理解いただきたいと思います。

 スマイについて少し触れておきます。スマイとは一人舞い(素舞)か複数の舞(相舞)のことで、踊りといったほうがよいでしょう。スマイが格闘技、勝負を決める「スモウ=相撲」に転化するのはずっと後のことになります。相撲の神様・熊本の吉田司家も「それはスポーツとしてではなく、初めは農作物の豊作を祈り、或いは作柄の善し悪しを占う庶民の農耕儀礼、民間信仰として発展した」と言っております。

 民俗学者の折口信夫と柳田国男は、スマイ=スモウの仕方は、もともと相手の手を握りしめ、自分の思いを力の強さで伝え示す「手乞い」から始まったといっております。手乞いの「こう」と恋するの「こう」の語源は同じだといえば納得できるとおもいます。

 そうなると、人間の目に見えない神様が相方のスマイはソロでもペアどっちでもよく、五殻豊饒・豊作祈願の儀式、いわゆる恵みを産み出すスマイなら、男女のエロチックな舞いがもっとも自然です。天の岩戸「アマテラス」のストリップショーもそのたぐいだろうとおもいます。

✺水は命ー河童のお皿

 河童のお皿なんですが、このお皿こそ河童が水の神さまであることを確かな形で示しております。

 地球は水の惑星といわれます。水の惑星だからこそ地球上の住む生物は生存が保証されております。人間の体も7~8割が水分です。それ故に古代人の鋭い感性と知恵は、力の源泉・命の守り神として、ズバリ、自らの頭に水タンクのついたキャラクターを造形したのです。

 お皿の水タンクから河童と人が相撲をとるはなしが全国にあります。河童がお辞儀をしてお皿の水がなくなったとき、河童は神通力を失い必ず負けることになっております。これこそ「水こそ命」の大切さを寓話として伝えていると思います。河童の頭は最高の芸術作品ということができます。        河童がいまの姿になって定着するのは江戸時代でございます。大規模干拓による農業の発展で、コメ作りに用水の確保と水管理に関心が高まる時代の要請に、うまくかみ合っております。干拓地はどこも水利に大変苦労しており、灌漑用水の工夫など水神さんの知恵と力添えが益々必要になって、水の物語いわゆる河童の民話の生まれる必然があります。河童をとらえたはなしが絵入りの文献であちこちに残っていますが、その時代も場所も、だいたい江戸時代後期の農村になっております。

 このように昔の河童ブームは食料生産を象徴する前向きなブームだったのです。

✺現代の河童ブーム

 そして現代の河童ブームです。

 さっき私は河童ブームの様相が昔と今は一変していると申しました。いまの河童ブームの特徴は、政治の腐敗・社会不安というネガチブな要因を色濃く反映しております。

 具体的な事例をあげると何時間も何十時間もかかります。それに私が言わないでも、皆さんも「もう我慢ならん」と腹の立つ想いがいっぱいあるとおもいます。とにもかくにも、夢も希望もない八方ふさがりの現状にたいする不安と危機感のあらわれ、あるいは抗議の証しとして河童ブームがおきているように思われます。ということは、「河童、カッパ」と浮かれてばかりは居れないということです。

 ここで河童の作家・火野葦平の警告を紹介しておく意味があるように思います。ご存知、火野葦平は北九州若松を主な舞台に活躍、『糞尿譚』『花と竜』『兵隊三部作』などで有名な芥川賞作家であります。彼が河童の作家といわれるのは、一生のうちに河童を主題に43の作品、原稿用紙で一千枚以上を書いているからです。地元には葦平をしのぶ文学碑や資料館、旧居「河伯洞」もあります。

 葦平は河童曼陀羅や河童七変化という作品にこう書いております。「河童が跳梁するのは、たいてい乱世か、上に悪い政府や大臣がおり、これが愚劣な政治家たちと一緒になって国民を苦しめる、悪政の時代と言われているからで、河童のバッコはそのためであるに違いない。」またこうも言っております。「河童がはびこるときは、おおむね政治が悪く庶民が苦しんでいる時代である。また河童と税金は大いに関係があって、カレンチュウキュウの暗黒時代にはいつでも河童がチョウリョウバッコした」と。国語辞典ではカレンチュウキュウとは「税金をむごく、きびしく取り立てること」チョウリョウバッコとは「はびこる・のさばる」と説明しております。

 今の日本は火野葦平が四十数年まえに警告したそのとおりです。今の河童ブームは、腐敗した政治と経済、自然破壊にたいする国民の抗議や怒りが擬人法という仕かけで表現されていると言っても間違いはないと思います。

 擬人法とは、別の姿にかこつけ人間の本音を伝達するものです。「訴える力は弱く変革の力にならない」と言ってけなす人もおります。しかし庶民はみんな弱いのです。弱い庶民だからこそ河童の姿を借りて、いい換えるならワンクッションおいて本音をもらしているのです。

 しかし庶民のガマンにも限界があります。昔から「窮鼠、猫を咬む」とか「ウサギ七日なぶれば噛みつく」とかいわれております。河童のうらみは、噛みつくどころか、「ジコンス」の奥の「五臓六腑」を狙うからご用心をねがいます。「ジゴンス」はヤッチロ弁ですが、ケツのアナとか尻子玉などいわれているところです。

✺地球の環境悪化

 河童ブームの背景には地球の深刻な環境悪化もあります。環境擁護のための、切り口の変わった、静かでやさしい運動、それが河童ブームであります。

 十年ばかりまえ、ブラジルで世界環境サミットが開かれました。発展途上国の熱帯雨林は製紙のチップ材や建築材として乱暴に伐採され大部分が日本に輸出されており、これに反対する現地住民と日本の商社・大企業との国際的な紛争が頻発しております。二酸化炭素温暖化による地球の生態系の危機に警告する目的もあったわけです。

 サミットが開かれた国ブラジルを流れるアマゾン川は、流路六千七百キロ、流域面積だけでも日本国土の十八倍といわれる世界一~二を争う大河で、この流域には河童も棲んでおます。現地の言葉で「サシーとかコントラ」とよばれているようです。

 アマゾン流域では二千ヶ所にのぼる金の製錬所で水俣病がまん延、そして乱開発による森林の減少・河川の汚濁は目をおおうばかりです。住みかを失ったサシー・コントラ河童の悲鳴は、まさに水の惑星の危機の根源に人間と大企業のむき出しの欲望と罪の深さをしめしております。

✺農業の危機ー水文化の危機

 最後に日本文化の象徴、コメ・農業の危機になります。農耕文化を象徴する河童がその危機に警告を発しているようにおもいますがいかがでしょうか。

 昔からわが国を褒(ほ)めちぎった言葉に《瑞穂の国》という雅(みやび)な言葉がありました。瑞穂とは「みずみずしい稲の穂」と説明されております。弥生以来、日本人の命の綱・食文化の中心になったお米だからこそ、私たちの祖先は「瑞穂」という雅(みやび)な言葉でお米を大切にしたし、米俵に腰を下ろすことさえ罰あたりとして許さなかったのです。

 しかし近年、瑞穂の国の日本では自分の田んぼに米をまともに作ることが許されず、全国で百万ヘクタールの減反、減反率はすでに四割を超えております。生産者米価もこの四半世紀全然上がっておりません。そのため農業後継者が育たず田畑は荒廃しております。文化とはカルチャーです。カルチャーには元々耕すという意味があります。田んぼが荒れ放題では日本文化が根っこから腐れるはずです。

 国際的には食糧難の時代が到来しつつあるのに、政府の食料安保は無策というより、アメリカに隷従して自国の農業をつぶす売国的な態度です。日本の農政が「ノー政」といわれる由縁であります。

 八代地方では米のほかイ草と畳表では日本一の生産と加工地であります。しかし近年、中国産の流入で壊滅的な打撃をうけ、借金苦と将来に絶望した中堅農業者の自殺と自己破産が激増、深刻な社会問題になっております。イ草農家は十年前の4割まで激減しております。

 歴史のにがい教訓から、主食の自給を放棄し自国の農業を衰退させた民族と国家は、滅亡するか他国への隷従を余儀なくされているということです。日本の伝統的食文化のコメとその生産が廃(すた)れたとき、農耕文化の象徴としての水の神霊(かみさま)も死ぬのです。水の神様=河童の死は日本人の感性の死であり、日本文化の滅亡なのです。

 もし皆さんが河童のドンを自負されるなら、中央政治の堕落を許してはならない。見識と勇気をもって地方から反乱をおこし、悪い政治をやめさせ、水文化をまもる先頭にたつ気概が求められております。

 河童の心とは、辛口の結論として、反乱する心にあります。

 平安朝の末期、平将門が関東の大地から、藤原純友が西海の瀬戸内から決起し、腐敗した貴族政治に痛撃を加えました。このように全国の河川と湖沼に棲みついた河童のドンである皆さんが、それぞれの地方から近代的・合法的な手法による反乱を一斉に起こすことを期待して講演を終わります。

 ご清聴ありがとうございました。

二〇〇〇年十月 初出・夜豆志呂136号

                                        

河童を担ぐ

田辺達也

✺河童渡来伝説の源流ー八代

 こと河童(ガラッパ)にかぎると八代市の知名度は抜群である。よほどの八代嫌いか、何にでもイチャモンのへそ曲がりでない限り、日本における河童伝説の源流を鼻から否定する者はいない。この拾余年、各地の河童族との交游で得た感触からも、河童の八代ルーツ説は日本の隅々にまでほぼ浸透し定着していると確信している。

 河童ゆかりの十いくつかの地方自治体が、一九八九年(平1)から『全国河童ドン会議』を年次持ち回り開催している。ここでも、初回の牛久(茨城県)会議から、「中国から渡来したといわれる河童は、全国津々浦々の伝説となって、今に伝えられている」(開催要項主旨)と一致している。「公的にも認知されている」と言ってよいだろう。

 しかし八代市と立ち並んで東西よく引き合いに出されるのが、みちのく岩手ー遠野市である。柳田国男の『遠野物語』が名著・高名ゆえに、ぼやっとしていると、いつの間にか河童イクオール遠野物語ー遠野市になっているから、不思議な魅力をもっている。人口三万人ばかりの小都市だが、十年まえ「世界民俗博」を一か月つづけた底力がある。

 三年前の神無月、島根県の隠岐ノ島から呼ばれて『河童を語る遠野―八代の東西対抗』をしたが、向こうの女性代表は中々のつわもの、ひそかに舌を巻いた。

 東北弁の使い手には、今をときめく石川啄木や宮沢賢治や長岡輝子や井上ひさしらのスーパースターもいる。背景には、園児ー小学生のころから民話になじませるなど、目的意識をもって語り部を育てる誇り(愛郷心)と一貫性がある。

 柳田国男の足跡と名著ならこっちが先駆的で優れた研究者もいるのだが、その認識の浅さとPRの不足を九州は反省すべきだろう。

     *

 柳田国男は一九〇八(明41)年、明治政府の高官として九州視察の道すがら、狩りの故実を聞いて民俗学に開眼、『後狩詞記』に結実させている。『遠野物語』発表の二年前のことだから国男の九州旅行はまさに柳田民俗学の出発点になっている。

 この研究は在熊の牛島盛光熊本学園大学名誉教授が第一人者で、決定版に『日本民俗学の源流ー柳田国男と椎葉村』(岩崎美術社1993)がある。

 柳田国男は八代にも有縁なんだが地元には余り知られていない。

 年譜によると、同年六月十一日、緒方小太郎に会うため八代に立ち寄っている。小太郎は神風連の変に連座して無期懲役になり、放免ののち八代宮にいたらしい。面会の目的は不明。

 このあと十二日熊本で講演、十三日開通したばかりの肥薩線で人吉に向かった。往復の車中から八代の風景は何度も見たにちがいない。

 国男の詩友で作家の田山花袋も同年来代している。花袋は九州旅行中の柳田をモデルに小説《縁》を発表している。

「雨の降りしきる夕暮れ、川内に着いた西(柳田国男、筆写注)は旅籠屋のひと間で田邊(国木田独歩、同)の訃報を受け取った」

 国男と独歩は無二の親友だった。花袋については郷土史家の名和達夫さんがくわしく、筆者も教えを請うている。熊日新聞も四年まえ「文学に描かれた街」シリーズー八代で花袋の紀行文《父の墓》をとりあげた。

 

✺オレオレデラタのいしぶみ

 八代の河童を解く鍵なら、河童渡来伝説と前川の碑、オレオレデライタ、河童九千坊、キリシタン河童、美小姓をめぐる清正と河童のスキャンダル、九千坊の筑後川流亡になるだろう。河童ひとつでこの賑やかさは大変いいことで、海に開かれた八代の自然と文化の豊かさである。

 八代の特異性は何と言っても異邦人渡来・交流の大ロマンである。

 今では民俗学の名跡になった『河童渡来の碑』がその確かな証(あかし)。地元中島町と同町史跡保護会が一九五四(昭29)年建立した。

 碑の見どころは「ここは千五、六百年前、河童が中国方面から初めて日本に住み着いたと伝えられる所」と「旧暦五月十八日に、オレオレデライター川祭りと名づけて毎年祭りを行っている」の石文(いしぶみ)にある。

 前段の外来説には、中国のほか、韓国、東南アジア・西欧など、外国の研究者やマスコミも参入して諸説ふんぷんであるが、無理にまとめる必要はない。多ければ多いほどおもしろくなる。

 ところで、筆者が《ミニ独立国ー河童共和国建国のすすめ》を発表したのは、十三年前の一九八七年六月である。それ以前、ふだん見なれた前川の河童渡来の碑も、関心が薄いと、どこにでもある記念碑のひとつとして見過ごし通り過ぎていた。筆者にとってその程度の「いしぶみ」でしかなかった。

 碑文には「オレオレ」の由来文も縁起書もない。だからか、郷土史家・民俗研究者さえも、長い間、その8文字に頓着せず詮索もせず、せいぜい軽いお囃しか呪文か符丁ぐらいに受け止めていたと思われる。

 しかしいったん河童に目が向くと、碑に刻みこまれた「オレオレデライタ」が気になって、建立者の、ちょっといたずらで手のこんだ謎々あそびを感知して惹かれたのだった。

 河童に興味をもつ読売新聞の日高記者と建立にかかわった古老をたずね回った。が、会えたのは中島の吉田朝雄ひとりだった。当時七十五才のご老体はなかなかの博学で、多少人見知りの癖はあるものの、いったん興にのれば、海人・河童論を展開し長広舌をぶった。「オレオレ」の解釈については聞きそびれ、いま悔やんでいる。

 吉田説の紹介は、新聞記者のあと郷土史家になった千反の塩崎秋義が十年も先輩で『八代の伝説』(1975)に書いている。『九州の河童』(純真女子短大国文科編、葦書房1986)編者の城田吉六(同大教授)は、吉田流解釈にコメントしている。在阪の民俗学者で童話作家の和田寛もブックレット『かしゃんぼ』第12号《河童を探る旅(三)》(1988・10)に紹介し歴史のロマンと評価している。あの頃、こと八代の河童になると、中島町の生き証人のところにみんな詣でたものである。

 田辺提言には人吉の考古学者・民俗研究者の高田素次からすぐ反応があり、電話や手紙でやりとりした。そのとき「河童渡来の碑の建立で地元から相談を受け碑文の草案にかかわった」と聞いた。第1回河童サミット(1988年)に出席通知をもらったので詳しい話を期待していたが、ご本人の病気でおじゃん。そのうち自前の解明がすすんだので連絡はとだえた。逢いたい人だったが七年まえ不帰の客になった。

 他方、八代出身在京の作曲家中山義徳は、すでに一九七九年、少年少女合唱曲『河童渡来の碑』(中山秋子作詞)を発表。作品解説のなかに「作曲にあたって⟨オレオレデライタ⟩の句を歌いこんでみて、その語感から得た旋律より展開させた」と記していた。音楽家特有の鋭い感性で「オレオレ……」にこだわっていたのだ。

 とにかく、地元の古老たちが前川河畔に河童渡来の碑を建立したこと、祖父母も曾祖父母も信じた「オレオレ……」の口伝こそ決定的であった。

 この碑はものは言わぬ。古老もいない。しかし「ロゼッタ石」のようなメッセージがその中にきっと込められていたはずだ。

 

✺垢石・葦平のペルシャ渡来説

 ここで「河童の八代渡来説」になる。随筆家の佐藤垢石と作家の火野葦平が、一九五〇年代はじめから盛んに書いたりしゃべったりしたので、次第に知られるようになった。二人は早稲田の先輩後輩、共に河童族である。カッパへの目覚めは早く、八代の渡来説にも注目していた。

二人の説は中国渡来である。ペルシャ辺りからの大移動説をとっている。荒唐無稽・奇想天外にみえるがそうでなく、歴史の深い観察とロマンチックな感性がもとになっている。いわゆる、人類の進化と人口の増加、東方への、絶え間のない、気の遠くなる大移動―絹の道やステップロード、あるいは七つの海(日本ではとくに黒潮)による、数千年の東西交易と文物・宗教の伝播、その十字路(中央アジア・中国)の治乱興亡と民族の大流亡。河童(渡来)が人類の歴史と重なり合うから面白く納得する。

 垢石と葦平のまなざしは、たぶん河童の姿に遠い祖先の在りし日を重ねたのかもしれない。夏野菜の代表格「胡瓜」だって、元はといえば胡(ペルシャ=現在のウズベク共和国サマルカンドあたり)の野菜だから、「河童(族)が持ってきた」といっても嘘にはならない。胡瓜の海苔巻きが通称「カッパ」と言われるゆえんである。

 

 このはなしで佐藤垢石の周辺を少し突っ込んでみる。

 垢石は新聞記者を経て出版社『つり人社』を興し日本の川と海をくまなく回ったので、紀行文の名手としても知られていた。熊本には六十四才の一九五二(昭27)年七月、熊本日日新聞社の招きで来熊して一か月滞在、この間、熊本・天草・人吉・阿蘇などを回り、河童と釣りの講演会・座談会を精力的にこなしている。

 熊本の座談会には、民俗学の丸山学、洋画家の坂本善三、酒の神様の野白金一ら在熊の一流人士が顔をだしている。丸山学は垢石の「球磨川の河童」をとりあげ、その出所文献をずばり尋ね、垢石は「何にも出ていないかも。私がデタラメ書いたのかも知れん」と煙に巻いている。講演会では「球磨川はあいにくの濁水で九千坊河童に会えず残念至極」と。

 人吉での釣り座談会には市長ら行政幹部も出席した。話のやり取りから、当時進行中の荒瀬ダムに上流域の強い危機感がうかがえる。

 垢石は「日本の大概の川が経験している。球磨川は有数の立派な川だ。ここの鮎がまた他にみられない見事なものだが、地元の皆さんにお願いしたいことは電源開発などで鮎が衰滅してしまわぬよう保全に努力して頂きたい。下流にダムができたら鮎はもうそこでは産卵しなくなり上流へ上がる数も著しく減少してしまう」とずばり警告した。

 熊日も「ダムが出来たら鮎は絶望」の見出しをつけている。

 四十八年まえの忠告は今も生きているのだ。

 垢石は在熊中の七月二十七日から、熊日に随筆『山童(やまわろ)閑遊』(え・坂本善三)を書きはじめ、十月十日まで76回のロングラン。筆の向くまま気の向くまま、あの人流のトツケムニャ河童譚が自在に語られて、河童のペルシャ出発から球磨川渡来まで、美小姓をめぐる清正対河童の痴話けんかとその末の筑後川への大移動、あげくは紫式部と好色河童など盛り沢山。まとめて創元社から『山童閑遊』で上梓されている。

 こういうおもしろい読みものが図書館にないのは残念だ。

 河童七人衆の随筆集『河童』(中央公論社1955)には、そのひとりとして、天草へ行って河童の寄り合いをしたことが《河童閑遊》に収録されている。この本もない。

 

✺河童の八代源流説しかけ人

 河童八代ルーツ説のしかけ人は、芥川賞作家としての知名度から火野葦平とみなされている。葦平のインパクトは、一九五七(昭32)年四月、昭和天皇にこのはなしを披露して大笑いさせたこと、その顛末記《天皇とともに笑った二時間》の『河童会議』(文藝春秋新社)が話題になったことだろう。この珍本もない。

 同月十八日の朝日新聞は「雑学に天皇も大笑い、夢声氏ら五文化人招く」の見出しをつけ「天皇陛下を囲む文化人の放談会が十七日午後二時から皇居吹上御苑内の花陰亭で行われた。招かれたのは徳川夢声、サトウハチロー、吉川英治、獅子文六、火野葦平の五人。徳川夢声の司会で珍談、奇談の花が咲き、ダジャレも飛んで約二時間、陛下を大いに笑わせた。ここでカッパの話もとび出して、中央アジアからタクラマカン・サバクを越えて九州に初めて上ったカッパが『キュウセンボウ』という名のカッパだとの葦平の話には横から“そこで急センボウ(先鋒)という言葉が出たのだな”と落ちが加わる(後略)」と報道している。

 はなしの筋は垢石とだいたい同じ。要約すると「九千坊という大将に率いられた河童の大群が中近東のペルシャ方面からインドのヒマラヤを越え、タクラマカン砂漠を東へ移動、蒙古から中国を抜け、朝鮮から海を渡り、ついに九州八代の徳の洲に上陸した。ここに上陸の記念碑がある」と。このあとに続いて、清正と河童の美小姓をめぐる艶聞?に発展していく。

 放談会の期日だが、県内の書物はどうしてか殆ど昭和三十三(1958)年四月十一日になっている。『八代の伝説』(1975)『熊本の伝説ー熊本の風土とこころ⑨』(1975)そして『ふるさと八代ー球磨川』(1989)などに見える。前出、和田寛は自著で「それは何かの間違い」と指摘している。なんで一年以上ずれたか不明だが、三書の前2点が同じ筆者だから多分この人の勘違いで、後の筆者は前書の孫引きと思われる。

 

 はなしを戻して、葦平は大著『河童曼陀羅』(四季社1957)の《後書・河童独白》で「自分はカッパ年生まれだ」と言い切るくらい河童にのめり込み、作品も生涯に四十三点、原稿用紙で千枚をこえる河童を書いた。葦平の言うカッパ年とは「ミとヒツジの間」だそうで、丙午(ヒノエウマ)の生まれだからと説明している。

 ちなみに、この本の12番作品《英雄》に清正と河童の痴話げんか、晩期の42番作品《花嫁と瓢箪》に八代の九千坊渡来伝説がおもしろく顔を出している。若松の葦平記念館に行くと彼の生きた時代と作品がよくわかる。図書館には1984復刻版(図書刊行会)がある。

 佐藤垢石と火野葦平の活躍はともに戦中戦後の同時代。親交も深いく、河童への愛着とウンチクからも甲乙つけ難い。渡来伝説の「言いだしっぺ」を絞り込むとなかなか難しいが、年の功に敬意を表し垢石に落ち着かせた方が良いような気がした。ご教示たまわりたい。

この先には「オレオレデライタ」の言いだしっぺで、意外な展開(どんでん返し?)が待っている。さらに、河童クリスチャン説、清正と河童の痴話げんか、そして伝説解明から得た教訓など、はなしはいよいよ佳境に入って千夜一夜を越える予感。しかしこれもご縁があればのおはなしで「続きはまたあした」という具合にはいかない。(文中敬称略)

   

◆参考文献

 山童閑遊、佐藤垢石(創元社1952)

 河童、小泉豊隆他(中央公論社1955)

 河童会議、火野葦平(文芸春秋新社1957)

 わたしたちの伝説、読売新聞社社会部編(読売新聞社1959)

 日本伝説の旅、武田清澄(社会思想研究会出版部1962) 

 八代に伝わる『ガラッパ』信仰について[1]江上敏勝(『夜豆志呂』1971)

 八代の伝説、塩崎秋義(自費出版1975・6)

 熊本の伝説ー熊本の風土とこころ、荒木精之編著/塩崎秋義,河童渡来の地(熊本日日新聞社1975)

 熊本の伝説、熊本小学校教育研究会国語部会編/(日本標準1978)

 ふるさと百話総集編、江上敏勝編著(八代青年会議所1983)

 ふるさと八代ー球磨川、八代教育研究所(1989)

初出・文化やつしろ39号、二〇〇〇年