ミニ独立国運動の盛衰

田辺達也

 

 流通科学大学白石太良教授* の論文「地域づくり型ミニ独立国運動の変容(Ⅱ)」が昨年九月、同大学学術研究会から発表された。白石教授はミニ独立国の研究で著名な学者である。この論文は、同教授一九九〇年九月発表の、「ミニ独立国運動による地域づくりの現況」、91年九月発表の「地域づくり型ミニ独立国運動の変容」に続く、ミニ独立国研究三部作の完結編になる。

  白石教授の論文は、90年三月、全国のミニ独立国203ケ国に対するアンケート調査を基礎データに、併せて膨大な関係資料収集と全国行脚による対面調査の結果をもとにまとめられた。八代には92年三月、来訪されている。

 第一部は、アンケート調査結果のまとめ。第二部と第三部ではミニ独立国の変容いわゆる盛衰(第二部は主に衰退、第三部は主に発展)の事例検討が試みられており、優れて示唆に富むものである。

 ところで、ミニ独立国運動は、井上ひさしの小説「吉利吉利人」をきっかけに全国的ブームを巻きおこした。そうなると、猫も杓子も、これこそ浮揚策の切り札とばかり狂乱群舞する。とにかく、この十年の間に、何百一千ものミニ独立国・まち興しグループが雨後のタケノコのように芽を吹いた。

 しかし大方は「三日か三ケ月か三年」という。この数字は倦怠や低迷や絶縁のサイクルを示すいやな指標で、「閉国・廃国・休国」が続出。近年どうやら「停滞期を迎えている」(白石教授)ようだ。もちろん元気印の長寿国もある。

 白石論文にはミニ独立国の在り様がリアルに描かれている。そして運動のあるべき方向もみえている。私は当事国の一員として、この論文を身につまされながら読ませていただいた。

 

 

 白石教授は、ミニ独立国あるいはパロデイ王国について「自らの地域またはグループを独立国と称し、擬似国家の組織や運営をパロデイ化した手法で展開することによって、地域の振興やアイデンテイテイの確立を求める運動である。」と規定されている。

 その上で前出アンケート調査からミニ独立国の実情を一見すると、

 まず建国の目的には、やや拙速に「経済効果を期待するものが多い」ようだ。大企業本位・大都市一極集中、拝金主義に汚染された大国?日本の現状を色濃く反映するひとつの流れで、過疎地では切ないほどである。しかしその陥穽と限界には教授も深く懸念されている。

 次に行政との関係では、三分の二が何らかのかかわりをもっている。資金・資材の援助はいうに及ばず中には行政丸がかえもある。この場合、一過性のカンパニアならまだしも永続性と自主的発展の求められるミニ独立国運動に、もし行政(長)の強い影響や特定政党・政治家の特権がまかりとおるなら、運動の歪みやもろさなど危険性をはらんでいる。

 第三に人の問題では「指導性のあるリーダ−とやる気をもった集団が必要である。最も重視されるのは、幅広い視野に立った問題意識と総合的な思考力、その上での独創性に富む実践力」と述べている。これにはコメントの必要はない。

 白石教授の結びを意訳すると、

  • 1.ミニ独立国運動は、ユーモアやパロデイの要素にもっと高い評価をあたえるべきである。
  • 2.地域興しの視点を、「もの=銭勘定」から「こころ=文化」に転換すべきである。
  • 3.いまは、地域が自分の顔をもつ努力・地域へのこだわり=個性化(アイデンテイテイ)が要求される時代である。従って、ミニ独立国(運動)は、現代社会において求められている「地域」とは何かを知るきっかけを人々に与えなければならない。

 

 

 自主的な運動には困難はつきものであり、その過程で惰性や不振は免れない。運動体は生きものであるから栄枯盛衰は不可避である。そのことを前提にしても「地域づくりにおける『もの』から『こころ』への意識改革が進むなかで、ミニ独立国運動に見る総合的な『地域』へのこだわりこそが、この運動の今後を決める」という白石教授ご指摘の「地域文化論」は、基本的には運動の成否を占うキーワードになってくる。

  白石教授は活動が継続し発展している元気印の事例として、小町の国(秋田県雄勝町)さんさい共和国(新潟県入広瀬村)河童共和国(熊本県八代市)を挙げ、三国に共通する特徴をまとめられている。

 それは「地域への愛情と愛着を根底において展開されている」という評価である。

  • 1.最も地域らしさを示すものや事がらをシンボルとして見出し、それを強調、時には誇張して押しだしていること。広域の地域文化の裏づけをもって運動を展開している。
  • 2.活動の目的が明確にしめされ、しかもそれが主張されている。「なぜミニ独立国なのかの考え方」つまり「思想あるいは哲学」をもっている。
  • 3.地域社会に対して自らの立場と主張をつたえ、地域にねざした活動を展開しながら地域との連帯を実現しようとしている。
  • 4.必ずしも即効性のある経済効果に期待せず、むしろ社会的・文化的側面を全面に打ちだしている。

 

 

 ミニ独立国運動が全体として停滞期にある中で、白石教授が「その活動に意義を認め、国家を維持している」いわば発展途上国のひとつに、我が河童共和国を挙げ長文紹介していただいたことは大変光栄なことである。

 白石教授は河童共和国について、「パロデイの形をとりながら地方文化の再構築をはかるねらいを有しており、地域づくりに方向性を見据えたミニ独立国といってよい」と高く評価し、社会的に極めて有用な存在であることを認めている。特に一九八八年の建国宣言と92年の第四回国民議会の総括(河童共和国の存在意義と活動の成果)に注目されているのは、まさしく慧眼である。

 白石教授は、河童共和国には「明確な思想と主張がある」と述べ、「国名にまつわる文化的背景を歴史学や民俗学の立場をふまえて追求し、その住む水環境を人間生活の舞台に当てはめて考え、自らの主張を明らかにする活動に重点が置かれて」おり、地域づくりを経済的浮揚ととらえるのではなく「生活環境や精神的・文化的豊かさと考えている」と紹介されている。

 その文化性に注目し、「憲法に感動した」と河童共和国に「いの一番」に入国したのが言葉の魔術師・井上ひさしであった。井上さんは河童共和国建国直後の一九八八年四月二十二日、熊本日日新聞のインタビューに答えて、「いろんな共和国があるが河童共和国には思想があり初めて国民になりたいと思った。シャレと本気のバランスがとれ、まじめに遊んでいる姿勢もしっくりきた」と入国の動機を明快にのべている。河童共和国の面目躍如たるものがある。

 球磨川水系上流域の友邦国くまがわ共和国池井良暢大統領の視点も同じである。池井さんは昨年四月十二日、河童共和国国民議会への祝辞のなかで、「多くのミニ独立国が衰退期のなかにあるのに、独りこの国だけは逞しく生き、ひたすら驀進しつづけていることです。何度もくり返しますが、まさに驚嘆に値します。これもこの国のもつ思想性がそうさせているのでしょう」とのべられている。

 我々がこれまで運動の王道を歩むことができたのは、ひとえに理念の堅持、八代への徹底したこだわり、たゆみない運動による。そのことを白石論文からあらためて学び確信したしだいである。

*白石太良(しらいし・たろう)氏.一九三七年生.大阪市立大学大学院終了.流通科学大学商学部教授(人文地理学)

一九九三年一月

河童文化勲章とオレオレデライタ

田辺達也

 

 河童と水の文化団体・河童連邦共和国から本年七月文化勲章をいただいた。そして伝達式の席で受章者を代表して謝辞をのべる光栄にも浴した。

この叙勲は本年度で四回目になり、河童共和国の国民はこの栄誉ある候補者に毎回ノミネートされ、これまで五名受章している。ひとつの組織からこれほどの例は河童族の中では初めてのこと。とくに私の場合、二年前、学位をいただき、今回重ねての名誉である。選考委員会の先生方に心から感謝している。

 ところで文化勲章は形のうえでは個人の功績に対し授与されている。それはそれとして確かに一理あり私も素直に有難いと思うが、それだけでは何となく申し訳ないような気もする。何故なら表彰されるその人を育む揺りかごがあってこそ、母なるその地の文化的歴史的土壌を把握してこそ、初めてその人の思想も業績も理解し説明できると考えるからだ。

 私の河童学の展開もパロデイの膨らみも、その背景に球磨川があって、河童渡来の碑があって、不知火海があって、そこに悠久の人の営みがあって、いま河童共和国に愉快な仲間がいて、初めてものになったのである。

その揺りかごに感謝しながら河童との五年間を素描してみたい。

 

 

 まずは河童共和国のこと

 河童だから面白くなくては話にならぬが、河童共和国に人も河童もうらやむおもしろ自由人の結集はまさに現代の梁山伯というところか。国民個々人の多くが御存じ、多芸多才多趣味のマルチタレント・一流のエンターテイナ-である。その人柄も高邁重厚謹厳実直聖人君子型あり、豪放磊落軽妙洒脱清濁併呑斗酒飄々艶笑型あり、多彩豪華な人脈を形成している。

 河童共和国憲法と建国宣言と国立かっぱ大学建学のこころに示された、文化性とロマンチシズム・知的好奇心の固まりだからこその、独自のモジリにひねりにアンチテ-ゼ・確固とした自主性と強烈な個性・鶏鳴蝉噪の議論・徹底した開放性と協調性など優れた資質に、ミニ独立国ブ-ムの立役者で「吉利吉利人」「新釈遠野物語」などを書いて日本のシェ-クスピアと評判の言葉の魔術師・井上ひさし氏が「しっくりきた」とイの一番にほれこみ入国したほどである。

 私も河童共和国に身を置き先輩諸氏にどれほどの教えを受けたことか。多士済々の存在と交遊は気持ちのいいものだ、知恵とエネルギ-の確かな源泉にもなっている。

 

 

 次に河童サミット開催の意義とその後の河童フィーバーについて

 河童ゆかりの地を訪ねると何処にでもなるほどと唸らせる古い伝承が息づいており、どの地にも優れた研究家やコレクターがいて独自のとり組みを行っている。しかし河童族の全国会議ー河童サミットは、それまで官民誰もが着想しない企画であり実現しなかった事業である。

 だから河童共和国建国早々の我われの力量からして、その開催は確かに有意義とはいえ実現を困難視する向きもあったし、実際に主催するとやっぱり大変で、事務局としては猛暑というのに肌が粟立ち薄氷を踏むおもいをした。しかも当時、当地には政治的威嚇と文化の私物化を常とし、それでいて萎靡沈滞した妖怪が棲みついており、河童と嬰児(みどりご)の運動を妨害し圧殺をもくろむなど逆風も吹き荒れた。

 しかし我々はみじんもたじろかず、夢とロマンの河童心と一図でまじめなとり組み、世界的視野の壮大な宣伝と組織、不偏不党自主自立の原則的態度、論議のイニシアチブと格調高いサミット宣言等により見事にこれを成功させ、全国的にも注目された。それだけではない、河童族の全国組織の誕生にこの八代は確かな産婆役をひき受けたのである。河童共和国福田瑞男首相の本職が産婦人科医師であることから、在るべき姿の瑞縁に成るべき安産を保証した。もしかすると河童=水神の啓示と援助によるのかもしれない。

 そしてなお我われは、ただ単に河童族の全国的結集をお手伝いしたというだけに止まりもしなかった。本会議に参加したそうそうたる顔ぶれと採択された宣言文からも明らかなように、河童愛好家・民俗学者・芸術家と水問題研究家・エコロジストの全国的交流と連帯の確実な橋渡しをしたということである。

 これは早くも一九八九年、柳川市開催の第5回水郷水都全国会議における、串山弘助氏(河童共和国大統領)提唱の河童分科会に進化し、河童=水=水環境の一体感の成果を示した。併せてこの会議が九州河童族の本格的な出会いの場になる相乗効果も生みだしている。この延長線上には関東地区で河童連邦共和国と隅田川交流実行委員会・神田川サミットの交流進展などもあり嬉しく思っている。仕掛け人としての河童共和国の功績は非常に大きい。

 その後の全国的河童フィーバと河童サミットの発展は多言を要しない。在京グループと主催地カッパ族の努力で、びわ湖・不忍池・長良川・わたらせ川と確実に継承され進展している。この数年、主催地の県知事も出席して挨拶しており、今年など公害の原点になった足尾に近い利根川上流域の辺鄙な山村に全国から二百五十人も参集し、かってない盛会であった。もちろん八代も例外ではない。特に今夏のくま川祭りでは、まさしく「がらっぱが躍った」のである。

 このほか『国立かっぱ大学』を早々に開校させたように、八代の河童族は、ともすればお偉いさんの団体にありがちな「動かざるごと山の顎大将」の集まりでもなく、ユニ-クな文芸活動と巧みな組織活動には定評がある。

 

 

 第三に「いいものを残す努力」という点で八代市旧中島町古老の先見性は光彩を放っている。それは河童渡来の碑と「オレオレデライタ」の碑文のことである。

 先日開催の「これからどうする八代のまちシンポジウム」で、八代市沖田市長と神奈川大学西教授が講演された。そのなかで西教授は、優れた文化遺産は放っておいても残るという考えの甘さと誤りを指摘され、いいものを残すためにはそこに住む人の目的意識と具体的で積極的な努力を強調され、大変示唆に富むものであった。この話から河童についても同じことが言える。

 河童大将九千坊の渡来伝説はいまでこそ日本の河童譚のルーツの地位を確立している。この伝説は八代の国際的好位置とか自然の豊かさとか八代人の先進性など優れた歴史的文化的条件や人的資質を背景に生み出された「海の道と八代のロマン」である。が、このロマンも継承する地元の意志と努力がなければ、とっくのむかし埋もれ廃れていたに違いない。

 早い話、もし一九五十年代、球磨川河畔中島町の古老たちが「河童渡来の碑」を建立していなければ、同じころ火野葦平やと佐藤垢石らの助太刀がなかったなら、今ごろ河童共和国の史的考証も文芸活動も成立しておらず、又今日の河童によるまち興しのうねりもなかったであろう。しかも重要なことは、古老たちが「オレオレデライタ」の碑文を刻み込んでいたのである。

 碑文には見てのとおり「オレオレ………」の説明はない、別に縁起書みたいなものもない。市民も長い間その「八文字」にこだわり詮索する者がおらず、精々お囃しか呪文か符牒以上には考えつかなかった。だが古老たちが碑(いしぶみ)にこれを書いた以上、この物言わぬ文字には「ロゼッタ石」のように、深い意味のメッセージが込められていた筈である。それは何か?今にして古老たちのちょっと悪戯で手のこんだ謎なぞの遊び心を垣間見る思いがする。

 余談だが、建立者の中に進利三郎や吉田朝雄の名前が懐かしい。前者は「我河童」進英夫さんのご尊父であり、私には戦時中父の死で熊本から最初に転校した千丁第二小学校の担任だった。進先生は私の父と同級生であることもわかり何かと励まされ面倒をみていただいた。

 このように私の恩師が「渡来の碑」建立にかかわった河童の先達であり、そして今、息子さんと教え子が共に手を携え河童による町おこしに微力をつくしている。この偶然と奇縁も河童の引き合わせによるものだろうか。

 後者は少々変人風の学者で人つき合いに物臭だったが、私には大変よくしていただいたので、河童共和国建国の前年あたり読売新聞の日高記者と何回も出かけていった。長い土間つづきの薄暗い部屋に上がり込んだところで、興に乗れば吉田さんは河童について独自の長広舌を振った。氏の風貌からこの人こそ異邦人の河童族=葦平の言うペルシャ系に違いないと思った。

 

 

 第四に「オレオレデライタ」の解明で吉嶋華仙氏の功績について

 河童共和国は本年七月開催の閣僚会議で河童芸術大賞(通称吉嶋賞)の創設を決定し来年度から実施することになった。

 本賞は「河童と水に関わる文芸と工芸で顕著な功績のあった人」を表彰するもので、「吉嶋賞」と通称するのは「八代の河童渡来伝説を解く鍵である『オレオレデライタ』を解明し新河童学の発展に寄与した吉嶋氏の功績を顕彰し後世に伝える」ためである。

 ちなみに我われは、建国を準備した当初から八代の河童伝説を「海の道による文化交流のロマン」と位置づけたが、とりわけ前川の碑文にある「オレオレデライタ」の不思議な響きに強く惹かれていた。後でわかったことだが、一九七九年発表の児童合唱曲「河童渡来の碑(中山秋子作詩・中山義徳作曲)」も影響を受けている。中山義徳氏は作品解説のなかで、「作曲にあたって<オレオレデライタ>の句を歌いこんでみて、その語感から得た旋律より展開させた」と述懐のとおり、八代市出身の音楽家の鋭い感性が「オレオレ……」にこだわっていた。

 私にとって河童の世界は畑違いの未知の分野であった。でも私なりの自負それに好奇心も手伝い、何時になくハッスルしていた。八代市史と世界史、民俗学の論考と全国の河童伝承・河童が主役の小説・随筆など片っ端から読みあさり、河童による全国の町おこし事情や河童族の分布も短期間に把握した。この成果は一九八七年発表のいくつかの論考や、建国議会における私の経過報告などに明確で第1回河童サミットの組織方針にも生かされている。

 でも河童渡来伝説の謎解きになると実力の差は歴然で、たとえ文化勲章受章者と威張ったところで吉嶋さんには足下にも及ばない。「オレオレ……」の解明で指導的役割を果たした功労者はやはり何と言っても河童共和国文化庁長官の吉嶋華仙氏である。氏は北京大学に留学したあと主に黄河流域で長期間活躍された本物の中国通、風貌物腰からもさながら九千坊の生れ変わり。私の中国に関する知識も大部分は吉嶋さん譲りだ。

「オレオレデライタ」については、私は狩猟した書籍の中からただ一つ、熊本商大の牛島教授が『肥後の民話』(第一法規)に書かれた「呉の国からたくさん来られたの意味といわれる」に注目した。しかし語源との関連が不明なため、このことを建国準備委員会に報告し吉嶋氏に指導と解明を請うたのである。

 それから間もなく吉嶋氏の卓見「呉人呉人的来多=呉の人が大勢やって来た」とそれを裏づける論文が発表された。これは古代史を彩る日中交流の視点からも市民の共感を呼び、やがてこの地に定着することになる。丸山民俗学の後継者である牛島教授の説明とも一致している。この五年間、吉嶋説を否定する際立った主張もないから、日本でもほぼ受け入れられたと見るべきであろう。

 八代の河童伝説を解く鍵は何となくこの「オレオレ……」付近にもある、とする我われの目星はズバリ当たっており、今にして賢明であった。だから八代市民にとっても吉嶋賞創設の意義は尚さら深いと思う。

 

 

 ふり返って、我われが河童渡来の碑を大切にしながら吉嶋氏の卓見と火野葦平氏らのパロデイを下敷きにしたからこそ、この地の伝承に自由で面白い解釈が可能になり文芸活動にも幅と深みが加わった、と確信できる。そして河童の住み処を民俗学のなかに無理矢理閉じこめず、文化人類学、考古学など諸学問との関連で、またイネの伝播と農業の発達・命の源である水と水環境など暮らしの実態の中に捉えたからこそ、新河童学の誕生も約束され、その結果河童が水文化の中心に甦り町おこしのヒーローとしても活躍できるようになったのである。

 吉嶋さんの功績をもうひとつ挙げるなら、八代の河童伝説と河童共和国によくマッチした九千坊のイメージ像で、これには画家・吉嶋華仙の面目躍如たるものが漲っている。この九千坊像をめぐっては第一回河童サミットで静岡の画家・高柳千賀子さんとコスチューム論争が起き、文化会議にふさわしいハイライト場面になった。高柳先生とは今も親しい交流がつづいている。

 

 

 夢とロマンの河童渡来伝説からして、「オレオレ……」については、今後もいろんな仮説と解釈があって結構だ。

末尾になるが、これまで出た二~三例を挙げておく。

 在福岡の中国史家・百嶋由一郎氏の手紙によると、これは中国北方語で「俺俺来到=自分たちの統率者がやってきた」と説明されている。「河童族はもともと内蒙古を拠点にした騎馬民族系契丹族の穏健派で、かって呉の孫権と魏の曹操が東北部に遠征したころ、争いを嫌って共に南下し黄河あたりに移住。四世紀のはじめ頃、上海や寧波あたりから八代に渡来したのだろう」と書かれている。

 中国瀋陽市生まれの作家で博多仁和加研究家の後藤光秀氏は、著書「カッパの女王・邪馬台国ヒミコ物語一九九一年改定版」で「我們呉人都来了=ウオ-メンウーレンドライラ=私たち呉の国の人、みんなで一緒に来たのです。」と解釈している。

 八代の串山弘助氏(河童共和国大統領)は、最近の労作「九千坊が伝えたもの」(葦書房近刊予定)のなかで、韓国の作家リ・ジョンギ氏の著書『卑弥呼渡来の謎』(二見書房一九七一年刊)から、韓南の言葉では「長らく、長らく、成就なさいよ!」になると紹介されている。

 文化渡来のル-トは多いから無視できない好例である。

一九九二年八月

八代の水ー第2回八代の水を考える90シンポジウム  基調報告

田辺達也

はじめに

 只今から「第2回・八代の水を考えるシンポジウム」を開催いたします。

 球磨川水系環境会議準備会は、いまのところ正確には「下流域」をつけ加えた方が良いと思います。その準備会を代表しご挨拶を兼ね八代の水について報告致します。

 私は準備会事務局の田辺でございます。河童共和国の田辺と言ったほうが通りは良いかと思います。

 八代の水を考える第1回の集いは昨年の夏、柳川の広松伝さんを迎えて講演と映画「柳川掘割物語」を企画しましたところ大変好評でした。水問題に対する八代市民の関心の高まりを示すものと思います。これに気を良くして今年もご案内申し上げましたところ、各地から多数ご参集頂きまして主催者として厚く御礼申し上げます。

球磨川水系環境会議とシンポの目的

 球磨川水系環境会議準備会は、現在、「球磨川・水・河童・食べ物と健康・ゴルフ場」などを主題に活動しながら環境問題にかかわっている六つのグループの共同によって運営されております。

 私たちの所属する夫々の団体グループでは、これまで個々にあるいは共同して、ささやかであっても身近かなところで川との接触を深め、川をテーマにしたイベントを計画し環境擁護の運動にも参加してきました。この努力はこれからも非常に大切なことです。

 と同時に流路延長百十五㎞・支流七〇以上もある県下最大の球磨川は、この流域に住む全住民の努力と協力なしには「とても守られるものでない」ことも明らかです。上流域・下流域ともに、これまでお互いに余りにも知らない事が多かったのではないかいう反省もあります。だから今こそ双方から積極的に交流し連帯する必要があります。その絆を確実なものにするため、私たちは球磨川水系環境会議の結成を提起しその実現に努力しているところです。

  今回のシンポを準備するため、七月十二日から九月二十五日まで六回の準備会と一回の実務者会議を開きまして、じっくり・ていねいに事を運んで参りました。これはみんなの努力のあらわれであります。

 そして今回のテーマは「いま下流から坂本のゴルフ場を問う」であります。中心のシンポジウムは、坂本村に計画されているゴルフ場について球磨川下流域の八代からその是非をズバリ問う「学習と討論」の場にしたいとおもいます。

 講師・パネラーとして、水博士でありゴルフ場問題の権威・山田国広先生、球磨郡相良村の医師でゴルフ場問題を考える相良の会代表の緒方俊一郎先生、地元から坂本中学校の社会科教諭で坂本の自然を守る会代表の山本隆英先生、二見の自然を守る会代表の森下洋(ひろし)先生と共に、シンポジウム形式で進めて参りたいと思います。 

 準備会としてこの問題を取り上げたのは、坂本のゴルフ場がもとで起きる水問題のあれこれ、例えば地下水涵養域の破壊による伏流水の減少と枯渇・農薬や化学肥料による環境汚染のおそれは、球磨川水系下流域に住む八代市民にとっては決して他人事でないと考えたからです。

 本日の議事日程については、このあと各地の報告として上流域の緒方先生と下流域の山本先生から各15分。二見の森下先生には10分。講演は山田先生に80分。質疑討論を25分。決議文を生協の梅田さんにお願いして午後九時半には終了したいと思います。

市役所の警告

 球磨川の水が質量共に段々おかしくなっております。このことは八代に長く住んでいる人なら生活実感として誰もが薄々感じていることです。環境の実態については得てして隠したがる行政ですら、たとえば八代市の場合、六年前(一九八四年)、「広報やつしろ」で地下水の枯渇と汚染に警鐘を鳴らす特集記事を組んだくらいです。むしろ近年「割合鈍感・無関心・無責任、しかも沈黙している方は住民の側ではないか」と指摘し懸念する声もありますので心したいと思います。ヤセンスキーというロシアの作家は、『無関心な人々との共謀』という本の中で「無関心な人々をおそれよ。彼らの沈黙の同意があればこそ、地上に裏切りと殺りくが存在するのだ」と警告しています。非常に含蓄のある言葉なので紹介しておきます。

 川と水をめぐっては、少数権力者・支配者の利益のためそれを独占・管理しようとする側と多数住民のためにそうはさせまいとする者との、長い闘いの歴史があります。磨川についてもそうでありまして、私たちはその歴史を学ぶことが必要かと思います。球磨川の水については自力で調査したもの、或いは不十分ながら官公庁の資料もあります。衆知を集めて住民の立場から分析し堂々と提言することが大切かと思います。

球磨川寸描

 八代の水の(本格的な)異変はいつからでしょうか?私の少年時代の体験なり見聞から言えば、その異変は1950年代に入ってから、60年代になって加速度がついたと考えます。

 戦時中の一九四十年代前半(小学生のころですが)、私は前川近くの淵原町におりました。夏休みになると前川鉄橋や徳淵の渡しあたりは子供たちにとって一番の遊び場でした。唇が真っ青になり手足が縮み痙攣するまで、仕舞いには「河童にジゴンスを取らるぞ」と脅されるまで日がな一日水に浸かっていました。干満の激しさと速い流れで、誰もが一度や二度は溺れかかって泳ぎ上手になったものです。

 欄干から川底まで見通せる澄みきった水。ちょっと手を伸ばせば、すぐ手掴かみでもできそうな鯉やイダの大群。箱めがね、鉾(ほこ)やえび網を手にする黒光りした子供たちの歓声。そしてウナギ塚。冬になると鉄橋下の中洲に細なわがひかれ、青のりがひらひら風に舞いました。今では水はすっかり濁って透明度も悪く水辺には人影は「まばら」もありません。橋桁や石垣や栗石には牡蠣がらやヘドロ状のヌルヌルした汚物がくっつき、全体として昔の面影は失われております。

 南川河口にあった海軍省の軍需工場で終戦を迎えました。当時河川改修中の球磨川河口域も含め、植柳の敷石や下って金剛の吊り橋、南川の葭牟田・北原付近など、今でもあの付近の水の匂いや魚群の遊泳する姿まで思い出すことができます。社会人になった一九五〇年代後半、県内実業団では少しは名の通った興人水泳部にいました。プールのなかった頃、唯一の練習場であった萩原の旧鉄橋から天神バネ付近でピンア往復に鍛われましたので良く分かります。

 荒瀬ダムと新遥拝堰ができて球磨川の様子も人の利用のあり方も大きく変わりました。球磨川の風物詩とも言うべき筏の隊列も萩原の木場も四十年まえ姿を消しました。

地下水の減少

 そう言うわけで、球磨川の水を量的なものから見ると、先ず朝鮮戦争特需で市内の化学系大企業の大増産による地下水の大量取水が始まりました。つづいて高度経済成長下の一九六〇年代以降になると、八代市が第一次マスタープランを策定した69年、有明・不知火新産都市計画促進のため市長自ら地下水の大量くみ上げを奨励する大企業ベッタリで無責任な経過と、それが引き金になって大企業による大口径深井戸ボーリングラッシュが始まります。

 球磨川の伏流水は、この川が平野部に入る新遥拝堰付近で一日六〇万トンと推定されています。地下水の利用配分を見ますと、二十年前は農業用71%、生活用2%,工業用27%でした。ところが十五年後(84年)の資料によると農業用32・5%、生活用5・5%、工業用62%に逆転しております。これでは地下水の危機は必然であり、現在球磨川下流域の地下水利用は大手企業の支配下にあると言っても過言ではありません。

 この辺りのことは、元八代第一高校教諭で現在河童共和国大統領の串山先生と私の共著で三年前発表した『球磨川の水は誰のものか』という冊子に詳しいのでそれを参考にして頂ければ有難いと思います。

 紙パルプ大手の十条製紙を一例として、三年前、坂本の工場をつぶして八代に三百億円かけ上質紙の生産を倍増をしております。増設前の会社資料(87・9)によっても、一日の水の使用量は「約二〇万世帯分の生活用水に匹敵」とPRしています。これは八代市全世帯数の6倍すなはち六十六万人分の量に等しい数字であることにも留意しておいてほしいと思います。

 私が地下水に多少こだわったのは、地球上の水のうち生活用水に使用できる水が僅か0・65五%にしか過ぎず、その内の九十六%が地下水という事実を重視したからです。これはゴルフ場問題を論じるうえでも大事なことではないかと思います。

汚染と塩水化の進行

 次に八代の河川の汚濁・汚染は、レーヨンと紙パルプ大手2つの工場廃水の合流する水無川下流域に象徴的に現れております。ここには悪臭がたちこめ、数十年間魚影を見ることもありません。いま県内ではもっとも悪い状況であろうと思います。

 地下水の大量汲み上げが絡む水位の低下は、八代西域の海岸線の住民とくに農民にとっては海水の逆流汚染という大変な難儀があります。三年前、八代市発表の「地下水塩水化に関する調査報告」によると、特に大企業の集中する球磨川右岸下流域の農村地域で、例えば郡築西方面の76%、昭和地区の34%、平和町の40%が「飲料水に不適」と指摘しています。

 ここで私たち住民も大量使い捨ての風潮と生活雑排水の安易な処理や合成洗剤乱用などの中で、環境汚染・加害者の片棒を担いではいないか? 八代では海岸線に近い郡築の遊水池あたりで取れる鯉や鮒から、洗剤の泡がぶくぶく吹き出すので、「この付近の人は誰も食べない」と言っております。ホントの話しで、大いに反省の時期に来ております。

 今日のこの機会が、球磨川水系の環境について正確な現状認識と民主的転換点になることを心から望みます。

土の死

 第三に、農村や山村における除草剤等農薬・化学肥料の使用はこれ又一九五〇年代に入ってから、六十年代に入るといよいよ本格的になっております。

 私は高校卒業までの五年間、お隣の千丁町で農業をしながら八代市まで徒歩通学しました。社会人になってからも農村事情と水全般について調査し発表してきたので農村の変化が少しは分かります。いまでは夢物語ですが、三四十年前の八代市郡の農村には、どこに行っても清冽甘露な湧水が二三十センチの高さに吹き出していました。そこには生活用水のすべてと農業用水の大部分をそれで賄い、人も馬もそれを飲んで往き来した牧歌的風景が見られました。しかし今は枯れてしまいました。

 一九六〇年代スタートした「農業基本法」―農薬と化学肥料万能のアメリカ式農法の普及、加えて農基法をもとに日本農業つぶしが始まりました。この三十年間に、土壌の酸性化それこそ「農薬=農毒」と「化学肥料」による「土の死」が全面的に進行しました。そしていま農村では、アメリカのコメ自由化圧力や儲け本位・効率主義のわな、加えてこの八代では中国からのイ草・畳表の輸入拡大のなかで苦悶していることは先刻ご承知のところです。

 消費者の一部にも、見かけの良さと低価格の欺瞞に惑わされ、防腐剤と消毒液と農薬漬けの輸入食品に依存している惨めなありさまが見かけられます。

沈黙の春

 そこで「日本の悲劇」の始まった一九六〇年代、期せずして思い出されるのは農薬公害・環境破壊の先進地アメリカにおける動物学者レイチェル・カーソン女史の先駆的警告です。カーソン博士の「サイレント・スプリング」は、邦訳で「沈黙の春」副題に言い得て妙なる「生と死の妙薬」として出版され、山田先生も「ゴルフ場亡国論」の序章で真っ先に引用されております。カーソン女史の名著については私なりの感慨がありますが今日は遠慮して、毎日新聞の書評「春爛漫の山谷から野鳥のさえずりホタルや蝶の乱舞が消え失せた一種の不気味な世界」と西日本新聞が球磨川上流域の山江村のゴルフ場で「山村の住民が沈黙すれば『沈黙の春』は広がる」と言う警告めいた論評を紹介しておきます。

フロイスの描いた球磨川

 四百年前の球磨川はどうだったか?について珍しいレポートがあります。これを紹介して終わりにいたします。

 十六世紀後半の事ですが、豊臣秀吉が島津攻めのため南下し五月下旬八代に入りました。このときポルトガルの宣教師ルイス・フロイスも海路この地に入り、小西行長の案内で古麓城に秀吉を表敬訪問しております。フロイスは八代の印象を「日本史」第一巻のなかに記しております。八代紹介としては圧巻というべきです。

 その一部ですが、「我らは・・八代と呼ばれる地に向かったが、そこは薩摩(の島津氏)が肥後の国で有していた町のうち最も主要なところであった。この地がいかに美しく、清らかで(また)優雅であるかは容易に説明できるものではない。……まるで日本の自然はそこに鮮やかな技巧による緞帳を張ったかのようであり、┉┅その地の美しさと快適さはひとしお際立つものがあった。そこには幾つもの美しい川が流れ多数の岩魚が満ちあふれている。・・見渡すかぎり、小麦や大麦の畑が展開し、清浄で優雅な樹木に掩われた森には、多くの寺院が散見し、小鳥たちの快いさえずりが満ち溢れている」とベタ褒めにほめています。

 フロイスは来日以来二十数年、日本のあちこちを見聞しております。「八代ほど、自然の景観を賛美した箇所は『日本史』全般を通じても珍しい」と、翻訳した先生方が注釈を加えているほど彼の眼に八代はすばらしく写ったようであります。なかでも「岩魚が満ち溢れている」と書いているのには驚きです。「いわな」というサケ科の淡水魚は、現代の辞典にはどれもこれも「川の上流の渓谷に住む」と説明しています。それは無理からぬ事で「流域、河口にもいる」と書いたらウソになってしまいます。ところが四百年前の球磨川河口域には「いわな」が満ち溢れていたのですから、フロイスならずとも私たちにも球磨川の清洌な様子が目に見えるようです。

自然と文化を守る責務

 私たちに与えられた任務は、結局、このような美しい球磨川、このような素晴らしいふるさとの自然を如何にして守るかと言うことでしょう。

 人間の歴史は水環境のほかには存在しなかったが故に、水の流域は文化と情操の母なる地でもあります。その意味でも「八代の水を考える」本日のシンポジウムが真に実りありますよう期待して主催者の基調報告を終わります。

一九九〇年九月