河童の心

第12回全国河童ドン(市長)会議(千葉県銚子市)講演(2000年)

田辺達也

はじめに

 九州の球磨川に棲む九千坊河童族の田辺と申します。河童共和国の官房長官を十三年つとめ、九州河童族30グループの事務局長を兼任しております。

 千葉県銚子市への訪問は初めて、地方自治体の首長さんの会議でお話するのも初めてでございます。文豪が育ち歌人が魅せられた豊饒のまちー銚子で、しかも海千山千の政治家を前にしてお話をするのは九州の田舎者には役不足かとおもいます。ご指名ですのでご容赦をねがいます。私はこの機会に八代民間大使の役割をつつがなく果たすとともに、ご当地の魅力をたっぷり吸収して帰りたいと思っております。

 持ち時間は1時間になっております。しかし河童の自在性と奥の深さから、いったん話を始めるとあちこちに飛んで切りがありません。十五分ばかり伸びるかもわかりません。その分は「かてしょい」でございます。「かてしょい」とは八代の方言ですが、プラスαの大サービスの意味があります。サービス精神旺盛なところ、河童の特性でございます。

 まずは河童ドン会議の第12回総会おめでとうございます。第8回牛久かっぱ祭りを兼ねた第1回全国会議から十年を超える、河童のふるさと創り・水文化振興の地道なご努力に心から敬意を表します。官民一体の協力によってその実が一層あがるよう、私たちも微力を尽くすつもりです。

 そして、ご当地―銚子かっぱ村の開村15周年と大内かっぱハウスの開館、おめでとうございます。大内コレクションの粋(すい)を体現する『かっぱハウス』は、民間の成果としては量質ともに最良を誇るもので、日本の河童文化・水文化の更なる発展と、民俗学など学術振興に新しい流れをつくり出し貢献することは間違いありません。観光の新名所としても、末永く親しまれることを心から期待いたします。

✺柳田国男の九州旅行と耳に遠い解らぬ言葉

 私は八代ではふだんガラッパ語とヤッチロ弁でしゃべっております。ガラッパ語はペルシャ語に近いという人がおります。河童ペルシャ原産説からすればそうかもしれません。ガラッパとは河童のことで、西南九州の熊本・鹿児島両県では濁音まじりに訛ってそう呼んでおります。ヤッチロは八代です。鹿児島県に入ると九州で二番目に大きい川内川があります。川内川の河童なら鹿児島弁でセンデ・ガラッパになります。ヤツシロがヤッチロ、センダイがセンデです。

 九州の方言から、柳田国男と国木田独歩がモデルの田山花袋の小説を思いだします。

 柳田国男は民俗学の生みの親として河童にも大変縁の深い人です。

 明治41年、今から91年まえになりますか、明治政府の高官(法制局参事官)として五月から七月まで九州を視察旅行しております。三十三才のころです。「後狩詞記(のちのかりのことばのき)の旅」として知られております。

 なぜかというと、柳田国男はこのとき宮崎県の山村・椎葉村に一週間滞在して村の古老から狩りの故実のはなしを聞き、狩りをする際のしきたりや焼き畑農業をなりわいとする村の暮らしや山の神への信仰に強い関心をもち、翌年『後狩詞記』を発表しました。『遠野物語』を書く2年まえのことですから、九州旅行はまさに柳田民俗学の出発点になっております。国男が滞在した椎葉村には「日本民俗学発祥の地」の記念碑が建てられており、椎葉民俗芸能博物館もあります。広く九州・アジアの民俗芸能の展示、調査研究、保存をおこない、情報発信基地の拠点の役割を果たしております。

 国男は八代にも立ち寄っています。

 花袋と国男はもともと自然主義文学や新体詩歌の仲間で、国木田独歩や島崎藤村も同時代の文人でございます。花袋の小説に、国男の九州旅行と旅行中亡くなった独歩を描いた作品に『縁』があります。

 ここで国男がモデルの西さんという主人公が、川内川に沿って県道を下る道すがら「土地のものは外国へでも来たのかと思われるような、耳に遠い、解らぬ言葉で話し合っていた」ことに驚く場面があります。百年前の中央政府の役人にとって、九州のカゴンマ(鹿児島弁)は「耳に遠い、外国の、解らぬ言葉」に映ったにちがいありません。

 今はそうでもありませんが、私がもし全部ヤッチロ弁でやりますと、やっぱり皆さんにはチンプンカンプン、同時通訳がいることになります。今日はその煩わしさを避けるため、怪しげな「東京弁」と時々「キング・イングリッシュ」を使っております。

✺文芸の豊饒なる地ー銚子市

 国木田独歩が出てまいりますと、独歩がご当地―銚子の生まれだけに、九州や柳田国男とのかかわりでこのまま終わるわけにいきません。

 柳田国男の青春時代、国木田独歩は自然主義文学・新体詩歌の同人のなかで最も気心のしれた親友と目され、「独歩はその資質や考えにおいて国男に最も近かったし、国男は独歩の敏く感じ鮮やかな語る才能を高く評価し、その短編に対し推奨を惜しまなかった」といわれているくらいです。

 国男は藤村や花袋らと出した詩集『二十八人集』を、神奈川県茅ケ崎で結核療養中の独歩に届けたあと九州に出発したのです。ですから、きっと独歩の身の上を案じての旅だったとおもわれます。

 国男が外国と錯覚した川内なんですが、彼がこの街にはいったのは雨の降りしきる夕暮れ時だったようです。花袋の小説によると、西さん(国男)は「こんな遠い田舎のさびしい旅籠屋の一間で、田邊(独歩)の訃報を受け取った」とあります。独歩が亡くなったのは六月二十三日、鹿児島県内は梅雨のさ中だったかもしれません。独歩、三十八才でした。               独歩のことはそのくらいにして、次にこちらにゆかりの深い竹久夢二なんですね。

 銚子の市の花が阪東太郎の奔流や太平洋の波濤には似つかぬ可憐な宵待草とは、私にとっては新しい発見でございます。九州は福岡の生活もある夢二の恋の遍歴には、女性への憧憬(あこがれ)と幼少の思い出が色濃く投影しているように思われます。

「まてど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ」の悲恋は余りにも有名です。私は夏の巻の「泣く時はよき母ありき、遊ぶ時はよき姉ありき、七つのころよ」も大好きです。

 実は今朝六時に起きて、犬吠崎燈台から海鹿島(あしかじま)へ。午前中文学碑めぐりをしてきました。ここホテル・ニュー大新から一、二分のところにある水明楼の址から始めました。

 熊本県水俣出身の大文豪・徳富蘆花に敬意を表して最初に挨拶に行ったのです。《不如帰》で知られる徳富蘆花も銚子に行っております。明治三十年十一月、今から百年以上も前になりますか、東京日本橋から利根川経由の船便でご当地にやって来、犬吠崎の水明楼に宿泊しております。今は記念碑文に昔をしのぶばかりでございます。

 蘆花はここからの帰り、銚子河畔の「大新」に宿をとっております。「大新」は、ご存知、銚子かっぱ村村長の大内さん経営の旅館です。大新には島崎藤村も泊っております。明治の青春群像が泊った由緒ある旅館に宿泊できることで、わくわくしながらやって来たのでございます。

 銚子と熊本のご縁では、幕末、肥後の宮部鼎蔵も長州の吉田松陰らと一緒に利根川を下りこちらに来ております。ご当地で日本のこれからのあるべき姿について話し合ったかもしれません。嘉永四年、今から百五十年ばかり前のことです。松陰はアメリカ密航計画がばれて刑死し、鼎蔵は京都の池田屋で新撰組に襲われ憤死しております。熊本県民のひいきから、もし鼎蔵が生きておれば、明治時代、重要な役割をはたしたにと惜しまれる、そんな傑物でございます。

 高浜虚子、佐藤春夫、尾崎行雄、竹久夢二、小川芋銭、最後に国木田独歩と、文学碑めぐりを一通りしてきました。もちろん燈台周辺と海辺の遊歩道もゆっくり一回り。朝は小雨まじりで波風も強く、一部立入禁止になっていました。銚子に来て調子が良すぎ、最初からハッスルしているようです。

✺水の心

 今日の演題には『河童の心』と書いてあります。

 河童は水物語の主人公、水文化を代表するキャラクターです。河童の心とは「水の心」につきると思います。

 水の心といえば、黒田如水の「水の四徳」が思い出されます。ご存知、黒田如水は、豊臣秀吉の軍師として誉れの黒田勘兵衛であります。関が原の戦いがもし長引いておれば天下を取っていたかもしれない戦国の梟雄・策略家であり、三国志の諸葛孔明に比定して評価する人もいるくらいです。

 勘兵衛は自らを「如水」と号したように、彼の人生観・処世観は水の如くありたいと願い、水をよく観察した、正真正銘、河童の一族であります。

 その勘兵衛さんが座右の銘にしたのが『水の四徳』であります。

  • 1.自ら活動して他を動かしむるは水なりー主体性
  •  2.常に己の進路を求め止まざるは水なりー目的意識
  •  3.障害に遭いて、激しくその勢いを倍加するは水なりー逆境をこやしに反転攻勢
  •  4.自らは清らかにして他の汚れ濁りを洗い、なおかつ、清濁併せ容れるの度量あるは水なり。

 戦国時代をたくましく生き抜いた苦労人の哲学だけに、やや生臭いところはありますが、中々含みのある言葉です。

✺外国のカッパ

 河童漫游をしておりますと、全国いたるところ、農村の素朴な水のお祭りとお祈りのなかに河童のはなしが語りつがれております。文芸工芸の成果も大切にされて、民芸品も多彩にユニークに競いあっております。それぞれが、その地の文化を極めて個性的に表現して、「おらが国自慢」はそれなりに十分納得するものがあり、簡単に優劣をつけたり元祖なり本家を特定することはできません。その意味で、ご当地の民話《大新河岸の母子かっぱ》もすぐれて確かなひとつです。

 私はあちこちの川を渡り歩いてきました。ここ阪東太郎の旅も、上流の渡良瀬川の釜が淵にはじまり、潮来のあたりでネネコ河童に逢って、いま河口の銚子に達しました。利根川縦断もこれで何となく達成というわけでございます。

 そこでまず河童は外国にいるか? という設問です。これまで15ケ国・二十数例報告されているようです。この研究は緒についたばかりで、今のところアジアとヨーロッパが中心になっております。

 河童の習性と行動からみて、日本の河童に一番近いのはチェコとロシアではないかと思われます。チェコの童話を何冊か読みましたが、こちらの河童は中々個性的で、しかも国民的アイドルになっております。日本語訳もあります。

 河童の音楽なら、日本では美空ひばりのデビュー曲『河童ブギ』が代表格のようです。チェコなら、ヨーロッパ最大の音楽祭・プラハの春に必ず演奏される、スメタナの《わが祖国第2曲・モルダウ》がもっともよく知られており、私も大好きです。スメタナは、母国チェコの自然・風物・歴史を交響詩として感動的に描写し、この中で河童の出番をちゃんとつくっております。その表題からさわりを紹介すると「ボヘミアの森の奥から流れる二つの水源は、岩に当たって砕け、やがて合流して朝日に輝き、森や牧場、楽しい婚礼が行われている平野を流れていく」と書かれ、「夜になると水面に月が映え、河童が踊る」とつづいております。絵本にもこの場面は描かれております。

 アジアでは日本人なら西遊記の沙悟浄を知っていますが、意外と知られていないのが韓国の建国神話にまつわる河童でございます。古代朝鮮の民族国家は北の高句麗(コグリョ)から始まっており、そこの建国に朱蒙(チュモン)という英雄が登場します。朱蒙は天の神様(天帝)と黄緑江の主・河伯の娘(柳花)の子供です。チュモン伝説は日本の天孫降臨神話の下敷きにもなっております。

✺九州のカッパ

 日本の河童ならやはり八代の九千坊、呉の国渡来伝説(オレオレデラタ物語)が有名です。これは国際交流のロマン・文物舶来のロマンを八代流に時代考証して筋立てしたものです。でも似たような説話はあちこちにありますから、厳密にいうと八代だけの専売特許というわけにはいきません。

 九州のことを少しお話しておきます。

 佐賀県唐津のお隣りー北波多村に行きますと、秦の始皇帝の流れをくむ秦ー波多(はた)氏ゆかりの河童がおります。ここの河童渡来は韓国経由、玄界灘から松浦川に入る魏志倭人伝ルートが浮上いたします。二年まえ九州河童サミットを主催しました。佐賀なら伊万里市の古い造り酒屋・松浦一の全身ミイラが有名です。天井の梁から見つかったそうですが、これが評判になり、今では観光名所になっております。ミイラ見学者へのお酒の直売りが飛躍的に伸びたと聞いております。

 長崎県では十年まえ大噴火をおこした普賢岳の河童のはなしになると、古代中国・呉の国からやってきた河童は最初に島原に上陸し、ここで神様になろうと修業したが、遊びが過ぎたのか神様になりそこね、不知火海と有明海を渡って筑後川や球磨川に棲みついたことになっており、“八代より少し古いぞ”というわけです。

 長崎の西端には小説『沈黙』の舞台になった隠れキリシタンの里・外海町に神浦川があり、環境庁お墨つきの日本一きれいな川をまもる運動の一環として河童が活躍しています。今年ここで九州河童サミットを開催予定のところ、遠藤周作記念館のオープンと重なり実現できませんでした。来年は神話の国・宮崎県高鍋町での開催を決めたので、皆さんのお越しをお待ち申しあげます。

 鹿児島は川内川の南の海岸線・吹上浜に近い金峰町の河童になると、稲作の伝来を示唆する古い河童踊りもあります。八代や天草を含むこの辺りは、黒潮の流れに乗って東シナ海から不知火海や有明海に入る中国江南(呉越)ルートが考えられます。八代は徐福渡来伝説地のひとつにもなっております。

 中世になると、飛び梅の道真伝説、源平合戦、南北朝争乱、キリシタン弾圧にまつわるエピソードが、河童伝説として息づいております。病気で死んだはずの平清盛が河童に姿を変えて筑後川の中流域にひそみ、平家の再興をはかる巨勢入道。関が原のあと加藤清正に追われる球磨川の河童族九千坊と小西行長のキリシタン河童の筑後入りなど、筑後川流域は河童民話の花盛りです。田主丸、吉井、久留米など、この流域はカッパ広域連合を組み、とくにその支流・巨勢川の田主丸は十数年まえまで八代のお株を奪って「田主丸こそ九千坊の本家」を名乗っていたくらいです。

 ここに田主丸町の町長さんもご出席ですので、今日は仲良くどちらも本家ということで進めることにしますが、本日の会議に配布された田主丸町の新しい町政要覧をみまして、河童伝説のところでおもしろい筋だてが目にとまりました。

 新説と言ってもいいかと思います。というのは、河童大将・九千坊は「蒙古から渡来した」ことになっております。これは江上波夫先生の騎馬民族渡来説や、元寇の役で捕虜になった蒙古人が河童に変じて日本各地で馬の飼育を始める民話になじむものとして、興味深く読ませていただきました。

 平清盛は伊勢平氏の出身ですから平家の主力は水軍です。当然、水の神様への信仰が厚く平家ゆかりの九州では、とくに宗像の女性格の神とか弁天さんになるわけです。

 筑後川流域と九州山脈ぞいに『筑後楽』という古い神楽も継承されております。大分耶馬渓と日田、そして福岡吉井町の神楽などそのいわれを書いた祭文や舞楽の踊り手のコスチュームから、河童に五穀豊饒を祈り平家落人を鎮魂する二本の筋だてになっています。 薩摩国分寺のあった川内市は古い歴史の町ですが、川内川と樋脇川の合流点にある戸田観音のご本尊は、全身うろこの木彫で有名な河童さんです。中国江南地方の海人の習俗がルーツの鯨面文身から、全身に入れ墨の古代倭人がよみがえります。川内川中流域に日本一の金鉱山で有名な菱刈町のガラッパ公園は九州では最大規模のものです。建設省との共同で河川敷利用のモデルになって、夏休みに九州都市部からのやって来る子供たちの林間学校でにぎわっております。

✺河童の生みの親ー稲作農業

 ここで、河童ブームはなぜ起こるのか? どういうキッカケで起きているのか? を一緒に考えてみたいと思います。河童の心・水の心を知る上でも大変興味ある設問であるからです。

 河童ブームは時代の大きな変わりめにおきております。河童ブームには社会的背景があるということです。河童ブームの性格ですが、ポジティブ・ネガティブ、時代によってちがっており、どちらも「世直し運動」のうねりをもっております。近年のブームには、抗議の意思表示・怒りの気配がただよっております。

 ご案内のように、世界の四大文明は川のほとりで始まりました。水環境の良いところに人が定着し共同社会が始まったのです。人間の歴史をたどると水と共生の歴史であります。                         日本で河童の出現をうながしたのは、弥生のむかし稲作の始まりと考えられます。河童の生みの親は農業であります。稲の成育にとって水の環境、いわゆる水利が決定的に重要です。したがって原始宗教も農耕作業の無難と五穀豊饒を祈る素朴な自然崇拝としておこりました。祈りの形式も水の中のミソギやスマイから始まっております。

 ミソギもスマイも水の神様を迎え入れるための儀式であり、そのため、祈りの対象として神(ゴッド)や精霊(スピリット)や妖精(フェアリーとかスプライト)段々おちぶれて妖怪(ゴースト)など、あれこれ超人的な概念なり、個性的な水の偶像が産みだされました。それをひとくくりにして代表するキャラクターが河童であるわけです。

 ミソギなんですが、その特徴は巫女としての処女の存在と水辺でのお清めなんです。ミソギ(=お清め)は川のほとりか海辺で行われました。ミソギとは水神さんの言葉を聞き、神の意志を受けいれ、神の種を宿す神聖な交わりです。だから相方として清純無垢の少女が選ばれ、水辺でのお清めが必要と考えられたのです。

 柳田国男の遠野物語を引くまでもなく、民話には河童や龍の子をはらむ小話がたくさんあります。これはポルノまがいの嫌らしいことではなく、自然と人の一体感・融合の表現であります。古代人の豊かな感性の世界⟨アニマ⟩とご理解いただきたいと思います。

 スマイについて少し触れておきます。スマイとは一人舞い(素舞)か複数の舞(相舞)のことで、踊りといったほうがよいでしょう。スマイが格闘技、勝負を決める「スモウ=相撲」に転化するのはずっと後のことになります。相撲の神様・熊本の吉田司家も「それはスポーツとしてではなく、初めは農作物の豊作を祈り、或いは作柄の善し悪しを占う庶民の農耕儀礼、民間信仰として発展した」と言っております。

 民俗学者の折口信夫と柳田国男は、スマイ=スモウの仕方は、もともと相手の手を握りしめ、自分の思いを力の強さで伝え示す「手乞い」から始まったといっております。手乞いの「こう」と恋するの「こう」の語源は同じだといえば納得できるとおもいます。

 そうなると、人間の目に見えない神様が相方のスマイはソロでもペアどっちでもよく、五殻豊饒・豊作祈願の儀式、いわゆる恵みを産み出すスマイなら、男女のエロチックな舞いがもっとも自然です。天の岩戸「アマテラス」のストリップショーもそのたぐいだろうとおもいます。

✺水は命ー河童のお皿

 河童のお皿なんですが、このお皿こそ河童が水の神さまであることを確かな形で示しております。

 地球は水の惑星といわれます。水の惑星だからこそ地球上の住む生物は生存が保証されております。人間の体も7~8割が水分です。それ故に古代人の鋭い感性と知恵は、力の源泉・命の守り神として、ズバリ、自らの頭に水タンクのついたキャラクターを造形したのです。

 お皿の水タンクから河童と人が相撲をとるはなしが全国にあります。河童がお辞儀をしてお皿の水がなくなったとき、河童は神通力を失い必ず負けることになっております。これこそ「水こそ命」の大切さを寓話として伝えていると思います。河童の頭は最高の芸術作品ということができます。        河童がいまの姿になって定着するのは江戸時代でございます。大規模干拓による農業の発展で、コメ作りに用水の確保と水管理に関心が高まる時代の要請に、うまくかみ合っております。干拓地はどこも水利に大変苦労しており、灌漑用水の工夫など水神さんの知恵と力添えが益々必要になって、水の物語いわゆる河童の民話の生まれる必然があります。河童をとらえたはなしが絵入りの文献であちこちに残っていますが、その時代も場所も、だいたい江戸時代後期の農村になっております。

 このように昔の河童ブームは食料生産を象徴する前向きなブームだったのです。

✺現代の河童ブーム

 そして現代の河童ブームです。

 さっき私は河童ブームの様相が昔と今は一変していると申しました。いまの河童ブームの特徴は、政治の腐敗・社会不安というネガチブな要因を色濃く反映しております。

 具体的な事例をあげると何時間も何十時間もかかります。それに私が言わないでも、皆さんも「もう我慢ならん」と腹の立つ想いがいっぱいあるとおもいます。とにもかくにも、夢も希望もない八方ふさがりの現状にたいする不安と危機感のあらわれ、あるいは抗議の証しとして河童ブームがおきているように思われます。ということは、「河童、カッパ」と浮かれてばかりは居れないということです。

 ここで河童の作家・火野葦平の警告を紹介しておく意味があるように思います。ご存知、火野葦平は北九州若松を主な舞台に活躍、『糞尿譚』『花と竜』『兵隊三部作』などで有名な芥川賞作家であります。彼が河童の作家といわれるのは、一生のうちに河童を主題に43の作品、原稿用紙で一千枚以上を書いているからです。地元には葦平をしのぶ文学碑や資料館、旧居「河伯洞」もあります。

 葦平は河童曼陀羅や河童七変化という作品にこう書いております。「河童が跳梁するのは、たいてい乱世か、上に悪い政府や大臣がおり、これが愚劣な政治家たちと一緒になって国民を苦しめる、悪政の時代と言われているからで、河童のバッコはそのためであるに違いない。」またこうも言っております。「河童がはびこるときは、おおむね政治が悪く庶民が苦しんでいる時代である。また河童と税金は大いに関係があって、カレンチュウキュウの暗黒時代にはいつでも河童がチョウリョウバッコした」と。国語辞典ではカレンチュウキュウとは「税金をむごく、きびしく取り立てること」チョウリョウバッコとは「はびこる・のさばる」と説明しております。

 今の日本は火野葦平が四十数年まえに警告したそのとおりです。今の河童ブームは、腐敗した政治と経済、自然破壊にたいする国民の抗議や怒りが擬人法という仕かけで表現されていると言っても間違いはないと思います。

 擬人法とは、別の姿にかこつけ人間の本音を伝達するものです。「訴える力は弱く変革の力にならない」と言ってけなす人もおります。しかし庶民はみんな弱いのです。弱い庶民だからこそ河童の姿を借りて、いい換えるならワンクッションおいて本音をもらしているのです。

 しかし庶民のガマンにも限界があります。昔から「窮鼠、猫を咬む」とか「ウサギ七日なぶれば噛みつく」とかいわれております。河童のうらみは、噛みつくどころか、「ジコンス」の奥の「五臓六腑」を狙うからご用心をねがいます。「ジゴンス」はヤッチロ弁ですが、ケツのアナとか尻子玉などいわれているところです。

✺地球の環境悪化

 河童ブームの背景には地球の深刻な環境悪化もあります。環境擁護のための、切り口の変わった、静かでやさしい運動、それが河童ブームであります。

 十年ばかりまえ、ブラジルで世界環境サミットが開かれました。発展途上国の熱帯雨林は製紙のチップ材や建築材として乱暴に伐採され大部分が日本に輸出されており、これに反対する現地住民と日本の商社・大企業との国際的な紛争が頻発しております。二酸化炭素温暖化による地球の生態系の危機に警告する目的もあったわけです。

 サミットが開かれた国ブラジルを流れるアマゾン川は、流路六千七百キロ、流域面積だけでも日本国土の十八倍といわれる世界一~二を争う大河で、この流域には河童も棲んでおます。現地の言葉で「サシーとかコントラ」とよばれているようです。

 アマゾン流域では二千ヶ所にのぼる金の製錬所で水俣病がまん延、そして乱開発による森林の減少・河川の汚濁は目をおおうばかりです。住みかを失ったサシー・コントラ河童の悲鳴は、まさに水の惑星の危機の根源に人間と大企業のむき出しの欲望と罪の深さをしめしております。

✺農業の危機ー水文化の危機

 最後に日本文化の象徴、コメ・農業の危機になります。農耕文化を象徴する河童がその危機に警告を発しているようにおもいますがいかがでしょうか。

 昔からわが国を褒(ほ)めちぎった言葉に《瑞穂の国》という雅(みやび)な言葉がありました。瑞穂とは「みずみずしい稲の穂」と説明されております。弥生以来、日本人の命の綱・食文化の中心になったお米だからこそ、私たちの祖先は「瑞穂」という雅(みやび)な言葉でお米を大切にしたし、米俵に腰を下ろすことさえ罰あたりとして許さなかったのです。

 しかし近年、瑞穂の国の日本では自分の田んぼに米をまともに作ることが許されず、全国で百万ヘクタールの減反、減反率はすでに四割を超えております。生産者米価もこの四半世紀全然上がっておりません。そのため農業後継者が育たず田畑は荒廃しております。文化とはカルチャーです。カルチャーには元々耕すという意味があります。田んぼが荒れ放題では日本文化が根っこから腐れるはずです。

 国際的には食糧難の時代が到来しつつあるのに、政府の食料安保は無策というより、アメリカに隷従して自国の農業をつぶす売国的な態度です。日本の農政が「ノー政」といわれる由縁であります。

 八代地方では米のほかイ草と畳表では日本一の生産と加工地であります。しかし近年、中国産の流入で壊滅的な打撃をうけ、借金苦と将来に絶望した中堅農業者の自殺と自己破産が激増、深刻な社会問題になっております。イ草農家は十年前の4割まで激減しております。

 歴史のにがい教訓から、主食の自給を放棄し自国の農業を衰退させた民族と国家は、滅亡するか他国への隷従を余儀なくされているということです。日本の伝統的食文化のコメとその生産が廃(すた)れたとき、農耕文化の象徴としての水の神霊(かみさま)も死ぬのです。水の神様=河童の死は日本人の感性の死であり、日本文化の滅亡なのです。

 もし皆さんが河童のドンを自負されるなら、中央政治の堕落を許してはならない。見識と勇気をもって地方から反乱をおこし、悪い政治をやめさせ、水文化をまもる先頭にたつ気概が求められております。

 河童の心とは、辛口の結論として、反乱する心にあります。

 平安朝の末期、平将門が関東の大地から、藤原純友が西海の瀬戸内から決起し、腐敗した貴族政治に痛撃を加えました。このように全国の河川と湖沼に棲みついた河童のドンである皆さんが、それぞれの地方から近代的・合法的な手法による反乱を一斉に起こすことを期待して講演を終わります。

 ご清聴ありがとうございました。

二〇〇〇年十月 初出・夜豆志呂136号

                                        

河童を担ぐ

田辺達也

✺河童渡来伝説の源流ー八代

 こと河童(ガラッパ)にかぎると八代市の知名度は抜群である。よほどの八代嫌いか、何にでもイチャモンのへそ曲がりでない限り、日本における河童伝説の源流を鼻から否定する者はいない。この拾余年、各地の河童族との交游で得た感触からも、河童の八代ルーツ説は日本の隅々にまでほぼ浸透し定着していると確信している。

 河童ゆかりの十いくつかの地方自治体が、一九八九年(平1)から『全国河童ドン会議』を年次持ち回り開催している。ここでも、初回の牛久(茨城県)会議から、「中国から渡来したといわれる河童は、全国津々浦々の伝説となって、今に伝えられている」(開催要項主旨)と一致している。「公的にも認知されている」と言ってよいだろう。

 しかし八代市と立ち並んで東西よく引き合いに出されるのが、みちのく岩手ー遠野市である。柳田国男の『遠野物語』が名著・高名ゆえに、ぼやっとしていると、いつの間にか河童イクオール遠野物語ー遠野市になっているから、不思議な魅力をもっている。人口三万人ばかりの小都市だが、十年まえ「世界民俗博」を一か月つづけた底力がある。

 三年前の神無月、島根県の隠岐ノ島から呼ばれて『河童を語る遠野―八代の東西対抗』をしたが、向こうの女性代表は中々のつわもの、ひそかに舌を巻いた。

 東北弁の使い手には、今をときめく石川啄木や宮沢賢治や長岡輝子や井上ひさしらのスーパースターもいる。背景には、園児ー小学生のころから民話になじませるなど、目的意識をもって語り部を育てる誇り(愛郷心)と一貫性がある。

 柳田国男の足跡と名著ならこっちが先駆的で優れた研究者もいるのだが、その認識の浅さとPRの不足を九州は反省すべきだろう。

     *

 柳田国男は一九〇八(明41)年、明治政府の高官として九州視察の道すがら、狩りの故実を聞いて民俗学に開眼、『後狩詞記』に結実させている。『遠野物語』発表の二年前のことだから国男の九州旅行はまさに柳田民俗学の出発点になっている。

 この研究は在熊の牛島盛光熊本学園大学名誉教授が第一人者で、決定版に『日本民俗学の源流ー柳田国男と椎葉村』(岩崎美術社1993)がある。

 柳田国男は八代にも有縁なんだが地元には余り知られていない。

 年譜によると、同年六月十一日、緒方小太郎に会うため八代に立ち寄っている。小太郎は神風連の変に連座して無期懲役になり、放免ののち八代宮にいたらしい。面会の目的は不明。

 このあと十二日熊本で講演、十三日開通したばかりの肥薩線で人吉に向かった。往復の車中から八代の風景は何度も見たにちがいない。

 国男の詩友で作家の田山花袋も同年来代している。花袋は九州旅行中の柳田をモデルに小説《縁》を発表している。

「雨の降りしきる夕暮れ、川内に着いた西(柳田国男、筆写注)は旅籠屋のひと間で田邊(国木田独歩、同)の訃報を受け取った」

 国男と独歩は無二の親友だった。花袋については郷土史家の名和達夫さんがくわしく、筆者も教えを請うている。熊日新聞も四年まえ「文学に描かれた街」シリーズー八代で花袋の紀行文《父の墓》をとりあげた。

 

✺オレオレデラタのいしぶみ

 八代の河童を解く鍵なら、河童渡来伝説と前川の碑、オレオレデライタ、河童九千坊、キリシタン河童、美小姓をめぐる清正と河童のスキャンダル、九千坊の筑後川流亡になるだろう。河童ひとつでこの賑やかさは大変いいことで、海に開かれた八代の自然と文化の豊かさである。

 八代の特異性は何と言っても異邦人渡来・交流の大ロマンである。

 今では民俗学の名跡になった『河童渡来の碑』がその確かな証(あかし)。地元中島町と同町史跡保護会が一九五四(昭29)年建立した。

 碑の見どころは「ここは千五、六百年前、河童が中国方面から初めて日本に住み着いたと伝えられる所」と「旧暦五月十八日に、オレオレデライター川祭りと名づけて毎年祭りを行っている」の石文(いしぶみ)にある。

 前段の外来説には、中国のほか、韓国、東南アジア・西欧など、外国の研究者やマスコミも参入して諸説ふんぷんであるが、無理にまとめる必要はない。多ければ多いほどおもしろくなる。

 ところで、筆者が《ミニ独立国ー河童共和国建国のすすめ》を発表したのは、十三年前の一九八七年六月である。それ以前、ふだん見なれた前川の河童渡来の碑も、関心が薄いと、どこにでもある記念碑のひとつとして見過ごし通り過ぎていた。筆者にとってその程度の「いしぶみ」でしかなかった。

 碑文には「オレオレ」の由来文も縁起書もない。だからか、郷土史家・民俗研究者さえも、長い間、その8文字に頓着せず詮索もせず、せいぜい軽いお囃しか呪文か符丁ぐらいに受け止めていたと思われる。

 しかしいったん河童に目が向くと、碑に刻みこまれた「オレオレデライタ」が気になって、建立者の、ちょっといたずらで手のこんだ謎々あそびを感知して惹かれたのだった。

 河童に興味をもつ読売新聞の日高記者と建立にかかわった古老をたずね回った。が、会えたのは中島の吉田朝雄ひとりだった。当時七十五才のご老体はなかなかの博学で、多少人見知りの癖はあるものの、いったん興にのれば、海人・河童論を展開し長広舌をぶった。「オレオレ」の解釈については聞きそびれ、いま悔やんでいる。

 吉田説の紹介は、新聞記者のあと郷土史家になった千反の塩崎秋義が十年も先輩で『八代の伝説』(1975)に書いている。『九州の河童』(純真女子短大国文科編、葦書房1986)編者の城田吉六(同大教授)は、吉田流解釈にコメントしている。在阪の民俗学者で童話作家の和田寛もブックレット『かしゃんぼ』第12号《河童を探る旅(三)》(1988・10)に紹介し歴史のロマンと評価している。あの頃、こと八代の河童になると、中島町の生き証人のところにみんな詣でたものである。

 田辺提言には人吉の考古学者・民俗研究者の高田素次からすぐ反応があり、電話や手紙でやりとりした。そのとき「河童渡来の碑の建立で地元から相談を受け碑文の草案にかかわった」と聞いた。第1回河童サミット(1988年)に出席通知をもらったので詳しい話を期待していたが、ご本人の病気でおじゃん。そのうち自前の解明がすすんだので連絡はとだえた。逢いたい人だったが七年まえ不帰の客になった。

 他方、八代出身在京の作曲家中山義徳は、すでに一九七九年、少年少女合唱曲『河童渡来の碑』(中山秋子作詞)を発表。作品解説のなかに「作曲にあたって⟨オレオレデライタ⟩の句を歌いこんでみて、その語感から得た旋律より展開させた」と記していた。音楽家特有の鋭い感性で「オレオレ……」にこだわっていたのだ。

 とにかく、地元の古老たちが前川河畔に河童渡来の碑を建立したこと、祖父母も曾祖父母も信じた「オレオレ……」の口伝こそ決定的であった。

 この碑はものは言わぬ。古老もいない。しかし「ロゼッタ石」のようなメッセージがその中にきっと込められていたはずだ。

 

✺垢石・葦平のペルシャ渡来説

 ここで「河童の八代渡来説」になる。随筆家の佐藤垢石と作家の火野葦平が、一九五〇年代はじめから盛んに書いたりしゃべったりしたので、次第に知られるようになった。二人は早稲田の先輩後輩、共に河童族である。カッパへの目覚めは早く、八代の渡来説にも注目していた。

二人の説は中国渡来である。ペルシャ辺りからの大移動説をとっている。荒唐無稽・奇想天外にみえるがそうでなく、歴史の深い観察とロマンチックな感性がもとになっている。いわゆる、人類の進化と人口の増加、東方への、絶え間のない、気の遠くなる大移動―絹の道やステップロード、あるいは七つの海(日本ではとくに黒潮)による、数千年の東西交易と文物・宗教の伝播、その十字路(中央アジア・中国)の治乱興亡と民族の大流亡。河童(渡来)が人類の歴史と重なり合うから面白く納得する。

 垢石と葦平のまなざしは、たぶん河童の姿に遠い祖先の在りし日を重ねたのかもしれない。夏野菜の代表格「胡瓜」だって、元はといえば胡(ペルシャ=現在のウズベク共和国サマルカンドあたり)の野菜だから、「河童(族)が持ってきた」といっても嘘にはならない。胡瓜の海苔巻きが通称「カッパ」と言われるゆえんである。

 

 このはなしで佐藤垢石の周辺を少し突っ込んでみる。

 垢石は新聞記者を経て出版社『つり人社』を興し日本の川と海をくまなく回ったので、紀行文の名手としても知られていた。熊本には六十四才の一九五二(昭27)年七月、熊本日日新聞社の招きで来熊して一か月滞在、この間、熊本・天草・人吉・阿蘇などを回り、河童と釣りの講演会・座談会を精力的にこなしている。

 熊本の座談会には、民俗学の丸山学、洋画家の坂本善三、酒の神様の野白金一ら在熊の一流人士が顔をだしている。丸山学は垢石の「球磨川の河童」をとりあげ、その出所文献をずばり尋ね、垢石は「何にも出ていないかも。私がデタラメ書いたのかも知れん」と煙に巻いている。講演会では「球磨川はあいにくの濁水で九千坊河童に会えず残念至極」と。

 人吉での釣り座談会には市長ら行政幹部も出席した。話のやり取りから、当時進行中の荒瀬ダムに上流域の強い危機感がうかがえる。

 垢石は「日本の大概の川が経験している。球磨川は有数の立派な川だ。ここの鮎がまた他にみられない見事なものだが、地元の皆さんにお願いしたいことは電源開発などで鮎が衰滅してしまわぬよう保全に努力して頂きたい。下流にダムができたら鮎はもうそこでは産卵しなくなり上流へ上がる数も著しく減少してしまう」とずばり警告した。

 熊日も「ダムが出来たら鮎は絶望」の見出しをつけている。

 四十八年まえの忠告は今も生きているのだ。

 垢石は在熊中の七月二十七日から、熊日に随筆『山童(やまわろ)閑遊』(え・坂本善三)を書きはじめ、十月十日まで76回のロングラン。筆の向くまま気の向くまま、あの人流のトツケムニャ河童譚が自在に語られて、河童のペルシャ出発から球磨川渡来まで、美小姓をめぐる清正対河童の痴話けんかとその末の筑後川への大移動、あげくは紫式部と好色河童など盛り沢山。まとめて創元社から『山童閑遊』で上梓されている。

 こういうおもしろい読みものが図書館にないのは残念だ。

 河童七人衆の随筆集『河童』(中央公論社1955)には、そのひとりとして、天草へ行って河童の寄り合いをしたことが《河童閑遊》に収録されている。この本もない。

 

✺河童の八代源流説しかけ人

 河童八代ルーツ説のしかけ人は、芥川賞作家としての知名度から火野葦平とみなされている。葦平のインパクトは、一九五七(昭32)年四月、昭和天皇にこのはなしを披露して大笑いさせたこと、その顛末記《天皇とともに笑った二時間》の『河童会議』(文藝春秋新社)が話題になったことだろう。この珍本もない。

 同月十八日の朝日新聞は「雑学に天皇も大笑い、夢声氏ら五文化人招く」の見出しをつけ「天皇陛下を囲む文化人の放談会が十七日午後二時から皇居吹上御苑内の花陰亭で行われた。招かれたのは徳川夢声、サトウハチロー、吉川英治、獅子文六、火野葦平の五人。徳川夢声の司会で珍談、奇談の花が咲き、ダジャレも飛んで約二時間、陛下を大いに笑わせた。ここでカッパの話もとび出して、中央アジアからタクラマカン・サバクを越えて九州に初めて上ったカッパが『キュウセンボウ』という名のカッパだとの葦平の話には横から“そこで急センボウ(先鋒)という言葉が出たのだな”と落ちが加わる(後略)」と報道している。

 はなしの筋は垢石とだいたい同じ。要約すると「九千坊という大将に率いられた河童の大群が中近東のペルシャ方面からインドのヒマラヤを越え、タクラマカン砂漠を東へ移動、蒙古から中国を抜け、朝鮮から海を渡り、ついに九州八代の徳の洲に上陸した。ここに上陸の記念碑がある」と。このあとに続いて、清正と河童の美小姓をめぐる艶聞?に発展していく。

 放談会の期日だが、県内の書物はどうしてか殆ど昭和三十三(1958)年四月十一日になっている。『八代の伝説』(1975)『熊本の伝説ー熊本の風土とこころ⑨』(1975)そして『ふるさと八代ー球磨川』(1989)などに見える。前出、和田寛は自著で「それは何かの間違い」と指摘している。なんで一年以上ずれたか不明だが、三書の前2点が同じ筆者だから多分この人の勘違いで、後の筆者は前書の孫引きと思われる。

 

 はなしを戻して、葦平は大著『河童曼陀羅』(四季社1957)の《後書・河童独白》で「自分はカッパ年生まれだ」と言い切るくらい河童にのめり込み、作品も生涯に四十三点、原稿用紙で千枚をこえる河童を書いた。葦平の言うカッパ年とは「ミとヒツジの間」だそうで、丙午(ヒノエウマ)の生まれだからと説明している。

 ちなみに、この本の12番作品《英雄》に清正と河童の痴話げんか、晩期の42番作品《花嫁と瓢箪》に八代の九千坊渡来伝説がおもしろく顔を出している。若松の葦平記念館に行くと彼の生きた時代と作品がよくわかる。図書館には1984復刻版(図書刊行会)がある。

 佐藤垢石と火野葦平の活躍はともに戦中戦後の同時代。親交も深いく、河童への愛着とウンチクからも甲乙つけ難い。渡来伝説の「言いだしっぺ」を絞り込むとなかなか難しいが、年の功に敬意を表し垢石に落ち着かせた方が良いような気がした。ご教示たまわりたい。

この先には「オレオレデライタ」の言いだしっぺで、意外な展開(どんでん返し?)が待っている。さらに、河童クリスチャン説、清正と河童の痴話げんか、そして伝説解明から得た教訓など、はなしはいよいよ佳境に入って千夜一夜を越える予感。しかしこれもご縁があればのおはなしで「続きはまたあした」という具合にはいかない。(文中敬称略)

   

◆参考文献

 山童閑遊、佐藤垢石(創元社1952)

 河童、小泉豊隆他(中央公論社1955)

 河童会議、火野葦平(文芸春秋新社1957)

 わたしたちの伝説、読売新聞社社会部編(読売新聞社1959)

 日本伝説の旅、武田清澄(社会思想研究会出版部1962) 

 八代に伝わる『ガラッパ』信仰について[1]江上敏勝(『夜豆志呂』1971)

 八代の伝説、塩崎秋義(自費出版1975・6)

 熊本の伝説ー熊本の風土とこころ、荒木精之編著/塩崎秋義,河童渡来の地(熊本日日新聞社1975)

 熊本の伝説、熊本小学校教育研究会国語部会編/(日本標準1978)

 ふるさと百話総集編、江上敏勝編著(八代青年会議所1983)

 ふるさと八代ー球磨川、八代教育研究所(1989)

初出・文化やつしろ39号、二〇〇〇年

                                        

河童のオペラ 海外公演へ

田辺達也

 昨夏、八代市厚生会館で初演のオペラ《かっぱの河太郎》が、来春イタリアで公演されることになった。三月下旬、ミラノ市のテアトロ・ヌオーボ、ローマ市のテアトロ・ギオの両劇場での公演が決まり、このほかシチリア島カルタニゼッタ市立劇場からのはなしもある。在熊本の歌劇団「熊本シティオペラ」の関係者三十人が渡航し熊本弁でうたい、会場には対訳を配布する。

 八代の河童がオペラの本場に進出し熊本弁で紹介されるのは、こりゃ愉快、おもしろい、有難い。このオペラを企画し初演に関与したひとりとして、海外公演の成功を心から期待する。

 すでに良く知られているように、オペラ《かっぱの河太郎》は、第3回九州河童サミット・八代95のメインステージとして、主催者の河童共和国(福田瑞男大統領)が在熊の文芸関係者に脚本・作曲・上演を依頼してプロデュースした作品である。

河童共和国はこの歌劇を「日本で最初のオペラのマンガ」とパロディ風に喧伝したように、オペラを誰にでもわかりやすく親しみやすいものにする新たな試み《オペラの大衆化》を実験して成功させた。この文化創造の出発点と舞台が河童渡来伝説のルーツ・八代であった点大いに意義深く、河童共和国の先見性・イニシアチブは評価されてよいだろう。

 この作品はその後、熊本産業文化会館、東京帝国ホテルで相次ぎ公演され、いずれも盛会であった。こうして熊本(八代)で生まれた新しい河童のオペラは、熊本シティオペラを核にその熱演も得て、少年少女合唱曲「河童渡来の碑」(中山秋子作詞・中山義徳作曲)と対になり定着しつつある。

 

 河童のオペラのヨーロッパ公演については、我われは、昨年、脚本家の佐藤幸一さんにチェコ音楽祭への出演を提言していたところ一足先にイタリアで実現することになり、さすがオペラの本場(の眼力)は違うと感心している。熊本シティオペラ佐久間伸一代表の実績と人脈によるものと思われる。

 そこで日本人の眼には河童は日本固有のものと映りがち。でも水の妖精・精霊はどこにでもいる。とくにヨーロッパの森と湖、国境をいくつもまたぐ大河流域のそれぞれの地域ーアイルランド、イギリス、スエーデン、チェコ、スロバキア、ドイツ、ノルウエー、デンマーク、フィンランド、フランス、ロシア他にも河童の百態千話が多彩に伝承されている。つまり河童は、もともと地球人共有のアイドル・カントリーシンボルなのである。

 ところで、我われが佐藤さんに海外公演先としてチェコを提案したのも、それなりに理由があった。ヨーロッパ最大の音楽祭・プラハの春の開幕を彩る交響詩・わが祖国第二曲『モルダウ』に注目してほしい。

 ボドルジハ・スメタナは、母国の自然・風物・歴史を音楽的に感動的に描写し、そこに河童の出番をつくっている。

 モルダウの標題には、「ボヘミアの森の奥から流れる二つの水源は、岩に当たってくだけ、やがて合流して朝日に輝き、森や牧場、楽しい婚礼が行われている平野を流れていく」と書かれ「夜になると水面に月光が映え、河童が踊る」とつづいている。

 チェコの童話に描かれる著名なヨゼフ・ラダのイラストにも、湖面に月光が映え、そこに河童の思案げにたたずむ姿がよく見かけられる。チェコの(河童の)童話は邦訳もあり、私は数冊を八代市立図書館に寄付している。身近な研究には、田辺ユイ子の『チェコ童話の中の河童さん』(タウンやつしろ41号、1987年)もある。

 とにかく、チェコでは河童が活躍し童話の世界の人気者。河童のオペラが「プラハの春」で喝采を浴びること請け合い。熊本にもチェコ友好協会があるので話は通しやすいはずだが。

 河童のオペラは中国にもすすめたい。中国の「江」と「河」は西遊記の沙悟浄の舞台ではないか。とくに、最近、八代市と友好姉妹都市の縁組を実現した北海市は江南呉越の港まちである。イネの栽培や操船漁撈に長けた河童九千坊の一統が、千七八百年前、この辺りから、呉服やシュウマイのお土産をもって、八代へ船出したかもしれないのだ。

 この推定は、球磨川河口・徳渕の津にある河童渡来の碑に刻まれた「オレオレデライタ(呉の人がたくさんやって来た)」からも容易に理解できる。北海市で、もし、河童のオペラや合唱曲が披露されなら、まさに河童九千坊の里帰り。現地は大いに沸き日中最良の文化交流になるだろう。

 オペラ《かっぱの河太郎》や合唱曲《河童渡来の碑》の舞台は、ヨーロッパと中国に限らず、水環境に恵まれたところ、例えばガンジス、チグリス・ユーフラティス、ナイル、ミシシッピー、アマゾンその他の流域に無限に広がる夢をみる。

「世界の川は河童を愛し、水物語を競う!」

 こうなれば、水文化の発進基地、河童の国際親善大使ー八代市の役割は大きくなるばかり。                                                               一九九六年  

柳田国男と川内川

田辺達也

 

 柳田国男研究の権威、熊本学園大学牛島盛光教授(民俗学)のお供をして、六月二十三日と四日の二日間、鹿児島県の川内川流域を歩いた。牛島先生には九州河童サミットの、かっぱ大学公開講座に講師として出席していただくことになっており、その矢先で思いがけない踏査行は、河童族の絆を強めながらの、実りある学術調査になった。

 牛島先生から「柳田国男の九州旅行と同じ月日同じコース踏査してみよう」と誘われ道案内を頼まれたのは三月九日だった。

 九州河童サミットのだしもの(公開講座とオペラ)について、在熊本関係者と顔合わせを兼ねた打ち合わせの席であった。牛島先生のほか熊本学園大学丸山和夫教授、『かっぱの河太郎』を書いた脚本家の佐藤幸一さん、熊本シティオペラの佐久間信一さんが出席した。河童共和国から福田瑞男大統領、国会議長の古川保さん、熊本大使の吉田武さん、松永茂生さん(前熊日情報文化センター常務)と私であった。

 私はおつき合いの入口で、独り、こころが躍った。

 柳田国男は一九〇八年(明治四十一年)の五月から七月にかけ、明治政府の高級官僚(法制局参事官)として九州を視察旅行している。三十三才であった。

 人吉市から鹿児島市に入り、六月二十三日、宮之城町から川内市に来ている。このあと七月中旬、宮崎県椎葉村に一週間滞在して狩りの故実の話を聞き、翌年二月、『後狩詞記』(のちのかりのことばのき)を出している。この旅行が「『後狩詞記』といわれるゆえんである。

 『遠野物語』を発表する二年前のことだから、九州旅行はまさに柳田民俗学のルーツとも出発点ともなって両者は強く深く結ばれている。牛島盛光先生の近年の労作『日本民俗学の源流ー柳田国男と椎葉村』(岩崎美術社1993)はその学際的貢献である。

 

 

 今回の踏査は鹿児島県菱刈町ー大口市ー宮之城町ー川内市へ、川内川の下りのコースだった。牛島先生によると、この流域で柳田の足跡は未解明なことが多いといわれ、小旅行の目的はその空白の部分を埋めることにあった。

 スケジュールを任されたので、六月十二日付の手紙で行程の私案を先生に伝えokをいただいた。道案内といっても名前だけ、実は川内河童共和国大統領の箱川政巳さんに助太刀をたのんで菱刈まで来ていただいた。東郷町出身の彼は川内川を知りつくしているから、大船に乗った気持ちで後に従った。

六月二十三日(金)

 八代駅前で牛島先生と待ち合わせ、八時四十五分出発。

 菱刈町役場に十一時少し前着、役場職員森孝一さんの案内でがらっぱ公園と前町長久保さんの河童資料館を見学。

 十三時出発、大口市の曽木の滝周辺調査ー宮之城町教育委員会で十五時半から一時間聞き取り調査。

 川内市十七時着、市役所表敬訪問。

 川内太陽パレスホテル宿泊、川内河童共和国箱川大統領の歓迎晩餐に出席。

六月二十四日(土)

 午前中、川内市文化財保護審議会小倉一夫会長らの案内で柳田国男投宿先跡地の確認。川内歴史資料館訪問。午後から戸田観音の木彫河童見学、薩摩の国東郷かっぱ村代表の箱川辰光さんと懇談など忙しい一日であった。

 箱川さんには最後まで大変お世話になった。以上が概略の日程である。

 菱刈のガラッパ公園は来るたびに河童がふえきれいになっている。国道筋にも巨大な河童像ができていた。前町長の久保敬さん宅に河童資料館が完成しており、膨大なコレクションを見学した。昼食をいただき銘酒「伊佐錦」までお土産にもらう。奥さんがやさしく、心からのもてなしに、いつもいつも、つい甘えてしまう。

 大口から川沿いに左岸の細道を下った。後で調べたら一般県道と記されており、こういう道は勝手知った地の者でなければとても通れない。ダムのある鶴田町から右岸に変わり宮之城町に早目に着いたので、この地の教育委員会でじっくり話ができた。柳田の日程表にある、彼が投宿の山下という旅館について聞きただした。

 このあと通りかがりに『白浜の渡し』を写真におさめ、更に下って頼山陽も歩いた(柳田国男は馬車を利用したかもしれない)旧道(現東部通り)を経て、ちょうど十七時川内市役所に到着した。助役さんと歓談、先生から柳田国男の訪川のことを私は八代の河童サミットについて説明した。後日、同市から企画部長が来代されている。

 私があれこれメモしたのは、「柳田と同じ月日」という牛島先生の思い入れの深さ、学者研究者のこだわりを端的に示すためである。先生の関心は、柳田国男ら明治の文人群像がモデルの、田山花袋の小説『縁』(1910発表)に描写された情景の忠実な確認(再現)にあったと思われる。

 柳田と花袋との交遊は、「しらべ」を重んじロマンチックな作風で知られた和歌の松浦辰雄門下としてはじまっている。小説家に転じた花袋は島崎藤村らと自然主義文学運動を起こし活躍する。

 花袋は書いている。西さん(モデルは柳田)の見たのは「縣道にはそれでも馬車があったが、少し脇に入ると芭蕉、椰子、蒲葵ー日本では見られないような南国の植物が其處此處に繁っていた。土地のものは、外国へでも來たかと思はれるような耳に遠い解らぬ言葉で話し合った。」と。

 そのような道筋の情景は微かとはいえ確かに残っていたので、私たちは子供のようにはしゃいだ。

 言葉について言えば、センデ(川内)訛りは今では「耳に遠い解らぬ言葉」ではなくなった。しかし方言の難解さには経験がある。五十年前(終戦の一九四五年秋・中学一年生だった)川内川流域の樋脇町へ行ったことがある。そのときのこと、何と、地の人の言葉がわからず、通訳の要ったことが思い出される。 言葉の壁は隣県でさえそんなだから、私より更に五十年前、明治の中央役人がここを外国ではないかと錯覚したのは理解できる。

 今度の踏査行で、牛島先生はひとつだけー川内に入ったとき、雨が降っていないことをー残念がられた。花袋の小説には「雨の降頻る夕暮れであった。さびしい海岸から少し入った矢張りさびしいなにがし町に西さんは着いた。」とあるからだ。

 八代出発から大口あたりまで小雨だったので、私たちは雨模様の再現も大いに期待した。ところが午後になってもち直し、四時すぎ白浜の渡しあたり陽光を浴びて汗ばむほどに。

 暮れなずむ私たちの川内は小説のようにはいかなかった。

 西さん(柳田)は「こんな遠い田舎のさびしい旅籠屋の一と間」で田邊(モデルは国木田独歩)の訃報(電報)を受けとっている。

 独歩は花袋や太田玉茗(歌人)ら文学青年グループの友人(先輩)で、一高卒業の一八九七年初めての共著した新体詩集『叙情詩』の詩友だった。国男は、藤村や花袋らと出した『二十八人集』を結核で療養中の独歩に贈ったあと九州に出発したので、きっと彼の身を案じながらの旅だったと思われる。

 「国男が青春をともにした花袋、藤村、独歩のなかで、独歩はその資質や考え方において、国男にもっとも近かった。」「国男は独歩の、敏く感じ鮮やかに語る才能(国木田独歩小伝)を高く評価し、その短編に対して推奨を惜しまなかった」(岡谷公二『柳田国男の青春』筑摩書房91)

 独歩の死を悼むのか、雨はいぜん降りつづいていた。      

 場面は変わって、私たちは、翌二十四日午前中、柳田投宿の高瀬屋(地元新聞の報道では薩摩屋になっている)という名の旅館を確認するため、小倉さんや箱川さんらの案内で、国道3号線と川内川左岸堤防の交差する下方の一帯を散策した。

 牛島先生の歩きの早いこと。

 私は歩くことに始まり歩くことに終わる民俗学の真髄を、元気印の先生の後ろ姿に体感した。この二日間、大学生のつもりで駈けた。思い出の小箱に残る踏査行であった。

 

 

 追記―六月の末、先生からお手紙をいただいた。

田辺達也様

前略 やっと写真ができましたので、わずかですがお届けします。

 何度見ても、戸田観音堂のガワッパは、異様、奇怪ですね。鬼気迫るものがあります。

 さて、柳田国男の八代通過の件、定本柳田国男集・別巻5にあります。

 六月十一日というのは、三角に一泊(六月十日)翌日、つまり熊本に帰る途中ですね。この日の記録ですが、今のところこの年譜以外には見当たりません。

 小生が八代宮の「社務所日誌云々」のことを言いましたが、これは思いちがいでした(阿蘇神社と菊池神社にはありますが、八代宮にはありません)しかし私は八代神社を八代宮と考えてのことで、妙見社を八代神社と別称すれば、話は別です。念のため妙見社の社務日誌(明治四十一年六月十一日の條)を当たってみてください。あればシメタものです。

 愈来月中旬ごろには講演の準備を始めます。なるべく早く当日の配布資料の原稿を(成るべく一枚にまとめます)お送りします。草々

一九九五・六・二九
牛島盛光

 定本・柳田国男集別巻5の年譜によると、六月十一日、柳田は「八代神宮の社務所で神風連の残黨である緒方小太郎に會う」ている。柳田国男は八代に立ち寄っていた。しかし八代神宮は八代宮・八代神社(妙見さん)どちらとも受け取られるので、前記の先生の手紙になったと思われる。

 六月三十日、友人の小林緑郎さん(八代神社宮司)にこのことを尋ねたところ、熊本県大百科事典(熊本日日新聞社82年刊)を示してご教示いただいた。同事典によると、小太郎は「神風連の変で無期懲役、明治十四年放免、のち八代宮宮司となった⟨上田満子⟩」と説明していた。

 柳田の日程表では十一日の宿泊地が空白になっている。十二日熊本で講演しているから、八代に宿をとった確率は低い。緒方小太郎に会うのが目的であれば、三角から八代に来て、その日のうちに熊本に行ったと思われる。十三日、開通直後の肥薩線経由人吉に行ったので、八代駅周辺は車中からもう一度散見したはずだ。

 私にとっては、思いがけない、柳田国男との触れ合いを熱く重ねる一方で、並行して本番の河童サミットのレジュメつくりに牛島先生や丸山和夫先生と何度もやりとりをしながら、公開講座の準備を万端進めていった。      一九九五年八月