〈ディベート〉河童のルーツについて 国産説か?渡来説か?

第20回河童サミット・東京 審判員としてのコメント

田辺達也

 「赤勝て白勝て」の源平合戦方式で河童のルーツを探るシンポジウムは、おらが街の河童自慢も兼ねた興味深々の討論になると期待して出席しました。

 河童のルーツ論争は、国産説(化生説)にせよ渡来説にせよ、知恵と雄弁、遊び心、愛郷心の発露が決め手の上品なかけ合いですから、どちらがどんな上手で相手に「参った」と言わせるかを楽しみに審判席に座りました。期待に違わず熱のこもった展開に会場は大いに盛り上がったのですが、議事日程の都合で早めに打ち切られたので結論に至らず、私もジャッジのひとりに指名されて張り切っていただけに、ちょっと残念に思いました。

 以下、その日の論戦を整理してみました。

 

 私なら2つの切り口から考えます。

 ひとつは、民間伝承に優位性や絶対性があるのかどうかという総合的な視点から。もうひとつは、選抜チームのパフォーマンス。なる程とうならせる筋の構築と雄弁で自説の優位性を主張できるかどうかです。

 

  民間伝承を素材にした水の化身・河童の物語りは、呼び名(名嚢)にせよ話の筋にせよ、元々方言で成り立っているので微妙に千差万別で、和田寛先生の『かっぱ事典』からも無限に近く語られております

河童の説話にはその地の風土・民俗、住民の気分がたっぷり凝縮されておりーたとえ、民話の回遊によって元々の筋が影響を受けたり、「水は命」の普遍性から似たような噺(はなし)が生まれる傾向があるにせよー本来、土着的・個性的なもので、地方文化を端的に体現しております。

 日本語で語り継がれる河童は、アニミズムの流れのアニマ説、化生説・渡来説いずれにせよ地域により微妙に違います。灌漑土木工事や寺社仏閣造営の犠牲になる、化生(けしょう)説話のなかの河童と、鳥取大学の道上先生のように自然科学の目で見た化生(かせい)説の渦巻き河童とは、同じ漢字の化けて生まれるでも意味合いも姿形も違います。ところ変われば品変わる。童話作家の松谷みよ子さんによると、沖縄ではアメリカの軍事基地に反対するケンモン河童も現れています。

 河童のルーツについて、海に開けた八代では『河童渡来伝説』を大事にしてこの物語を通史的に考証、全国に発信しております。だからと言って渡来説に優位性や絶対性をとってはおりません。それぞれの町や村に伝わる物語りにとって代わることができないからです。河童のルーツ説は説話の数だけあっても良い、その良さを承知の上で競い合うという懐の深さが八代の立場・河童共和国の立場であります。

 

  選抜チームの当日のパフォーマンスですが、さすが選りすぐりのチームだけに、期待にたがわず熱のこもったいい展開で、私の力量では、優劣がつけ難いと判断いたしました。

 一般論として、今は定番めいたストーリーやイベントが氾濫しているだけに、それぞれの地で感性を研ぎ澄まし、創意を発揮し持続する努力が求められます。

 それを生み出す力の源泉は、結局、水は命の河童大好きの心へ返っていくような気がいたします。

初出・かっぱ新聞第168号
二〇〇七年六月

美童をめぐる 清正VS河童 球磨川夏の陣

 2006年・鳥取サミット記念シンポジウム

田辺達也

✺球磨川と日野川のきずな

 河童共和国の田辺でございます。九州は八代・球磨川からの参加です。

 まずは米子サミットの盛会を祝し、開催地・米子市の皆さんの歓迎に厚くお礼を申し上げます。サミットを準備された河童連邦の事務局、鳥取大学の道上(前)学長先生はじめ現地実行委員会のご努力に心から感謝いたします。サミット(首脳会議)ですので、私は外交慣例に従い夫人同伴で参りました。

 ここ米子を河口とする山陰地方の大河、日野川流域には河童の息づかいが確かに聞こえます。私には格別でしょうか。日野川カワコ(河童)の大親分が球磨川渡来の九千坊(の子孫)という、八代とは切っても切れない関係にあるからです。米子の出版社・立花書院発行の『日野川の伝説』には一番目に載っております。

 球磨川の河童がですね、日本のあちこちの川に散らばって住みついたとか、牛深(天草)ハイヤ節があちこちの港町で唄われながら定着していく、いわゆる民話・民謡の回遊から、私たちは古来ハエ(南風)といわれる季節風と対馬海流と呼ばれる黒潮の道による、人と文物の交流・交易のよすがを知って懐かしむことができます。河童のご縁で隠岐ノ島へも2度ほど講演の機会に恵まれ、同じ思いをして帰りました。九州の不知火海と山陰の日本海、八代の球磨川と米子の日野川のえにしの深さを感じとっております。

 私はこのようなロマンに惹かれて、五年前のこと、米子から中国山地・日南町にある河童ゆかりの楽々福(ササフク)神社まで一日がかり、日野川沿いのあちこちのカワコ淵を訪ね、その成果を『日野川紀行』として地元の史談会誌に発表しました。往復百数十㎞、このときの民俗調査・河童游々はご当地の出版社=立花書院・楪(ゆずりは)社長さんのご援助により実現したもので更めて御礼申し上げます。このフィールドワークがきっかけになって、日野川の河童族と国交を樹立、以後、善隣友好のおつき合いがつづいております。

     *

 ときに米子への旅は青年時代から数えて四回目になります。今回は松本清張と井上靖ゆかりの伯備線を経由、中国山脈を分水嶺とする東西二つの川を楽しみながらやって来ました。

 松本清張といえば、ちょっと余談になりますが、山陰が舞台の『砂の器』と急行「出雲」が思い出されます。東京で起きた殺人事件で方言(訛り)の類似から捜査の目が東北から山陰に向かい、ここで東京発浜田大社行きの急行「出雲」が出てくるのです。先だってテレビでその「出雲」の運行が廃止され、お別れ列車に名残を惜しむファンの映像が出ておりました。

 実は四十八年まえの六月、私もこの「出雲」に乗って米子に向かっております。この急行は確か東京駅22時30分発でした。米子駅に下車したのは、うろ覚えですが、翌夕の17時ごろだったと思います。そのとき私は皆生温泉の松風閣という松林の美しい旅館に泊りました。サミット本会議場のお隣りだったのですね。

お気の毒に、この旅館は最近倒産したと聞きました。急行「出雲」の旅は思い出に残るので、このダイヤの廃止はちょっと寂しい思いがいたします。四十八年前も四十八年後も水無月の六月です。実は水有月の水の月に米子訪問とは河童のとりもつご縁ですかね。

 ご挨拶はこのくらいにして本題に入ります。

✺加藤清正と河童九千坊の痴話ケンカ

 ときは十七世紀はじめー戦国大名・加藤清正が色恋のもつれから河童九千坊の一統に報復戦争をしかけるという、スケールの大きい痴話ケンカの一席をおはなしいたします。八代の球磨川が舞台になっております。

 男と女の痴情沙汰・三角関係のもつれは、スリルとドロドロの絡み合いゆえに河童伝説にも色濃く投影しております。人間と河童の色恋では河童が大抵スケベな悪者に仕立てられております。でもスケベは実は人間の方で河童にとっては大変迷惑なはなしです。

 そこでみなさん、『加藤清正の河童退治』という説話をご存知でしょうか? 江戸時代から伝承される有名な話にしては意外と知られていないようにも思いますが、どうでしょうか?

 あらすじは、球磨川と不知火海を繩張りとする河童の大集団・九千坊一族の若衆が、関ケ原の戦いのあと小西行長に代わって八代を領治するようになった加藤清正の寵愛する美しい小姓に恋をして川に引き込んだことが争いの発端らしいのです。カンカンに怒った清正は全軍あげて河童掃討作戦を展開するのです。

 この筋書きは、昭和三十年代、作家の火野葦平(ひの・あしへい)や随筆家の佐藤垢石(さとう・こうせき)の作品で広く知られるようになりました。この二人は河童の八代ルーツ説を展開したことでも有名です。

 葦平と垢石は《清正とエロカッパの大戦争》に仕立てています。実はこれには下敷きがあります。江戸時代の中期(18世紀)の国学者谷川士清(たにがわ・ことすが)の著した「和訓栞(わくんのしおり)」という辞典や、俳人菊岡沾涼(きくおか・せんりょう)の著した「本朝俗諺志(ほんちょうぞくげんし)」という里俗伝承集に出てきます。葦平と垢石はこれに濃いめの味をつけ物語りを膨らませたのです。

 ここでいう小姓とは男色・ホモセクシャルの相手役の美少年のようです。戦国武将や僧侶や公家らのホモセクシャルは当時珍しいことではありません。十六世紀半ば来日したイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、日本の上流社会の歪んだ快楽に驚いて、「あのような忌むべきことをする人間はブタより汚らわしく下劣である」と非難しております。

 九千坊の若い衆ときたら、清正の小姓を多分美少女と思いこみ恋心を募らせたのでしょう。河童の恋は美しき誤解から始まったのでした。火野葦平も、清正の手前、河童を仇役にして一応エロ河童と毒づいてはみたものの、「相手が大豪傑で領主であったことがいけなかった」と大変気の毒がっています。

✺復讐戦に猿まで動員

 清正は、球磨川に「弓矢、鉄砲、大砲をドカンドカン打ち込み上流から毒までを流した」ようです。それでも収まらず、「焼石を淵に投げこみ、淵から這いあがろうとする河童を猿に捕えさせるよう家来に命じた」と。

いやはや何とも凄まじい。虎退治と熊本城築城の清正公さんからはおおよそ想像できません。九千坊一族にとっては降って湧いた災難でした。

 なり振り構わぬ復讐から嫉妬に狂い取り乱した姿は何とも異様ですが、河童九千坊に対する清正の並々ならぬ構えも感じます。「相手はたかが河童じゃないか。清正ほどの武将なら簡単に踏みつぶせるはず」と高をくくるなら、その人は並の軍事評論家でしかありません。

 清正にしてみれば恋敵との一戦には自信がなかったと思われます。それは河童の攻撃に九州一円の猿の手まで借りているからです。清正は陸の戦いでは負け知らずですが水の戦いは苦手でした。秀吉時代、九州平定・薩摩攻めに従ったとき、鹿児島の川内川で「センデがらっぱ(川内川の河童)」の猛反撃にあい散々痛めつけられた苦い思い出があるのです。          その悪夢がふと甦ったのでしょう。誰にでも苦手はあるもので、河童だけはどうも戦いにくい相手でした。

 その猿の援軍ですが、ペルシャ系の河童族と印度系の猿族は九千坊の八代渡来以前のむかしから、ヒマラヤの通行権をめぐって折りあいが悪かったようです。そのはなしを熊本日蓮宗の本山・本妙寺のボンサン(坊さん)から聞いて小躍りした清正は、早速阿蘇の山奥に住む九州猿族の大御所「ハヌマーン太夫」を熊本城に招き、助っ人ならぬ助け猿を要請したんです。ハヌマーンはインドの神話にも出てきますね。

 鋭い爪と牙で武装した数十万の猿群が九州一円から球磨川河口に集結して清正軍と合流しました。この有志連合・他国籍軍が球磨川流域と不知火海域の河童族と対峙したので、八代はにわかに湾岸戦争の危機に直面しました。

     *

 さあ、加藤清正と河童の恋のさや当て、この事件の顛末はどうなったか? その後、河童九千坊の運命は?

 このような伝説が八代を舞台になぜ生まれたか?

 その背景は?

 これらを推理し読み解くなかで、江戸時代の人々の創造力や文芸の力、葦平や垢石の遊び心をいやというほど知ることができます。この謎解きは今話題の「ダ・ヴィンチ・コード」よりもずっと面白いのです。

 この先は、私に持ち時間があれば続けてお話しますが、なければレセプションのとき酒杯を重ねながら意見を交わしたいと思います。

 

✺資料・清正の河童退治を記した江戸時代の文献「和訓栞」

⟨解説⟩和訓栞は江戸中期の国学者・谷川士清の著した辞書で、全編45巻・中編30巻・後編18巻からなる。

 谷川士清(たにがわ・ことすが)は1709(宝永6)年、伊勢の国(三重県)の、代々医を業とする家系に生まれた。国史・国語学、医学、歌道、神道など和漢の学を多彩に極め、本居宣長とも親交があったといわれる。1776(安永五)年、68才没。

「夜豆志呂」153号2007,2刊

東京水天宮で日本橋かっぱ村15年祭

田辺達也

 日本橋かっぱ村(萩原金吾代表、東京)創立十五周年記念祭・河童愛好物故者の慰霊祭・06世界河童サミットin東京(実行委員長・牧野圭一京都精華大学教授、水天宮と長崎県上五島町後援)が一体のユニークな催しが、十月二十九日、隅田川右岸域の水天宮(日本橋蛎殻町)とロイヤルパークホテルの2会場で開かれ、龍ちゃんカッパ館の北野龍雄館長(静岡県焼津市)ら河童族代表一五〇名が出席した。

 九州かっぱ族は、来年八月、長崎県大村市で開催予定の第14回九州河童サミット主催国・郡(こおりん)かっぱ共和国(増川前隆首相)ら3ケ国十一名。河童共和国は福田瑞男名誉大統領、田辺達也大統領夫妻、土田典雄国会議長(以上八代)が、東京在住の会員・檜逸夫さんら三名と合流して七名が出席した。

 会場では、博多の人形師・長友さんと遠野の陶芸家・馬場さんが河童民芸品を展示して即売した。

水天宮さんうってつけの講演会

 第1部、水天宮の神事ー13時30分から牧野実行委員長の挨拶で始まり、かっぱ村役場初代村長中河与一さん、河童連邦初代大統領土屋斉さんらゆかりの物故者を慰霊した。

 第2部、15時から名刺交歓会と講演会―会場を隣接するロイヤルパークホテルに移して開催。講師は河童伝承大事典の著者和田寛さん(大阪堺・河童文庫理事長、河童学博士)が『水天宮と河童』と題し講演、江戸時代の後期、筑後川の久留米から分祀して江戸における水信仰(五穀豊饒・安産・水難除け)のメッカになった水天宮について、神社縁起や伝承民話などから解明した。

 このあと日本橋かっぱ村会員・森下真理さんの朗読を楽しんだ。

台湾、銚子、九州から大型代表団

 第3部 16時30分から懇親会―台北かっぱ村・林錦松村長(台湾財界人)、かっぱ村役場・大野芳村長(作家)、銚子かっぱ村・大内恭平村長(元銚子市長)、九州かっぱ族を代表して河童共和国・福田瑞男名誉大統領(医学博士)が挨拶した。総合司会は軽妙なアドリブで定評の、かっぱ村役場東京事務所長・松井寿一さん(薬事評論家)が務めた。

 台北かっぱ村から林村長夫妻ら十一名の大型代表団が来日した。台北かっぱ村と日本橋かっぱ村は03年「友好村」を締結し相互交流を深めている。銚子かっぱ村は大内村長を団長に十名、銚子と日本橋も友好の絆はつよい。大内村長は近年健康不安から諸会議不参加が気遣われていたが、久しぶりの大内節に確かな復調を印象づけた。

 郡(こおりん)かっぱ共和国増川首相の乾杯の音頭で祝宴に入った。同国代表団は壇上で九州かっぱサミット・大村への参加を呼びかけた。河童共和国代表団も積極的にサポートした。

アトラクションー浜町囃子(日本橋浜町ばやし子供会)、相撲甚句(湯浅みやす甚句社中)かっぱ踊り、日本舞踊、新内、ハワイアン(東京都庁ウクレレ倶楽部、サウンド・オブ・ハーバー)など次々に繰り出す東京ならではの多彩な出し物と酒杯を重ねる歓談のうち懇親会は頂点に達した。

 18時30分、日本橋かっぱ村村長萩原金吾さんの謝辞、東北みちのく岩手かっ村村長・谷村和郎さんの音頭による三本締めで全日程を終了した。

■解説・河童族の進化

 近年、気持ちのよい催事に相次ぎ参加する幸運に恵まれている。銚子かっぱ村20年祭、台北かっぱ村の国際会議、焼津の龍ちゃんカッパ館式典がそうだった。このいい流れは日本橋の水天宮へとつづいた。主催者の人徳、しゃんとした組織運営、自由な遊び心の程よいアマルガムがうかがわれる。

 日本橋かっぱ村の旺盛な活動と萩原村長のつき合いのよさ、中央ならではのユニークで豊かな人脈形成を確認した。かっぱ村役場と河童連邦共和国(2大全国組織)の会員が一同に会し歓談した。

 隅田川の支流・分流は120ばかり、蜘蛛の巣の水系で成り立っている。著名な橋も花のお江戸の名残りをとどめる永代橋・両国橋など指折り十五六を数えることができる。水の都/橋の町・東京における河童催事が隅田川にほど近い水天宮で行われたことは、日本橋かっぱ村ならではの優れた選択で参加者を唸らせた。

 球磨川・河童九千坊の係累が筑後川・水天宮の神使になったのは四百年前、その末裔が江戸への分祀に伴い隅田川に移り棲んで二百年になる。感慨もひとしおだ。

 水天宮は七・五・三のお参りと重なって家族連れで賑っていた。

 郡んかっぱ共和国代表団の意気ごみがあればこそだが、来年度九州河童サミットに対する主催者の細やかな気配りと参加者の熱い期待を随所に察知して嬉しかった。

 河童族は進化している。

二〇〇六年十一月

河童によるマチ興し 菊池地名研究シンポジウム

田辺達也

河童ブーム

一九七〇年代後半からつづいており、河童愛好家の活発な交流、文芸・工芸の多彩な興隆がブームを支えている。

この背景に社会不安もささやかれており、昭和史の苦い体験から、芥川龍之介や火野葦平の作品にも微妙に投影している。自然環境と社会環境の急激な悪化、人心の荒廃と犯罪の増加、くらしと平和(戦争をする国)への不安が河童の出番を促しているというのだ。擬人法による庶民の警告なり抗議である。

 河童族のグループは現在全国に100ばかり、九州では30ばかり。共和国とか王国とかシティとか村を好き勝手に名乗り、夏場になると毎週どこかで楽しい川祭りを行っている。

 今年も、五月・千葉県銚子市(利根川)、七月・岩手県遠野市(猿ケ石川)、八月・北海道札幌市(定山渓温泉)、九月・鹿児島県薩摩川内市(川内川)、十月の先週は静岡県焼津市(駿河湾)で全国規模のイベントがあった。

 河童サミットは八代が初回(88年)。創意と先進性、催事の成功が河童共和国への敬意とその後の河童ブームを決定づけ、毎年持ち回り18回、九州サミットも12回をかぞえ、今では夏の風物詩になっている。国や地方自治体、商工団体も「切り口のやさしい水環境擁護と楽しいマチ起こし効果」を期待し後援している。歴史民俗資料館は夏休みに河童特別展のロングラン、学校でも文化祭に河童の研究が発表されている。お色気カッパの黄桜酒造も河童資料館をオープンした。河童ブームの息の長さは近年の不思議である。

 河童は生物の誕生と生存・暮らしに深くかかわる水・水環境の化身(気配・アニマ)。河川流域・湖沼・海のほとりに息づいてきた。近年、アジアやヨーロッパにも目が向いているー河童が主役のチェコの民話には邦訳がある。TBS(テレビ局)の特番『新ポルトガル謎紀行』は、八代の「オレオレデライタ」に注目、ポルトガルにクリスチャン河童を追った。台北では河童主題の国際会議、台湾政府高官が歓迎演説をした。台北市内を流れる淡水河の河口からも八代・球磨川へ河童が渡来している。韓国作家もシャムと朝鮮と八代を結ぶ壮大な河童のロマンを描いている。八代は国際的にもモテモテだ。

 熊本県には主な水環境に一級河川が4つ、不知火海と有明海もあり、河童の民話はずば抜けて多い。民俗学の泰斗・丸山学や牛島盛光、牛深の詩人・山下陽一らの活躍もあって河童天国である。

 しかし河童愛好家の交流は県内では南北間で弱い。菊池市には渋江さんの河童除けのお札とか、天地元水神社の河童縁起など。そのお隣り、田主丸の馬場瀬神社に菊池氏ゆかりの河童の説話と習俗もあり、菊池川流域にはかって良質の砂鉄も産出されたと聞き注目している。

 菊池川を水神信仰のメッカとして売り出すには県内4河川の連帯と新たな仕掛けが必要である。西日本域の最も人気のある水まつりー『九州河童サミット』三年後の菊池市開催を提言したい。

マチ興し運動

 劇作家、井上ひさしが『吉里吉里人』を発表したのは81年。パロディの奇抜さに触発され、82年、三陸沿岸に『吉里吉里共和国』が生まれた。以後いろんな目的と名前のマチ興しグループ/ミニ独立国が地域浮揚の切り札として誕生、個性を主張しはじめた。

 中曽根内閣の「民活」がそれに輪をかけ、地方自治体も倣って旗を振ったので、一時期、雨後の筍の3千にも達した。いわゆる日本的(金太郎飴流/ドシャ降り的)なブームである。しかし5年もてば上々吉、大半が三年ばかりで閉国・廃村・休店に追いこまれている。熊本県では福島知事時代、官主導の「県まちづくり団体協議会」が生まれ、登録組織は250ばかりになった。しかし自力運営の創意と持続は人的・財政的に難しく、中には行政職員兼任事務局で辛うじて命脈を保っなど、実際は開店休業かおんぶに抱っこも見受けられる。

 流通科学大学(白石教授)は全国200以上のグループを調査、元気印の稀少例として河童共和国(八代)の活動に高い評価を与えている。「地域への愛情と愛着を根底において展開されている。パロディの形をとりながら地方文化の再構築を図るねらいを有しており地域づくりに方向性を見据えたミニ独立国である」前出、井上ひさしも、河童共和国入国の動機について、熊本日日新聞の取材に「いろんな共和国があるが、河童共和国には思想があり初めて国民になりたいと思った。シャレと本気のバランスがとれ、まじめに遊んでいる姿勢もしっくりきた」と述べている。常磐学園大学の石川教授(民俗学)も「心の緑化運動推進」を提言して入国、ご指導をいただいている。

 マチ興し運動の失敗例として、拙速な経済効果追求型の危うさと脆(もろ)さが指摘されている。自治体主導型(依存型)になると首長が交代して途端に行きづまることがある。

河童共和国

 河童共和国の活動開始は十八年前から。すでにマチづくり団体の老舗である。六年まえ熊本日日新聞社の『ひのくに応援大賞』を、五年まえには福田名誉大統領が『信友社賞』をいただいた。

 河童共和国は純粋な民間の文化団体である。自力で長つづきできたのは⟨遊び心・和と輪⟩を大切にしている、河童にトコトンほれこんでいる、自在な研究成果と交流実績で権威をうち立てながら、継続は力なりのユックリズムを貫いてきたこと、などによる。

① 憲法と建国宣言をもっている

 新しい国づくりの理想と情熱が凝縮されており、その後のミニ独立国憲法のモデルになった。日本語と英語文の冊子を世界の125ケ国へ届けた。この国は*文化渡来のロマン『河童・九千坊物語』による郷土文芸の発揚と地域振興 *河童にかこつけ、切り口のやさしい水環境擁護運動の推進 *河童愛好者との善隣友好目的に、真面目な遊び心をもって建国されたミニ独立国と規定している。

② 知的集団である

 河童を伝承世界の妖怪変化とする民俗学にこもらず、河童譚を人間のくらしや自然観と読み解き、更に海の道・川の道による交流の物語りとして考証し解明する立場をとり、これを『新河童学』と名づけた。

 民話に描かれた河童の姿態や動態には深い意味と根拠がある。民俗に歴史の衣を着せると急に人間臭くなり、河童への疑問が、庶民の目線から大方合理的に解明され、河童出現と活躍の必然が理解できる。

 最大の成果が独自考証による八代の『河童九千坊・呉の国渡来伝説』の構築である。球磨川支流・前川べりの碑に刻まれた奇妙な8文字「オレオレデライタ」にロゼッタ石の不思議を重ね、古代中国(呉越)との文化交流のロマン説を発表した。

 河童渡来のルーツの地・やつしろは現在、官民あまねく認知されている。中世、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイス来代もクリスチャン河童出現にデフォルメされている。

③ 交游の成果がある

「国づくりは百年先を見据えた人づくり・人脈づくり」と言われる。全国の河童族とあまねく国交を結び善隣友好の実を重ねた。要は時間をかけて仲良しになることだ。県内・市内でも官民合同の交流でも成果をあげた。

④ マチ興しにも寄与することができた

 日本最初の河童サミット八代開催の先進性とPR効果は大きい。1999年『国立かっぱ大学』を開校、受講生は二千人を超え、受講生に珍妙な学位『自称・河童学博士』を授与している。河童芸術大賞・文学大賞も創設、二百人を表彰した。

 八代は河童と水環境の情報発信基地になっている。

二〇〇五年十月
『河童伝承と水神』 熊本地名シンポジウムin菊池