2006年・鳥取サミット記念シンポジウム
田辺達也
✺球磨川と日野川のきずな
河童共和国の田辺でございます。九州は八代・球磨川からの参加です。
まずは米子サミットの盛会を祝し、開催地・米子市の皆さんの歓迎に厚くお礼を申し上げます。サミットを準備された河童連邦の事務局、鳥取大学の道上(前)学長先生はじめ現地実行委員会のご努力に心から感謝いたします。サミット(首脳会議)ですので、私は外交慣例に従い夫人同伴で参りました。
ここ米子を河口とする山陰地方の大河、日野川流域には河童の息づかいが確かに聞こえます。私には格別でしょうか。日野川カワコ(河童)の大親分が球磨川渡来の九千坊(の子孫)という、八代とは切っても切れない関係にあるからです。米子の出版社・立花書院発行の『日野川の伝説』には一番目に載っております。
球磨川の河童がですね、日本のあちこちの川に散らばって住みついたとか、牛深(天草)ハイヤ節があちこちの港町で唄われながら定着していく、いわゆる民話・民謡の回遊から、私たちは古来ハエ(南風)といわれる季節風と対馬海流と呼ばれる黒潮の道による、人と文物の交流・交易のよすがを知って懐かしむことができます。河童のご縁で隠岐ノ島へも2度ほど講演の機会に恵まれ、同じ思いをして帰りました。九州の不知火海と山陰の日本海、八代の球磨川と米子の日野川のえにしの深さを感じとっております。
私はこのようなロマンに惹かれて、五年前のこと、米子から中国山地・日南町にある河童ゆかりの楽々福(ササフク)神社まで一日がかり、日野川沿いのあちこちのカワコ淵を訪ね、その成果を『日野川紀行』として地元の史談会誌に発表しました。往復百数十㎞、このときの民俗調査・河童游々はご当地の出版社=立花書院・楪(ゆずりは)社長さんのご援助により実現したもので更めて御礼申し上げます。このフィールドワークがきっかけになって、日野川の河童族と国交を樹立、以後、善隣友好のおつき合いがつづいております。
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ときに米子への旅は青年時代から数えて四回目になります。今回は松本清張と井上靖ゆかりの伯備線を経由、中国山脈を分水嶺とする東西二つの川を楽しみながらやって来ました。
松本清張といえば、ちょっと余談になりますが、山陰が舞台の『砂の器』と急行「出雲」が思い出されます。東京で起きた殺人事件で方言(訛り)の類似から捜査の目が東北から山陰に向かい、ここで東京発浜田大社行きの急行「出雲」が出てくるのです。先だってテレビでその「出雲」の運行が廃止され、お別れ列車に名残を惜しむファンの映像が出ておりました。
実は四十八年まえの六月、私もこの「出雲」に乗って米子に向かっております。この急行は確か東京駅22時30分発でした。米子駅に下車したのは、うろ覚えですが、翌夕の17時ごろだったと思います。そのとき私は皆生温泉の松風閣という松林の美しい旅館に泊りました。サミット本会議場のお隣りだったのですね。
お気の毒に、この旅館は最近倒産したと聞きました。急行「出雲」の旅は思い出に残るので、このダイヤの廃止はちょっと寂しい思いがいたします。四十八年前も四十八年後も水無月の六月です。実は水有月の水の月に米子訪問とは河童のとりもつご縁ですかね。
ご挨拶はこのくらいにして本題に入ります。
✺加藤清正と河童九千坊の痴話ケンカ
ときは十七世紀はじめー戦国大名・加藤清正が色恋のもつれから河童九千坊の一統に報復戦争をしかけるという、スケールの大きい痴話ケンカの一席をおはなしいたします。八代の球磨川が舞台になっております。
男と女の痴情沙汰・三角関係のもつれは、スリルとドロドロの絡み合いゆえに河童伝説にも色濃く投影しております。人間と河童の色恋では河童が大抵スケベな悪者に仕立てられております。でもスケベは実は人間の方で河童にとっては大変迷惑なはなしです。
そこでみなさん、『加藤清正の河童退治』という説話をご存知でしょうか? 江戸時代から伝承される有名な話にしては意外と知られていないようにも思いますが、どうでしょうか?
あらすじは、球磨川と不知火海を繩張りとする河童の大集団・九千坊一族の若衆が、関ケ原の戦いのあと小西行長に代わって八代を領治するようになった加藤清正の寵愛する美しい小姓に恋をして川に引き込んだことが争いの発端らしいのです。カンカンに怒った清正は全軍あげて河童掃討作戦を展開するのです。
この筋書きは、昭和三十年代、作家の火野葦平(ひの・あしへい)や随筆家の佐藤垢石(さとう・こうせき)の作品で広く知られるようになりました。この二人は河童の八代ルーツ説を展開したことでも有名です。
葦平と垢石は《清正とエロカッパの大戦争》に仕立てています。実はこれには下敷きがあります。江戸時代の中期(18世紀)の国学者谷川士清(たにがわ・ことすが)の著した「和訓栞(わくんのしおり)」という辞典や、俳人菊岡沾涼(きくおか・せんりょう)の著した「本朝俗諺志(ほんちょうぞくげんし)」という里俗伝承集に出てきます。葦平と垢石はこれに濃いめの味をつけ物語りを膨らませたのです。
ここでいう小姓とは男色・ホモセクシャルの相手役の美少年のようです。戦国武将や僧侶や公家らのホモセクシャルは当時珍しいことではありません。十六世紀半ば来日したイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、日本の上流社会の歪んだ快楽に驚いて、「あのような忌むべきことをする人間はブタより汚らわしく下劣である」と非難しております。
九千坊の若い衆ときたら、清正の小姓を多分美少女と思いこみ恋心を募らせたのでしょう。河童の恋は美しき誤解から始まったのでした。火野葦平も、清正の手前、河童を仇役にして一応エロ河童と毒づいてはみたものの、「相手が大豪傑で領主であったことがいけなかった」と大変気の毒がっています。
✺復讐戦に猿まで動員
清正は、球磨川に「弓矢、鉄砲、大砲をドカンドカン打ち込み上流から毒までを流した」ようです。それでも収まらず、「焼石を淵に投げこみ、淵から這いあがろうとする河童を猿に捕えさせるよう家来に命じた」と。
いやはや何とも凄まじい。虎退治と熊本城築城の清正公さんからはおおよそ想像できません。九千坊一族にとっては降って湧いた災難でした。
なり振り構わぬ復讐から嫉妬に狂い取り乱した姿は何とも異様ですが、河童九千坊に対する清正の並々ならぬ構えも感じます。「相手はたかが河童じゃないか。清正ほどの武将なら簡単に踏みつぶせるはず」と高をくくるなら、その人は並の軍事評論家でしかありません。
清正にしてみれば恋敵との一戦には自信がなかったと思われます。それは河童の攻撃に九州一円の猿の手まで借りているからです。清正は陸の戦いでは負け知らずですが水の戦いは苦手でした。秀吉時代、九州平定・薩摩攻めに従ったとき、鹿児島の川内川で「センデがらっぱ(川内川の河童)」の猛反撃にあい散々痛めつけられた苦い思い出があるのです。 その悪夢がふと甦ったのでしょう。誰にでも苦手はあるもので、河童だけはどうも戦いにくい相手でした。
その猿の援軍ですが、ペルシャ系の河童族と印度系の猿族は九千坊の八代渡来以前のむかしから、ヒマラヤの通行権をめぐって折りあいが悪かったようです。そのはなしを熊本日蓮宗の本山・本妙寺のボンサン(坊さん)から聞いて小躍りした清正は、早速阿蘇の山奥に住む九州猿族の大御所「ハヌマーン太夫」を熊本城に招き、助っ人ならぬ助け猿を要請したんです。ハヌマーンはインドの神話にも出てきますね。
鋭い爪と牙で武装した数十万の猿群が九州一円から球磨川河口に集結して清正軍と合流しました。この有志連合・他国籍軍が球磨川流域と不知火海域の河童族と対峙したので、八代はにわかに湾岸戦争の危機に直面しました。
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さあ、加藤清正と河童の恋のさや当て、この事件の顛末はどうなったか? その後、河童九千坊の運命は?
このような伝説が八代を舞台になぜ生まれたか?
その背景は?
これらを推理し読み解くなかで、江戸時代の人々の創造力や文芸の力、葦平や垢石の遊び心をいやというほど知ることができます。この謎解きは今話題の「ダ・ヴィンチ・コード」よりもずっと面白いのです。
この先は、私に持ち時間があれば続けてお話しますが、なければレセプションのとき酒杯を重ねながら意見を交わしたいと思います。
✺資料・清正の河童退治を記した江戸時代の文献「和訓栞」
〈解説〉和訓栞は江戸中期の国学者・谷川士清の著した辞書で、全編45巻・中編30巻・後編18巻からなる。
谷川士清(たにがわ・ことすが)は1709(宝永6)年、伊勢の国(三重県)の、代々医を業とする家系に生まれた。国史・国語学、医学、歌道、神道など和漢の学を多彩に極め、本居宣長とも親交があったといわれる。1776(安永五)年、68才没。
「夜豆志呂」153号2007,2刊