河童の夢かなうー龍ちゃんカッパ館

田辺達也

 北野さん夫妻が河童さがしの全国行脚を始めたのは1993(平5)年8月。

 その第一歩が河童共和国である。河童九千坊渡来の地に第一歩を印されたことは八代にとって大変光栄なことだった。

わたしは球磨川河口の河童渡来の碑に案内したあと、河童事情や河童族の動向について説明し歓談した。

 報道によると、河童博物館建設の夢は十二年まえ芽生えたとあるので、北野さんの八代訪問は重要な契機になったに違いない。以来、ご夫妻と家族ぐるみのおつき合いがつづいている。祝賀会資料へのメッセージ掲載や祝宴での挨拶など、わたしに対する計らいはこのようなご縁によるものと感謝している。

 新館落成の祝典に参列した豪華な顔ぶれから、北野さんのつき合いの良さ・人脈の豊かさを実感した。

 大内かっぱハウスや駒ケ根かっぱ館の公私立先輩の優れた経験を見聞のうえで、龍ちゃんカッパ館の個性を賞賛すると、

 第1、ここには河童のドラマが満開している。サッカー、お祭り神輿 管弦楽団、ソーラン節など、特別に制作された一場面数百体の河童群像は壮観で迫力がある。もちろん、単体の造形も高質多彩でフィールドワークの成果である。

 第2にハイセンスですきっとした陳列の巧みさだ。レイアウトと陳列の作業は北野さん夫妻が仲良くケンカしながらの共同作業という。プロ顔負けの巧みである。

 第3に河童のアイドル性にマッチする可愛く明るく美しい造形のオンパレード、色彩感覚のさえを実感した。保育園児や小中学生にぜひ見てもらいたい。

 欲ばりかもしれないが、郷土色の演出も大事だろう。河童の画家・中川雄太郎や初代静岡かっぱ村村長・高柳千賀子の作品、そして民俗学者・石川純一郎教授らの著書を集めて顕彰するコーナーもほしいと思う。

 今後の隆盛を期待している。                     

二〇〇五年十月

広島エンコの原爆忌

田辺達也

✺広島エンコ 

 中四国から山陰にかけて、河童はエンコと呼ばれている。漢字では猿猴と書く。古来、河童と猿は川と森の神の生きた姿として敬愛されてきた。属性は同じとみる学者もいる。 広島平野は太田川(水系)の恵みを享受して出来あがった。流路102㎞・流域面積1690㎢、熊本県の球磨川よりやや小ぶりになる。

 この川は瀬戸海に向かって南下すると、支流が扇状に分かれて沖積の豊かな三角州をいくつも産んだ。今日の広島市である。平和記念公園のある「中島」も三角州のひとつ、太田川が本川と元安川に分かれてできた。

 太田川水系は中国地方の河童天国だ。広島駅南口の前を『猿猴川』が流れている。駅前大橋と荒神橋の間に『猿猴橋』も架かっている。広島電鉄線には『猿猴橋町駅』もある。 猿猴川は流路10㎞ばかり。短いが瀬戸海に近い往来の便がある。

 この辺りに棲みついた《安芸の長者》というエンコの親分が、代々、太田川全域を仕切ってきた。

 広島は河童づくし、水の町である。

✺ひろしまの悲惨 

 お盆休みに52年前の映画『ひろしま』をみた。日教組(教職員組合)の作品だ。『きけわだつみの声』の関川秀雄が「教え子を再び戦場へ送るな!」の願いをこめてつくった。劇映画だが記録映画をみる臨場感の連鎖、6万人とも7万人とも言われる大群衆(エキストラ)の迫真力! 広島出身の月丘夢路が先生役で出演している。

 新藤兼人の作品に乙羽信子の『原爆の子』(52年作品)がある。広島の子供たちのつづり方が映画になった。新藤兼人も広島出身だ。今村昌平の『黒い雨』(89年作品)も忘れられない。

 爆心地に近い中島の平和公園には峠三吉や原民喜の詩碑もある。被爆六〇年の今年、ここで原爆死没者慰霊式と平和祈念式典が行われた。原爆ドームの横を流れる元安川には一万個の灯籠が流された。

 この辺りはかって「中島本町」と呼ばれた繁華街。一万人ばかり住んでいたという。しかし原爆投下の八月六日、町民と通行人で生きのびた者は一人しかいなかった。本川小学校(児童400人、教師10人)では生存者は二人しかいなかったという。

 中島の悲惨がとくに伝えられるゆえんである。

 新藤兼人は『ヒロシマ』を構想したとき、ここ「中島本町」をオープンセットにする趣向だったらしい。シナリオ原稿には「広島の西の賑やかな街。中学生の一隊が行く。足下は脚半(きゃはん)腰には弁当をぶら下げている」情景が描かれている。広島は軍都ゆえに狙われたが文都でもあった。

 広島原爆のすさまじさを一口にいうのは難しい。上空600mで爆発したとき数百万度の火の玉が発生、爆心地の地表温度は4千度に達し、半径3㎞以内では9割以上の建物が壊滅した。この熱線と放射能を浴びて35万人が被爆、年の暮れまで15万人亡くなった。原爆症の死者は計24万6千6百人。現在、被爆者手帳の保持者は26万6千6百人、平均年齢73・1才。

✺エンコの救援活動 

 太田川水系の河童は市街地の地獄を感知し、安芸の長者の檄で救援に立ち上がった。

 焼けただれた被爆者が水を求め、我れ先にと川に飛び込んできたからだ。

 作曲家の林光は原民喜の詩をもとに全四章の合唱曲『原爆小景』を書いた。「水を下さい」(第一章)から始めている。

 爆心地にちかい本川と元安川は、またたく間に人渦が巻き人恋う断末魔のうめきに覆われ、川の色も一変した。満潮と重なったので何千人もが深みへ押され溺れ死んだ。

 エンコの救援隊は手練の業を発揮した。太田川水系と広島湾内から五百の小舟を瞬時に揃え、五百の筏を素早く組み、簔を五千ばかりかき集めた。葦や茅の葉、藻草を集めて舟底や川べりに敷き、ひとりづつ川からていねいに引き上げ横に寝かせて介抱した。

 炎熱のさなか、にわかに、黒い雨が激しく降り出した。人も川面も赫黒く染まった。

 簑をやさしく被せてやり黒い雨をしのいだ。

 エンコが被爆せず自在に動けたのは水中深くいたので熱線の直射を免れたからだ。ウラン235(放射能)に対する免疫説もある。

 周りが下火になり熱気も少しずつ和らいできた。一刻も早く郊外に避難する必要がある。                              しかし汽車も電車も不通、陸路は死体とがれきが累々としている。

 水路が早く安全だ。小舟と筏が生きた。数珠つなぎ、二手に分かれた。一群は太田川を北上、東回りの支流(京橋川から猿猴川)へ下り、農村域へ移送した。別の一群は南下、広島湾の漁村域に受け入れてもらった。

 広島エンコの頑張りを知る人は少ないが、原爆忌にふさわしいエピソードである。

『猿猴橋』のたもとに河童地蔵がある。

 胡瓜のお供えものが絶えない。

初出・熊本の地名60号 2005

淡水河から球磨川へー河童渡来の新伝説

2004・河童の国際会議(台北)での講話

田辺達也

■台北かっぱ呉景聡さんのこと

 河童共和国の田辺でございます。河童共和国の官房長官、河童連邦共和国では副大統領のひとりとして河童文化発展・水環境擁護に微力を尽くしております。

 先ほどお話のあった台北かっぱ村開村のエピソードのなかに、初代村長・呉景聡先生のことが回想されました。

 呉さんは八代にも2回お出いただいております。最初は七年まえ、かっぱ大学公開講座出席のため。河童共和国は河童芸術大賞を贈っております。もう一度はその翌年です。天草島の栖本町で第6回九州河童サミットが開かれたとき、私の自宅に宿泊され翌日ご一緒して天草へ行っております。栖本サミットでは世界一長いカッパ巻き(胡瓜の海苔巻き)に加わっていただきました。カッパ(巻き)一本で212mの長さはギネスに載って未だに破られておりません。そんなおつき合いからも大変懐かしく、ご冥福をお祈りいたします。

■河童共和国と八代

 初めてお会いする方もたくさんいらっしゃるので、河童共和国と八代を簡単に紹介いたします。

 河童共和国は、西九州の八代市内に首都をおく人口50人ばかりの、遊び心旺盛な、パロディ共和国でございます。一九八八年二月建国、その年八月、日本で最初の河童サミットを八代で主催しました。このとき採択されたサミット宣言にもとづき、翌89年第2回びわ湖サミットでかっぱ愛好家の全国組織『河童連邦共和国』が建国されました。

 私たちは一九九五年、九州河童サミット(第3回)を主催。八代初演の河童のオペラはイタリアへ渡り対話つきで公演されました。出版活動が盛ん。情報発信基地の役割も果たしております。

 八代市は人口十一万人、日本では中規模の都市になります。九州3大河川のひとつ、流路115㎞の球磨川が河口に至り、九州西域の不知火海と出会う水環境に恵まれたところ。古代から人の暮らしが始まっております。中国・インド・朝鮮の先進文化も海の道からいち早く伝わり、中世には東南アジアのベンガルやシャムはいうに及ばず西欧のローマやリスボンにまで知られた国際都市としての名声が記録されております。

 八代には、古代、河童・呉の国渡来伝説や中世、クリスチャン河童渡来説など、たくさんの説話が語り伝えられております。呉や越は江南地方の水にゆかりの人々の国のことで、八代の河童伝説は活発な海外交流を偲ぶよすがとなるものです。

 台湾とのおつき合いも、このあと林先生の説話を紹介する形で、河童に思いを託した淡水河と球磨川の水魚の交わりをお話ししたいと思います。

 八代には、不知火海の澪すじと球磨川河口の接点に⟨徳渕の津⟩という古い船泊り、ここに『河童渡来の碑』という石文があります。《オレオレデライタ》という謎めいた物語りが刻まれて、エジプトのロゼッタ石に劣らぬ不思議な碑(いしぶみ)とされております。

 私はここ球磨川の河口で少年時代から河童(ガラッパ)と泳ぎを競い、青年時代になっては水環境を考え水文化をまもる運動に微力を尽くして参りました。

■台北サミットを祝す

 ご挨拶が後先になりました。本年六月、八代で『かっぱ大学公開講座及び河童芸術大賞表彰式』を開催しました。このとき台湾から大型代表団が来日され、公開講座の成功に寄与していただきました。有難く厚くお礼申し上げます。

 そして今回こちらのサミットに招かれ、そのうえカッパ談義の機会まで与えていただき大変光栄に思います。河童がメインテーマのユニークな国際会議が台北で開催されることを、日本の河童族はこぞって歓迎し、盛会を心から喜んでおります。本会議の準備と受入れにご努力いただいた、林錦松先生はじめ台北かっぱ村のみなさん、そして台北市の行政・官民各界のご協力とご支援に深甚の敬意を表します。

 このような平和的で楽しく笑いのこぼれる催しができるのも、自由と民主主義、人権と生活向上の理念のもとでお国づくりに励まれる皆様のご努力のたまものと信じます。今後ますますのご繁栄を心から祈念するものです。

 私たちは、水文化交流の民間大使として国際親善の実をあげ、併せて、訪台の機会に貴国の歴史とフォークロアの有りようを学び、観光も楽しみにしています。私自身、台湾訪問は初めてのこと、妻を同伴し、わくわくしながら参りました。昨日は早速、国立故宮博物院を見学させていただきました。明日は幾変遷の歴史を語る淡水市を訪問する予定です。

 本会議をご縁に双方の交流が益々盛んになることを希望いたします。

■河童渡来の新伝説

 ときに台北かっぱ村の林先生は、昨年、京都で開催された第3回世界水フォーラムの水の宴・河童分科会で日台交流の新伝説を発表されました。球磨川の河童は淡水河のカワペが渡来して棲みついた、淡水河のカワペは三蔵法師にお供した河童沙悟浄の子孫だというものです。

 この説話に日本の河童族はうーんと唸りました。中でも新鮮な驚きをもって一番喜んだのは八代の代表団でした。海に開けた八代の地が、台湾との関係でもいの一番に指名されたからです。

 第2次世界大戦が終わって間もなくのことです。世界中の青年と芸術家が力を合わせ、記録映画『世界の河はひとつの歌をうたう』をつくり、世界の主な川と流域の暮らしを紹介しました。川と川とのつき合いに壁はありません。川の流れは海を介して自由に行き来し、地球の良好な生態系を維持しております。映画のタイトルは、国や民族間の紛争を武力で解決しない誓いの象徴として、世界平和と友好の合言葉になりました。

 私は林先生の卓論を拝聴しながら、なるほど、球磨川と淡水河は東シナ海を介して最も近いところで水魚の交わりを結んできたと合点したのでした。私たちにとっては、国の違い、肌色の違い、言葉の違いは障害になりません。八代人のつき合いの良さが民話の世界にも新しく加わる喜びをじっくり噛みしめたのでした。

■淡水カワペ球磨川渡来のロマン

 私の河童談義は林先生の河童渡来のロマンを日本流・八代流に意訳して解明することになります。

 佛教典を求めてインドへ旅した玄奘三蔵にお供した沙悟浄が、揚子江からミン川へ下り、福建省の谷間を下って河口の福州(フーチョウ)に至り、ここでカワペと呼ばれるようになった。カワペ(河伯)とは河の主(あるじ)のことで、水の神様のことを指しております。

 それから七~八百年ばかり経ち、カワペは海の女神・媽祖神の助けを借りて台湾海峡を渡り、台北の淡水河に至り、平埔(ペーポ)の美女と交わり子孫をふやした。その後、媽祖神に甲羅を用意してもらい、淡水河を出発、黒潮にのって北上、西九州の不知火海(しらぬひ)の球磨川河口(八代)にたどりついた。こうして台湾のカワペは、八代でカッパ・ガラッパに訛り、この一族は九千坊(クセンボウ又はキュウセンボウ)を名乗り球磨川の主(河伯)になって今日に至ったというものです。

 林先生のロマンには、隠し味と言いましょうか、ほのかなエロスが漂っています。河伯(カッペ)八代渡来の目的は、どうやら花嫁探しだったようです。

 八代の方言では気立ての優しい、しかも男心をそそる魅惑的な娘さんのことをオッペシャンと言います。林先生の説話から、オッペシャンの肢体にもたれて幸せそうな台湾のカワペが浮上いたします。

 波を枕に夢うつつ、捜し求めた理想の女性に、球磨川河口でついに遭遇したのです。八代には球磨川のおいしい水、美肌泉質の日奈久温泉があります。八代はこの霊水と銘泉で磨かれた美人(オッペシャン)の里でございます。

 台北(淡水河)から八代(球磨川)までの距離は、直線で約1200㎞。時速5ノットの黒潮に乗って東シナ海を北上すると五~六日で九州の内海・不知火海に入ることができます。時速20㎞の南風(はえ=季節風)の助けを借りると、三~四日で球磨川河口に到着いたします。パスポートの要らなかった時代のおつき合いは、お互い、波任せ風任せ,星が頼りの自由な行き来だった。海の道による人・文物の交友・交易は、日本ではいち早く九州から、とりわけ八代から始まったと思われます。

 林先生の河童渡来説は、まさしく、河童に事よせた日台交流のロマンです。

 淡水河と球磨川の往き来は昔から確かに「あったること」として、八代市民の心に新たに刻まれることでしょう。共同の知恵と努力で、史(ヒストリー)と詩(ポエム)のふくらむ楽しい物語りに育てたいと念じております。

 八代からの河童談義を終わります。ご清聴ありがとうございました。

二〇〇四年十一月  

片葉と河童

田辺達也

 indecision芥川龍之介にならい、片葉と河童は、どっちも「カッパ Kappa」と発音してください。

     *

 NHKテレビの金曜時代劇『茂七の事件簿3』がはじまり、第1回は《片葉の芦》が放映された。原作は宮部みゆきの『本所深川ふしぎ草紙』(新潮文庫版)から。彼女はこの作品で吉川英治新人文学賞(1992年)を受賞した。

 江戸は本所駒止橋の上で寿司屋の大旦那が殺されたことから始まる。

 江戸後期(1863年)の「本所繪圖」(現在の住宅地図)には、両国橋の近くに駒留橋が載っている。両国橋は九十六間(173m)、対し、駒留橋は三間(6m)ばかりの小さな橋だったと思われる。

 ここの岡っ引の親分が回向院(えこういん)の茂七、江東の本所深川一帯を仕切っている。高橋英樹演じる茂七親分は貫禄十分のはまり役だが、ここでは芦の草、それも奇妙な片葉の芦が主役である。

 片葉は河童に通じてミステリアス。推理作家らしい表題の付けかただ。

 このシリーズは、捕物とはいえ、むごたらしい場面が少ない。思いやりやいつくしみの心をていねいに描きながら、真実究明に力が注がれる。《片葉の芦》でも、下町の日常を温かく、細やかに、健気に生きる若い男女の行く末を穏やかに見守っている。

     *

 それはそうと、深川の片葉の芦だがー

 原作から、片葉の芦は「両国橋の北にある小さな堀留に生え」ており、「この堀留まで片葉堀と呼ばれている。風向きのせいなのか、流れのためなのか、それとも日ざしの向きのためなのか。ともかく、ここに生えている芦はみな片葉である。片葉の芦は本所七不思議の一つである。両国橋の北にある小さな堀留に生える芦の葉がどういうわけか片側にしかつかないことから、そう呼ばれるようになった。」

 本所深川は隅田川と荒川にはさまれている。堀割と中小の川筋がくもの巣のように走り川べりは葦の叢(くさむら)だったにちがいない。

 葦(あし又はよし)は、笹の葉形をしたイネ科の草、水辺に自生している。歌手の三浦洸一も、場所はちがうが、《流れの船唄》で「葦の葉かげによしきり鳴いて」と唄っている。

 この背高草の芦原は八代の湿地にも広がっていた。小さいころから見慣れた風景で、両葉か片葉かを確かめるもの好きはいなかった。田舎では、茎を切って乾かし、簾(すだれ)に編んで、日よけに使っていた。

 茂七親分の《片葉の芦》には河童は出てこない。しかし「カッパあし」そのものが七不思議のひとつだけに、すでに河童の気配は濃厚だ。

 文庫版第3話の《置いてけ堀》には早速河童が出没し、若い女をびくつかせたり励ましたりしている。魚を釣って帰ろうとすると芦原の茂みから「魚を置いていけ」という声が聞こえる。河童ではないか? の噂が広がった。

 こうして、「河童?」の気配と「置いてけ」がつながって、その堀割は、いつの間にか《置いてけ堀》と言われるようになったという。

《錦糸堀》がもとの名と聞いている。

     *

 ときに、徳川家康の江戸開府から四百年、河童ゆかりの名所と水物語は、《置いてけ堀》のほか《河童橋》《かっぱ寺》などたくさん残っている。東京都民の日のシンボルも、ついこの間まで河童だったのに、余り知られていない。河童を都民のシンボルに決めた都議会の河童論争が、大家の隠居と熊さん八さんのかけ合いみたいで、これまたおもしろい。

 都民の日のバッジの絵柄は、お酒「黄桜」のCMでおなじみ、「お色気カッパ」の小島功が描いている。

 残念ながら、東京でも、小さな堀割はほとんど埋め立てられ、今は片葉堀(錦糸堀)も残っていない。しかし河童族は元気だ。「おいてけ堀かっぱ村」のほか、浅草、江戸川、隅田川、日本橋、銀座、石神井など十いくつ、相変わらずのにぎやかさとパワーを競っている。さすが、水と河童とお祭りの都である。

     *

 東京の「おいてけ堀」から、色麻の「川童さんと片葉の芦」に飛躍する。

 町名が変わっている。十中八九人が、色麻を何と言って良いか首をひねるか、つい「しきまま」と呼んでしまう。「しきま」は「色魔」に通じるので、地元にとっては迷惑なはなし。

「しかま」と呼んでください!

 宮城県色麻町は、「磯良神社(おかっぱさま)と川童(かっぱ)さんと片葉芦、河童のゆるキャラ・活平くん」で町おこしをすすめる、東北の雄である。鈴木省司町長は、かって一九九一(平3)年、第3回全国カッパ・ドン会議出席のため八代に来訪されている。 ぼくが色麻町を訪問したのは、その二年前、一九八九年三月だった。「おかっぱさま」の磯良神社を訪ね、神官・川童嵩(かっぱ・たかし)さんから河童の言い伝えを聞き、木彫りのご神体も拝顔した。

 磯良の神のいわれ・河童の言い伝えは、平安時代初期のころ、天皇方の武将・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)のころ始まったようである。

 この一帯は、むかし、沢沼池だったと思われる。この辺りで、河童(先住民アイヌの民衆)と田村麻呂(京都朝廷軍)の決戦が展開される筋書きで、田村麻呂に従い河童をしのぐ達者な泳ぎで軍功をたてた栄誉に「川童」姓が与えられたという。

 片葉の葦の由来を記す標柱の立つ境内に案内された。

 片葉芦のくさむらは、アイヌの怨念を秘めてか、寒風にさらされ斜めに耐えていた。

 同行した役場の職員さんは、「磯良神社の宮司さんの姓は川童(かっぱ)です。日本広しと言えど川童姓は一人しかいません。そして片葉芦は色麻にしか生えない河童芦です」と胸を張った。ふるさと自慢・マチ興しの上手なPRである。

「河童」と「片葉」は同音のカッパ、遊び半分のごろ合わせにもみえる。

 ぼくは「川童」姓をペンネームと思い、磯良神社の川童さんにお会いした。

「私は川童(かっぱ)です」といきなり言われても、大抵の人は眉につばをつけるはず。 向こうはそう来ると承知の上か、住民票の写しを準備していた。住民票から正真正銘のカッパさんが証明された。用意のよさにも驚いたが、確かに稀有の姓だったのだ。

 そういう訳で、そのときは「片葉芦」も色麻固有の河童種と思いこんでしまった。

 宮部みゆきの作品で色麻神話は崩れたかにみえる。

 しかし、色麻町には片葉の芦が今も確かにある。しかも町ではこれを大切にしている。
 このことが大事なんだ。色麻が河童の本家を吹聴するだけのことはある。

二〇〇三年七月