共和国の歴史と活動

河童共和国の歴史と活動

田辺達也

信友社賞贈呈式での10分間スピーチ

 球磨川のガラッパ、田辺でございます。スピーチの機会を与えていただき光栄です。

 信友社のみなさんに感謝し敬意を表します。先輩友人にも御礼申し上げます。

 河童をモチーフに研究し交流する人、或いは河童の民芸品蒐集家は、『河童の和と輪・あなたが主役』『水は命・河童は心』というスローガンを大切にしています。「信をその友に置く」という信友社命名の由来に通じ合うものがあります。

「水が生命のみなもと」という真理、「人と自然のありようを見つめ直す」時代の要請からも、この四半世紀、河童共和国のめざした方向と取り組みは間違っていなかったと思います。

 私たちは小さな水掻きしか持たないので、スピードはありません。でも、楽しみながら社会の役に立つ仕事をたゆみなくつづけ全国の仲間と水魚の交わりを結んできました。

 今回の顕彰を私たちに寄せられたご好意と更なる期待の発露として有難くお受けいたします。

✺河童共和国

 河童共和国の歴史と活動について少しおはなしさせていただきます。

 八代のガラッパは、22年前の1987年7月準備会を立ち上げ、翌88年2月建国しました。河童共和国のような組織は、ひとくくりに、ミニ独立国とかマチ興し団体と呼ばれております。実数は不明ですが、行政や地域振興団体の把握する数字から、全国には目的別に13分類・3千前後、川と水に関係するグループだけでも2千ばかり登録されているようです。熊本県内は300ばかりです。でも、ほとんどが近年誕生の若い組織ですから、昭和生まれの河童共和国は長老格と言ってよいかとおもいます。

 僅か数十人の民間組織の運営は大変難しく、低迷や沈滞、浮き沈みの激しい世界です。

 一口に全国で3千といっても、その実、開店休業状態で名ばかりとか、自立できずに行政への依存も多いとかと思われます。その中で私たちは自主性をしっかり保ちながら、河童の名に恥じない息の長い歩みをつづけてきたことは一応評価できるかと思います。

 そのよりどころは河童共和国の憲法と建国宣言にあります。日本のシェークスピアといわれる言葉の魔術師、劇作家の井上ひさしさんが「この国には思想があり、憲法に感動した。しゃれと本音のバランスがとれ、まじめに遊んでいる姿勢もしっくりきた」とぞっこん惚れこみ入会したことは熊本日日新聞が写真入りで報道のとおりです。珍しいコピーを回覧いたします。

✺河童の目線で環境擁護

 私たちの任務には水環境の擁護があります。河童の目線・生活者の視点から、環境問題への接近を積極的に試み、運動の裾野を広げてきました。やさしい切り口というかソフトランディングと言いましょうか、河童族ならではの得意技です。学校文化祭への協力、民話の特別授業、講演・講話、環境・民俗分野のシンポジウム、テレビ出演などに引っ張りだこ。内外の活動が豊かに記録されています。

 地元では国立かっぱ大学を開校しました。公開講座13回、二千人を越える聴講生にユニークな学位証「自称・河童学博士」を授与、《河童文芸大賞》を設け河童文化の振興につとめ、受賞者は150名になりました。さらに河童通信社を立ち上げ、情報発信基地の一翼を担いました。

✺マチ興し

 次に伝承民話によるマチ興しがあります。私たちの構築した河童渡来伝説は八代の存在感をすぐれて内外に高めたとおもいます。

 球磨川の支流・前川に河童渡来の碑があります。この碑(いしぶみ)は地元の古老たちが55年まえに建立したもので、今では民俗学の名跡として全国に知られていますが、長い間、市民の関心は薄く、いわばおマジナイかおはやし程度の浅い理解、いわば「屁のカッパ」扱いでした。

 私たちはこの石文に刻まれた「オレオレデライタ」の8文字に何となく惹かれました。古代エジプト解明の手がかりになったロゼッタ石の物語りに重ねながら、この8文字に八代の古代史・河童誕生の背景や属性を解く鍵があると、独自の解明を試みたのでした。

 でき上がった物語りは、九千坊という河童の大集団が古代中国・呉の国から八代へ渡来した。その子孫が全国の川に散らばってやがて日本は河童天国になった。いわゆる、黒潮の道による人と文物渡来の擬人説話、文化交流のロマン。これが八代を河童のルーツとする由縁です。八代の説話は、2003年、京都での第3回世界水フォーラム、07年、タイペイ(台北)における河童主題の国際会議などを経て外国にも浸透しました。

 今年の夏、台湾の首都・タイペイを流れる淡水河のほとりにジャンボな河童石像が建立され盛大な除幕式がおこなわれました。淡水河は球磨川の1・5倍、白川の2・5倍の大河です。

 あちらでは河童は河伯(カワペ)といいます。碑文には「淡水河のカワペは八代・球磨川に上がった」と刻まれて、台湾カワペ(淡水河)と八代がらっぱ(球磨川)との歴史的関係・えにしの深さが強調されております。

✺河童サミット

 河童サミットのおはなしで締めくくります。

 八代を一躍有名にした日本最初の河童サミットがあります。八代ガラッパの先見性と勇断によるものです。八代サミットの成功を契機に河童族の全国的結集が実現、このサミットは今ではすっかり夏の風物詩に定着、毎年6月、全国のあちこちに引き継がれて22回、今年は「みちのく岩手」の北上川で開催されました。

 西日本域の交流も活発です。九州かっぱサミットは1993年、火野葦平ゆかりの遠賀川・若松から始まり、球磨川の八代は1995年、第3回を主催しました。このときオペラ「かっぱの河太郎」をプロデュース。この傑作は、八代のあと熊本・東京、そしてオペラの本場イタリーで相次ぎ上演されました。九州は今年で15回、ついこの間、日本一の清流・川辺川の相良村で開催され、来年は河童と恐竜が同居する緑川水系の御船町の予定です。このように河童主題の広域的交流は八代の仕掛けで始まり年々進化しております。

 カッパ文化史上、八代の創意と役割は決定的だったのです。

 私たちはこれまで河童ゆかりの河川と湖を百カ所を優に超えて散策、各地の河童愛好者と熱烈に交流し確かな人脈を築いてきました。地域づくりは仲間づくりといいます。二十数年に培った内外のきずなは強力、熊本県にとって最大の財産ではないかとおもいます。

 はなしは尽きませんが残念ながら時間がきたようであります。あらためて本席の皆様に深謝し私のスピーチを終わります。ご清聴ありがとうございました。

二〇〇九年

序・絶妙なペアワークの果実―『日本列島 河童発見伝』序文

田辺達也

 清ちゃん河童こと民俗写真家でコラムニストの清野文男さんと、お鈴カッパこと翻訳家でフリーライター岩永鈴代さんの名コンビに出会ったのは何処だったか?
 清野さんが村長さんの、千葉かっぱ村の広報を手にしたのは何号からだったか?
 『河童の系譜』(清野・安藤共著、五月書房93)を読んだのは何時だったのか?

 もうずいぶん前のことになるとだけ。すぐにははっきり思い出せないが、全国あちこちの川と河童の里での思い掛けない再会が幾度も重なり、京都の世界水フォーラムとか台北での河童の国際会議とか菊池の水神シンポなどに共同するうち、いつの間にか仲良しになってしまった。八代への来訪は三年前の五月、九州取材の帰途、球磨川河畔の河童渡来の碑あたりを散策されている。河童がとり持つ不思議なご縁の水魚の交わりである。

 千葉かっぱ村に魔力と冴えを感知したのは広報『かっぱ』からだった。広域多彩な情報の収集ときめ細かな報道、紙面から察する人脈の豊かさ、新刊書評、見て楽しむ写真中心の編集と簡潔な記事の絶妙なハーモニー、12㌻のボリュームに少しの手抜きもない。紙背に遊び上手と知力がうかがえた。

 アマチュアとはいえ私のカメラ歴も50年になり、紙誌の編集や出版にも長年携わってきた。八代では河童共和国の公報『九千坊』を20年間発行、河童の単行本も何冊か出している。その経験から千葉の広報に強烈なパワーを、優雅で品の高さに磨きがかかっており、編集にも工夫のあとが鮮やかである。号数を重ねてもマンネリにならず衰えがない。と、私は兜を脱いで、河童の新聞では「千葉かっぱ村が日本一」と折り紙をつけたほどである。

 その中心にいたのが清野文男さんだったのだ。写真家だけのことはあり、ビジュアル効果を狙った楽しい読みものになっていた。解説文を書いた人は黒子に徹して初めは見えなかったが、つき合いが深まるとやがて見えてきた。お鈴さんこと岩永さんである。

 民俗研究者としての清野文男さんの資質は、村松貞次郎東大名誉教授が、『日本の職人ことば事典』(工業調査会96)序文で絶賛されたように、伝統技術に生きる職人の「知恵と心の機微を表現する、ことばの世界を検証」するフィールドワークのなかで育まれ研ぎ澄まされたと思われる。日本を支えてきた「ものづくりの心」「匠の復権」を訴える目と構えには河童と重なる必然があった。

 河童との遭遇も三十一年前というから我われとは年季がちがう。中河与一さんとの運命的な出会いもある。中河さんは《天の夕顔》で一世を風靡した作家、日本かっぱ村役場の創立者・初代村長である。

 ここで清野さんに北海道の原風景(コタンのミントチカムイ)が熱く甦り、民俗の領域が一気に広がって爆発する。同好の士と千葉市に「かっぱ村」を立ち上げたのは一九八九年である。

 本書『日本列島河童発見伝』は清野さんの面目が躍如する河童探訪の集大成である。この五~六年の間にほぼ全国あまねく足を運んで撮影した中の選りすぐりの映像が収録されており、その数は六三〇枚余にのぼる。

 清野さんの目は報道写真家と民俗研究者の複眼である。

対象物の瞬時を逃さない鋭敏さから、水文化の守り手の素朴な暮らしが浮上し、穏やかな息づかいまでが伝わってきて、読者は居ながら日本中の河童が鳥瞰できる。本書から山村の渓流に干拓地の堀割に、河童の気配を確かに感知して思わず歓喜し震えるだろう。 

お鈴かっぱの優しい眼差しと翻訳家の洗練された解説文が写真を更に盛り上げている。

 河童の嬌声が聞こえて、息の合ったペアワークの果実がここに実った。

 先に大阪堺の和田寛さんが『河童伝承大事典』(岩田書店刊)の編纂で注目されたが、清ちゃん・お鈴かっぱ共著の本書はビジュアル版として誰にでも楽しめる好書である。

 河童族の相次ぐ金字塔に心から敬意を表し、本書が多くの人に愛読されることを切に期待する。

二〇〇七年八月

〈ディベート〉河童のルーツについて 国産説か?渡来説か?

第20回河童サミット・東京 審判員としてのコメント

田辺達也

 「赤勝て白勝て」の源平合戦方式で河童のルーツを探るシンポジウムは、おらが街の河童自慢も兼ねた興味深々の討論になると期待して出席しました。

 河童のルーツ論争は、国産説(化生説)にせよ渡来説にせよ、知恵と雄弁、遊び心、愛郷心の発露が決め手の上品なかけ合いですから、どちらがどんな上手で相手に「参った」と言わせるかを楽しみに審判席に座りました。期待に違わず熱のこもった展開に会場は大いに盛り上がったのですが、議事日程の都合で早めに打ち切られたので結論に至らず、私もジャッジのひとりに指名されて張り切っていただけに、ちょっと残念に思いました。

 以下、その日の論戦を整理してみました。

 

 私なら2つの切り口から考えます。

 ひとつは、民間伝承に優位性や絶対性があるのかどうかという総合的な視点から。もうひとつは、選抜チームのパフォーマンス。なる程とうならせる筋の構築と雄弁で自説の優位性を主張できるかどうかです。

 

  民間伝承を素材にした水の化身・河童の物語りは、呼び名(名嚢)にせよ話の筋にせよ、元々方言で成り立っているので微妙に千差万別で、和田寛先生の『かっぱ事典』からも無限に近く語られております

河童の説話にはその地の風土・民俗、住民の気分がたっぷり凝縮されておりーたとえ、民話の回遊によって元々の筋が影響を受けたり、「水は命」の普遍性から似たような噺(はなし)が生まれる傾向があるにせよー本来、土着的・個性的なもので、地方文化を端的に体現しております。

 日本語で語り継がれる河童は、アニミズムの流れのアニマ説、化生説・渡来説いずれにせよ地域により微妙に違います。灌漑土木工事や寺社仏閣造営の犠牲になる、化生(けしょう)説話のなかの河童と、鳥取大学の道上先生のように自然科学の目で見た化生(かせい)説の渦巻き河童とは、同じ漢字の化けて生まれるでも意味合いも姿形も違います。ところ変われば品変わる。童話作家の松谷みよ子さんによると、沖縄ではアメリカの軍事基地に反対するケンモン河童も現れています。

 河童のルーツについて、海に開けた八代では『河童渡来伝説』を大事にしてこの物語を通史的に考証、全国に発信しております。だからと言って渡来説に優位性や絶対性をとってはおりません。それぞれの町や村に伝わる物語りにとって代わることができないからです。河童のルーツ説は説話の数だけあっても良い、その良さを承知の上で競い合うという懐の深さが八代の立場・河童共和国の立場であります。

 

  選抜チームの当日のパフォーマンスですが、さすが選りすぐりのチームだけに、期待にたがわず熱のこもったいい展開で、私の力量では、優劣がつけ難いと判断いたしました。

 一般論として、今は定番めいたストーリーやイベントが氾濫しているだけに、それぞれの地で感性を研ぎ澄まし、創意を発揮し持続する努力が求められます。

 それを生み出す力の源泉は、結局、水は命の河童大好きの心へ返っていくような気がいたします。

初出・かっぱ新聞第168号
二〇〇七年六月

美童をめぐる 清正VS河童 球磨川夏の陣

 2006年・鳥取サミット記念シンポジウム

田辺達也

✺球磨川と日野川のきずな

 河童共和国の田辺でございます。九州は八代・球磨川からの参加です。

 まずは米子サミットの盛会を祝し、開催地・米子市の皆さんの歓迎に厚くお礼を申し上げます。サミットを準備された河童連邦の事務局、鳥取大学の道上(前)学長先生はじめ現地実行委員会のご努力に心から感謝いたします。サミット(首脳会議)ですので、私は外交慣例に従い夫人同伴で参りました。

 ここ米子を河口とする山陰地方の大河、日野川流域には河童の息づかいが確かに聞こえます。私には格別でしょうか。日野川カワコ(河童)の大親分が球磨川渡来の九千坊(の子孫)という、八代とは切っても切れない関係にあるからです。米子の出版社・立花書院発行の『日野川の伝説』には一番目に載っております。

 球磨川の河童がですね、日本のあちこちの川に散らばって住みついたとか、牛深(天草)ハイヤ節があちこちの港町で唄われながら定着していく、いわゆる民話・民謡の回遊から、私たちは古来ハエ(南風)といわれる季節風と対馬海流と呼ばれる黒潮の道による、人と文物の交流・交易のよすがを知って懐かしむことができます。河童のご縁で隠岐ノ島へも2度ほど講演の機会に恵まれ、同じ思いをして帰りました。九州の不知火海と山陰の日本海、八代の球磨川と米子の日野川のえにしの深さを感じとっております。

 私はこのようなロマンに惹かれて、五年前のこと、米子から中国山地・日南町にある河童ゆかりの楽々福(ササフク)神社まで一日がかり、日野川沿いのあちこちのカワコ淵を訪ね、その成果を『日野川紀行』として地元の史談会誌に発表しました。往復百数十㎞、このときの民俗調査・河童游々はご当地の出版社=立花書院・楪(ゆずりは)社長さんのご援助により実現したもので更めて御礼申し上げます。このフィールドワークがきっかけになって、日野川の河童族と国交を樹立、以後、善隣友好のおつき合いがつづいております。

     *

 ときに米子への旅は青年時代から数えて四回目になります。今回は松本清張と井上靖ゆかりの伯備線を経由、中国山脈を分水嶺とする東西二つの川を楽しみながらやって来ました。

 松本清張といえば、ちょっと余談になりますが、山陰が舞台の『砂の器』と急行「出雲」が思い出されます。東京で起きた殺人事件で方言(訛り)の類似から捜査の目が東北から山陰に向かい、ここで東京発浜田大社行きの急行「出雲」が出てくるのです。先だってテレビでその「出雲」の運行が廃止され、お別れ列車に名残を惜しむファンの映像が出ておりました。

 実は四十八年まえの六月、私もこの「出雲」に乗って米子に向かっております。この急行は確か東京駅22時30分発でした。米子駅に下車したのは、うろ覚えですが、翌夕の17時ごろだったと思います。そのとき私は皆生温泉の松風閣という松林の美しい旅館に泊りました。サミット本会議場のお隣りだったのですね。

お気の毒に、この旅館は最近倒産したと聞きました。急行「出雲」の旅は思い出に残るので、このダイヤの廃止はちょっと寂しい思いがいたします。四十八年前も四十八年後も水無月の六月です。実は水有月の水の月に米子訪問とは河童のとりもつご縁ですかね。

 ご挨拶はこのくらいにして本題に入ります。

✺加藤清正と河童九千坊の痴話ケンカ

 ときは十七世紀はじめー戦国大名・加藤清正が色恋のもつれから河童九千坊の一統に報復戦争をしかけるという、スケールの大きい痴話ケンカの一席をおはなしいたします。八代の球磨川が舞台になっております。

 男と女の痴情沙汰・三角関係のもつれは、スリルとドロドロの絡み合いゆえに河童伝説にも色濃く投影しております。人間と河童の色恋では河童が大抵スケベな悪者に仕立てられております。でもスケベは実は人間の方で河童にとっては大変迷惑なはなしです。

 そこでみなさん、『加藤清正の河童退治』という説話をご存知でしょうか? 江戸時代から伝承される有名な話にしては意外と知られていないようにも思いますが、どうでしょうか?

 あらすじは、球磨川と不知火海を繩張りとする河童の大集団・九千坊一族の若衆が、関ケ原の戦いのあと小西行長に代わって八代を領治するようになった加藤清正の寵愛する美しい小姓に恋をして川に引き込んだことが争いの発端らしいのです。カンカンに怒った清正は全軍あげて河童掃討作戦を展開するのです。

 この筋書きは、昭和三十年代、作家の火野葦平(ひの・あしへい)や随筆家の佐藤垢石(さとう・こうせき)の作品で広く知られるようになりました。この二人は河童の八代ルーツ説を展開したことでも有名です。

 葦平と垢石は《清正とエロカッパの大戦争》に仕立てています。実はこれには下敷きがあります。江戸時代の中期(18世紀)の国学者谷川士清(たにがわ・ことすが)の著した「和訓栞(わくんのしおり)」という辞典や、俳人菊岡沾涼(きくおか・せんりょう)の著した「本朝俗諺志(ほんちょうぞくげんし)」という里俗伝承集に出てきます。葦平と垢石はこれに濃いめの味をつけ物語りを膨らませたのです。

 ここでいう小姓とは男色・ホモセクシャルの相手役の美少年のようです。戦国武将や僧侶や公家らのホモセクシャルは当時珍しいことではありません。十六世紀半ば来日したイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、日本の上流社会の歪んだ快楽に驚いて、「あのような忌むべきことをする人間はブタより汚らわしく下劣である」と非難しております。

 九千坊の若い衆ときたら、清正の小姓を多分美少女と思いこみ恋心を募らせたのでしょう。河童の恋は美しき誤解から始まったのでした。火野葦平も、清正の手前、河童を仇役にして一応エロ河童と毒づいてはみたものの、「相手が大豪傑で領主であったことがいけなかった」と大変気の毒がっています。

✺復讐戦に猿まで動員

 清正は、球磨川に「弓矢、鉄砲、大砲をドカンドカン打ち込み上流から毒までを流した」ようです。それでも収まらず、「焼石を淵に投げこみ、淵から這いあがろうとする河童を猿に捕えさせるよう家来に命じた」と。

いやはや何とも凄まじい。虎退治と熊本城築城の清正公さんからはおおよそ想像できません。九千坊一族にとっては降って湧いた災難でした。

 なり振り構わぬ復讐から嫉妬に狂い取り乱した姿は何とも異様ですが、河童九千坊に対する清正の並々ならぬ構えも感じます。「相手はたかが河童じゃないか。清正ほどの武将なら簡単に踏みつぶせるはず」と高をくくるなら、その人は並の軍事評論家でしかありません。

 清正にしてみれば恋敵との一戦には自信がなかったと思われます。それは河童の攻撃に九州一円の猿の手まで借りているからです。清正は陸の戦いでは負け知らずですが水の戦いは苦手でした。秀吉時代、九州平定・薩摩攻めに従ったとき、鹿児島の川内川で「センデがらっぱ(川内川の河童)」の猛反撃にあい散々痛めつけられた苦い思い出があるのです。          その悪夢がふと甦ったのでしょう。誰にでも苦手はあるもので、河童だけはどうも戦いにくい相手でした。

 その猿の援軍ですが、ペルシャ系の河童族と印度系の猿族は九千坊の八代渡来以前のむかしから、ヒマラヤの通行権をめぐって折りあいが悪かったようです。そのはなしを熊本日蓮宗の本山・本妙寺のボンサン(坊さん)から聞いて小躍りした清正は、早速阿蘇の山奥に住む九州猿族の大御所「ハヌマーン太夫」を熊本城に招き、助っ人ならぬ助け猿を要請したんです。ハヌマーンはインドの神話にも出てきますね。

 鋭い爪と牙で武装した数十万の猿群が九州一円から球磨川河口に集結して清正軍と合流しました。この有志連合・他国籍軍が球磨川流域と不知火海域の河童族と対峙したので、八代はにわかに湾岸戦争の危機に直面しました。

     *

 さあ、加藤清正と河童の恋のさや当て、この事件の顛末はどうなったか? その後、河童九千坊の運命は?

 このような伝説が八代を舞台になぜ生まれたか?

 その背景は?

 これらを推理し読み解くなかで、江戸時代の人々の創造力や文芸の力、葦平や垢石の遊び心をいやというほど知ることができます。この謎解きは今話題の「ダ・ヴィンチ・コード」よりもずっと面白いのです。

 この先は、私に持ち時間があれば続けてお話しますが、なければレセプションのとき酒杯を重ねながら意見を交わしたいと思います。

 

✺資料・清正の河童退治を記した江戸時代の文献「和訓栞」

⟨解説⟩和訓栞は江戸中期の国学者・谷川士清の著した辞書で、全編45巻・中編30巻・後編18巻からなる。

 谷川士清(たにがわ・ことすが)は1709(宝永6)年、伊勢の国(三重県)の、代々医を業とする家系に生まれた。国史・国語学、医学、歌道、神道など和漢の学を多彩に極め、本居宣長とも親交があったといわれる。1776(安永五)年、68才没。

「夜豆志呂」153号2007,2刊