東京水天宮で日本橋かっぱ村15年祭

田辺達也

 日本橋かっぱ村(萩原金吾代表、東京)創立十五周年記念祭・河童愛好物故者の慰霊祭・06世界河童サミットin東京(実行委員長・牧野圭一京都精華大学教授、水天宮と長崎県上五島町後援)が一体のユニークな催しが、十月二十九日、隅田川右岸域の水天宮(日本橋蛎殻町)とロイヤルパークホテルの2会場で開かれ、龍ちゃんカッパ館の北野龍雄館長(静岡県焼津市)ら河童族代表一五〇名が出席した。

 九州かっぱ族は、来年八月、長崎県大村市で開催予定の第14回九州河童サミット主催国・郡(こおりん)かっぱ共和国(増川前隆首相)ら3ケ国十一名。河童共和国は福田瑞男名誉大統領、田辺達也大統領夫妻、土田典雄国会議長(以上八代)が、東京在住の会員・檜逸夫さんら三名と合流して七名が出席した。

 会場では、博多の人形師・長友さんと遠野の陶芸家・馬場さんが河童民芸品を展示して即売した。

水天宮さんうってつけの講演会

 第1部、水天宮の神事ー13時30分から牧野実行委員長の挨拶で始まり、かっぱ村役場初代村長中河与一さん、河童連邦初代大統領土屋斉さんらゆかりの物故者を慰霊した。

 第2部、15時から名刺交歓会と講演会―会場を隣接するロイヤルパークホテルに移して開催。講師は河童伝承大事典の著者和田寛さん(大阪堺・河童文庫理事長、河童学博士)が『水天宮と河童』と題し講演、江戸時代の後期、筑後川の久留米から分祀して江戸における水信仰(五穀豊饒・安産・水難除け)のメッカになった水天宮について、神社縁起や伝承民話などから解明した。

 このあと日本橋かっぱ村会員・森下真理さんの朗読を楽しんだ。

台湾、銚子、九州から大型代表団

 第3部 16時30分から懇親会―台北かっぱ村・林錦松村長(台湾財界人)、かっぱ村役場・大野芳村長(作家)、銚子かっぱ村・大内恭平村長(元銚子市長)、九州かっぱ族を代表して河童共和国・福田瑞男名誉大統領(医学博士)が挨拶した。総合司会は軽妙なアドリブで定評の、かっぱ村役場東京事務所長・松井寿一さん(薬事評論家)が務めた。

 台北かっぱ村から林村長夫妻ら十一名の大型代表団が来日した。台北かっぱ村と日本橋かっぱ村は03年「友好村」を締結し相互交流を深めている。銚子かっぱ村は大内村長を団長に十名、銚子と日本橋も友好の絆はつよい。大内村長は近年健康不安から諸会議不参加が気遣われていたが、久しぶりの大内節に確かな復調を印象づけた。

 郡(こおりん)かっぱ共和国増川首相の乾杯の音頭で祝宴に入った。同国代表団は壇上で九州かっぱサミット・大村への参加を呼びかけた。河童共和国代表団も積極的にサポートした。

アトラクションー浜町囃子(日本橋浜町ばやし子供会)、相撲甚句(湯浅みやす甚句社中)かっぱ踊り、日本舞踊、新内、ハワイアン(東京都庁ウクレレ倶楽部、サウンド・オブ・ハーバー)など次々に繰り出す東京ならではの多彩な出し物と酒杯を重ねる歓談のうち懇親会は頂点に達した。

 18時30分、日本橋かっぱ村村長萩原金吾さんの謝辞、東北みちのく岩手かっ村村長・谷村和郎さんの音頭による三本締めで全日程を終了した。

■解説・河童族の進化

 近年、気持ちのよい催事に相次ぎ参加する幸運に恵まれている。銚子かっぱ村20年祭、台北かっぱ村の国際会議、焼津の龍ちゃんカッパ館式典がそうだった。このいい流れは日本橋の水天宮へとつづいた。主催者の人徳、しゃんとした組織運営、自由な遊び心の程よいアマルガムがうかがわれる。

 日本橋かっぱ村の旺盛な活動と萩原村長のつき合いのよさ、中央ならではのユニークで豊かな人脈形成を確認した。かっぱ村役場と河童連邦共和国(2大全国組織)の会員が一同に会し歓談した。

 隅田川の支流・分流は120ばかり、蜘蛛の巣の水系で成り立っている。著名な橋も花のお江戸の名残りをとどめる永代橋・両国橋など指折り十五六を数えることができる。水の都/橋の町・東京における河童催事が隅田川にほど近い水天宮で行われたことは、日本橋かっぱ村ならではの優れた選択で参加者を唸らせた。

 球磨川・河童九千坊の係累が筑後川・水天宮の神使になったのは四百年前、その末裔が江戸への分祀に伴い隅田川に移り棲んで二百年になる。感慨もひとしおだ。

 水天宮は七・五・三のお参りと重なって家族連れで賑っていた。

 郡んかっぱ共和国代表団の意気ごみがあればこそだが、来年度九州河童サミットに対する主催者の細やかな気配りと参加者の熱い期待を随所に察知して嬉しかった。

 河童族は進化している。

二〇〇六年十一月

河童によるマチ興し 菊池地名研究シンポジウム

田辺達也

河童ブーム

一九七〇年代後半からつづいており、河童愛好家の活発な交流、文芸・工芸の多彩な興隆がブームを支えている。

この背景に社会不安もささやかれており、昭和史の苦い体験から、芥川龍之介や火野葦平の作品にも微妙に投影している。自然環境と社会環境の急激な悪化、人心の荒廃と犯罪の増加、くらしと平和(戦争をする国)への不安が河童の出番を促しているというのだ。擬人法による庶民の警告なり抗議である。

 河童族のグループは現在全国に100ばかり、九州では30ばかり。共和国とか王国とかシティとか村を好き勝手に名乗り、夏場になると毎週どこかで楽しい川祭りを行っている。

 今年も、五月・千葉県銚子市(利根川)、七月・岩手県遠野市(猿ケ石川)、八月・北海道札幌市(定山渓温泉)、九月・鹿児島県薩摩川内市(川内川)、十月の先週は静岡県焼津市(駿河湾)で全国規模のイベントがあった。

 河童サミットは八代が初回(88年)。創意と先進性、催事の成功が河童共和国への敬意とその後の河童ブームを決定づけ、毎年持ち回り18回、九州サミットも12回をかぞえ、今では夏の風物詩になっている。国や地方自治体、商工団体も「切り口のやさしい水環境擁護と楽しいマチ起こし効果」を期待し後援している。歴史民俗資料館は夏休みに河童特別展のロングラン、学校でも文化祭に河童の研究が発表されている。お色気カッパの黄桜酒造も河童資料館をオープンした。河童ブームの息の長さは近年の不思議である。

 河童は生物の誕生と生存・暮らしに深くかかわる水・水環境の化身(気配・アニマ)。河川流域・湖沼・海のほとりに息づいてきた。近年、アジアやヨーロッパにも目が向いているー河童が主役のチェコの民話には邦訳がある。TBS(テレビ局)の特番『新ポルトガル謎紀行』は、八代の「オレオレデライタ」に注目、ポルトガルにクリスチャン河童を追った。台北では河童主題の国際会議、台湾政府高官が歓迎演説をした。台北市内を流れる淡水河の河口からも八代・球磨川へ河童が渡来している。韓国作家もシャムと朝鮮と八代を結ぶ壮大な河童のロマンを描いている。八代は国際的にもモテモテだ。

 熊本県には主な水環境に一級河川が4つ、不知火海と有明海もあり、河童の民話はずば抜けて多い。民俗学の泰斗・丸山学や牛島盛光、牛深の詩人・山下陽一らの活躍もあって河童天国である。

 しかし河童愛好家の交流は県内では南北間で弱い。菊池市には渋江さんの河童除けのお札とか、天地元水神社の河童縁起など。そのお隣り、田主丸の馬場瀬神社に菊池氏ゆかりの河童の説話と習俗もあり、菊池川流域にはかって良質の砂鉄も産出されたと聞き注目している。

 菊池川を水神信仰のメッカとして売り出すには県内4河川の連帯と新たな仕掛けが必要である。西日本域の最も人気のある水まつりー『九州河童サミット』三年後の菊池市開催を提言したい。

マチ興し運動

 劇作家、井上ひさしが『吉里吉里人』を発表したのは81年。パロディの奇抜さに触発され、82年、三陸沿岸に『吉里吉里共和国』が生まれた。以後いろんな目的と名前のマチ興しグループ/ミニ独立国が地域浮揚の切り札として誕生、個性を主張しはじめた。

 中曽根内閣の「民活」がそれに輪をかけ、地方自治体も倣って旗を振ったので、一時期、雨後の筍の3千にも達した。いわゆる日本的(金太郎飴流/ドシャ降り的)なブームである。しかし5年もてば上々吉、大半が三年ばかりで閉国・廃村・休店に追いこまれている。熊本県では福島知事時代、官主導の「県まちづくり団体協議会」が生まれ、登録組織は250ばかりになった。しかし自力運営の創意と持続は人的・財政的に難しく、中には行政職員兼任事務局で辛うじて命脈を保っなど、実際は開店休業かおんぶに抱っこも見受けられる。

 流通科学大学(白石教授)は全国200以上のグループを調査、元気印の稀少例として河童共和国(八代)の活動に高い評価を与えている。「地域への愛情と愛着を根底において展開されている。パロディの形をとりながら地方文化の再構築を図るねらいを有しており地域づくりに方向性を見据えたミニ独立国である」前出、井上ひさしも、河童共和国入国の動機について、熊本日日新聞の取材に「いろんな共和国があるが、河童共和国には思想があり初めて国民になりたいと思った。シャレと本気のバランスがとれ、まじめに遊んでいる姿勢もしっくりきた」と述べている。常磐学園大学の石川教授(民俗学)も「心の緑化運動推進」を提言して入国、ご指導をいただいている。

 マチ興し運動の失敗例として、拙速な経済効果追求型の危うさと脆(もろ)さが指摘されている。自治体主導型(依存型)になると首長が交代して途端に行きづまることがある。

河童共和国

 河童共和国の活動開始は十八年前から。すでにマチづくり団体の老舗である。六年まえ熊本日日新聞社の『ひのくに応援大賞』を、五年まえには福田名誉大統領が『信友社賞』をいただいた。

 河童共和国は純粋な民間の文化団体である。自力で長つづきできたのは⟨遊び心・和と輪⟩を大切にしている、河童にトコトンほれこんでいる、自在な研究成果と交流実績で権威をうち立てながら、継続は力なりのユックリズムを貫いてきたこと、などによる。

① 憲法と建国宣言をもっている

 新しい国づくりの理想と情熱が凝縮されており、その後のミニ独立国憲法のモデルになった。日本語と英語文の冊子を世界の125ケ国へ届けた。この国は*文化渡来のロマン『河童・九千坊物語』による郷土文芸の発揚と地域振興 *河童にかこつけ、切り口のやさしい水環境擁護運動の推進 *河童愛好者との善隣友好目的に、真面目な遊び心をもって建国されたミニ独立国と規定している。

② 知的集団である

 河童を伝承世界の妖怪変化とする民俗学にこもらず、河童譚を人間のくらしや自然観と読み解き、更に海の道・川の道による交流の物語りとして考証し解明する立場をとり、これを『新河童学』と名づけた。

 民話に描かれた河童の姿態や動態には深い意味と根拠がある。民俗に歴史の衣を着せると急に人間臭くなり、河童への疑問が、庶民の目線から大方合理的に解明され、河童出現と活躍の必然が理解できる。

 最大の成果が独自考証による八代の『河童九千坊・呉の国渡来伝説』の構築である。球磨川支流・前川べりの碑に刻まれた奇妙な8文字「オレオレデライタ」にロゼッタ石の不思議を重ね、古代中国(呉越)との文化交流のロマン説を発表した。

 河童渡来のルーツの地・やつしろは現在、官民あまねく認知されている。中世、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイス来代もクリスチャン河童出現にデフォルメされている。

③ 交游の成果がある

「国づくりは百年先を見据えた人づくり・人脈づくり」と言われる。全国の河童族とあまねく国交を結び善隣友好の実を重ねた。要は時間をかけて仲良しになることだ。県内・市内でも官民合同の交流でも成果をあげた。

④ マチ興しにも寄与することができた

 日本最初の河童サミット八代開催の先進性とPR効果は大きい。1999年『国立かっぱ大学』を開校、受講生は二千人を超え、受講生に珍妙な学位『自称・河童学博士』を授与している。河童芸術大賞・文学大賞も創設、二百人を表彰した。

 八代は河童と水環境の情報発信基地になっている。

二〇〇五年十月
『河童伝承と水神』 熊本地名シンポジウムin菊池

河童の夢かなうー龍ちゃんカッパ館

田辺達也

 北野さん夫妻が河童さがしの全国行脚を始めたのは1993(平5)年8月。

 その第一歩が河童共和国である。河童九千坊渡来の地に第一歩を印されたことは八代にとって大変光栄なことだった。

わたしは球磨川河口の河童渡来の碑に案内したあと、河童事情や河童族の動向について説明し歓談した。

 報道によると、河童博物館建設の夢は十二年まえ芽生えたとあるので、北野さんの八代訪問は重要な契機になったに違いない。以来、ご夫妻と家族ぐるみのおつき合いがつづいている。祝賀会資料へのメッセージ掲載や祝宴での挨拶など、わたしに対する計らいはこのようなご縁によるものと感謝している。

 新館落成の祝典に参列した豪華な顔ぶれから、北野さんのつき合いの良さ・人脈の豊かさを実感した。

 大内かっぱハウスや駒ケ根かっぱ館の公私立先輩の優れた経験を見聞のうえで、龍ちゃんカッパ館の個性を賞賛すると、

 第1、ここには河童のドラマが満開している。サッカー、お祭り神輿 管弦楽団、ソーラン節など、特別に制作された一場面数百体の河童群像は壮観で迫力がある。もちろん、単体の造形も高質多彩でフィールドワークの成果である。

 第2にハイセンスですきっとした陳列の巧みさだ。レイアウトと陳列の作業は北野さん夫妻が仲良くケンカしながらの共同作業という。プロ顔負けの巧みである。

 第3に河童のアイドル性にマッチする可愛く明るく美しい造形のオンパレード、色彩感覚のさえを実感した。保育園児や小中学生にぜひ見てもらいたい。

 欲ばりかもしれないが、郷土色の演出も大事だろう。河童の画家・中川雄太郎や初代静岡かっぱ村村長・高柳千賀子の作品、そして民俗学者・石川純一郎教授らの著書を集めて顕彰するコーナーもほしいと思う。

 今後の隆盛を期待している。                     

二〇〇五年十月

広島エンコの原爆忌

田辺達也

✺広島エンコ 

 中四国から山陰にかけて、河童はエンコと呼ばれている。漢字では猿猴と書く。古来、河童と猿は川と森の神の生きた姿として敬愛されてきた。属性は同じとみる学者もいる。 広島平野は太田川(水系)の恵みを享受して出来あがった。流路102㎞・流域面積1690㎢、熊本県の球磨川よりやや小ぶりになる。

 この川は瀬戸海に向かって南下すると、支流が扇状に分かれて沖積の豊かな三角州をいくつも産んだ。今日の広島市である。平和記念公園のある「中島」も三角州のひとつ、太田川が本川と元安川に分かれてできた。

 太田川水系は中国地方の河童天国だ。広島駅南口の前を『猿猴川』が流れている。駅前大橋と荒神橋の間に『猿猴橋』も架かっている。広島電鉄線には『猿猴橋町駅』もある。 猿猴川は流路10㎞ばかり。短いが瀬戸海に近い往来の便がある。

 この辺りに棲みついた《安芸の長者》というエンコの親分が、代々、太田川全域を仕切ってきた。

 広島は河童づくし、水の町である。

✺ひろしまの悲惨 

 お盆休みに52年前の映画『ひろしま』をみた。日教組(教職員組合)の作品だ。『きけわだつみの声』の関川秀雄が「教え子を再び戦場へ送るな!」の願いをこめてつくった。劇映画だが記録映画をみる臨場感の連鎖、6万人とも7万人とも言われる大群衆(エキストラ)の迫真力! 広島出身の月丘夢路が先生役で出演している。

 新藤兼人の作品に乙羽信子の『原爆の子』(52年作品)がある。広島の子供たちのつづり方が映画になった。新藤兼人も広島出身だ。今村昌平の『黒い雨』(89年作品)も忘れられない。

 爆心地に近い中島の平和公園には峠三吉や原民喜の詩碑もある。被爆六〇年の今年、ここで原爆死没者慰霊式と平和祈念式典が行われた。原爆ドームの横を流れる元安川には一万個の灯籠が流された。

 この辺りはかって「中島本町」と呼ばれた繁華街。一万人ばかり住んでいたという。しかし原爆投下の八月六日、町民と通行人で生きのびた者は一人しかいなかった。本川小学校(児童400人、教師10人)では生存者は二人しかいなかったという。

 中島の悲惨がとくに伝えられるゆえんである。

 新藤兼人は『ヒロシマ』を構想したとき、ここ「中島本町」をオープンセットにする趣向だったらしい。シナリオ原稿には「広島の西の賑やかな街。中学生の一隊が行く。足下は脚半(きゃはん)腰には弁当をぶら下げている」情景が描かれている。広島は軍都ゆえに狙われたが文都でもあった。

 広島原爆のすさまじさを一口にいうのは難しい。上空600mで爆発したとき数百万度の火の玉が発生、爆心地の地表温度は4千度に達し、半径3㎞以内では9割以上の建物が壊滅した。この熱線と放射能を浴びて35万人が被爆、年の暮れまで15万人亡くなった。原爆症の死者は計24万6千6百人。現在、被爆者手帳の保持者は26万6千6百人、平均年齢73・1才。

✺エンコの救援活動 

 太田川水系の河童は市街地の地獄を感知し、安芸の長者の檄で救援に立ち上がった。

 焼けただれた被爆者が水を求め、我れ先にと川に飛び込んできたからだ。

 作曲家の林光は原民喜の詩をもとに全四章の合唱曲『原爆小景』を書いた。「水を下さい」(第一章)から始めている。

 爆心地にちかい本川と元安川は、またたく間に人渦が巻き人恋う断末魔のうめきに覆われ、川の色も一変した。満潮と重なったので何千人もが深みへ押され溺れ死んだ。

 エンコの救援隊は手練の業を発揮した。太田川水系と広島湾内から五百の小舟を瞬時に揃え、五百の筏を素早く組み、簔を五千ばかりかき集めた。葦や茅の葉、藻草を集めて舟底や川べりに敷き、ひとりづつ川からていねいに引き上げ横に寝かせて介抱した。

 炎熱のさなか、にわかに、黒い雨が激しく降り出した。人も川面も赫黒く染まった。

 簑をやさしく被せてやり黒い雨をしのいだ。

 エンコが被爆せず自在に動けたのは水中深くいたので熱線の直射を免れたからだ。ウラン235(放射能)に対する免疫説もある。

 周りが下火になり熱気も少しずつ和らいできた。一刻も早く郊外に避難する必要がある。                              しかし汽車も電車も不通、陸路は死体とがれきが累々としている。

 水路が早く安全だ。小舟と筏が生きた。数珠つなぎ、二手に分かれた。一群は太田川を北上、東回りの支流(京橋川から猿猴川)へ下り、農村域へ移送した。別の一群は南下、広島湾の漁村域に受け入れてもらった。

 広島エンコの頑張りを知る人は少ないが、原爆忌にふさわしいエピソードである。

『猿猴橋』のたもとに河童地蔵がある。

 胡瓜のお供えものが絶えない。

初出・熊本の地名60号 2005