淡水河から球磨川へー河童渡来の新伝説

2004・河童の国際会議(台北)での講話

田辺達也

■台北かっぱ呉景聡さんのこと

 河童共和国の田辺でございます。河童共和国の官房長官、河童連邦共和国では副大統領のひとりとして河童文化発展・水環境擁護に微力を尽くしております。

 先ほどお話のあった台北かっぱ村開村のエピソードのなかに、初代村長・呉景聡先生のことが回想されました。

 呉さんは八代にも2回お出いただいております。最初は七年まえ、かっぱ大学公開講座出席のため。河童共和国は河童芸術大賞を贈っております。もう一度はその翌年です。天草島の栖本町で第6回九州河童サミットが開かれたとき、私の自宅に宿泊され翌日ご一緒して天草へ行っております。栖本サミットでは世界一長いカッパ巻き(胡瓜の海苔巻き)に加わっていただきました。カッパ(巻き)一本で212mの長さはギネスに載って未だに破られておりません。そんなおつき合いからも大変懐かしく、ご冥福をお祈りいたします。

■河童共和国と八代

 初めてお会いする方もたくさんいらっしゃるので、河童共和国と八代を簡単に紹介いたします。

 河童共和国は、西九州の八代市内に首都をおく人口50人ばかりの、遊び心旺盛な、パロディ共和国でございます。一九八八年二月建国、その年八月、日本で最初の河童サミットを八代で主催しました。このとき採択されたサミット宣言にもとづき、翌89年第2回びわ湖サミットでかっぱ愛好家の全国組織『河童連邦共和国』が建国されました。

 私たちは一九九五年、九州河童サミット(第3回)を主催。八代初演の河童のオペラはイタリアへ渡り対話つきで公演されました。出版活動が盛ん。情報発信基地の役割も果たしております。

 八代市は人口十一万人、日本では中規模の都市になります。九州3大河川のひとつ、流路115㎞の球磨川が河口に至り、九州西域の不知火海と出会う水環境に恵まれたところ。古代から人の暮らしが始まっております。中国・インド・朝鮮の先進文化も海の道からいち早く伝わり、中世には東南アジアのベンガルやシャムはいうに及ばず西欧のローマやリスボンにまで知られた国際都市としての名声が記録されております。

 八代には、古代、河童・呉の国渡来伝説や中世、クリスチャン河童渡来説など、たくさんの説話が語り伝えられております。呉や越は江南地方の水にゆかりの人々の国のことで、八代の河童伝説は活発な海外交流を偲ぶよすがとなるものです。

 台湾とのおつき合いも、このあと林先生の説話を紹介する形で、河童に思いを託した淡水河と球磨川の水魚の交わりをお話ししたいと思います。

 八代には、不知火海の澪すじと球磨川河口の接点に⟨徳渕の津⟩という古い船泊り、ここに『河童渡来の碑』という石文があります。《オレオレデライタ》という謎めいた物語りが刻まれて、エジプトのロゼッタ石に劣らぬ不思議な碑(いしぶみ)とされております。

 私はここ球磨川の河口で少年時代から河童(ガラッパ)と泳ぎを競い、青年時代になっては水環境を考え水文化をまもる運動に微力を尽くして参りました。

■台北サミットを祝す

 ご挨拶が後先になりました。本年六月、八代で『かっぱ大学公開講座及び河童芸術大賞表彰式』を開催しました。このとき台湾から大型代表団が来日され、公開講座の成功に寄与していただきました。有難く厚くお礼申し上げます。

 そして今回こちらのサミットに招かれ、そのうえカッパ談義の機会まで与えていただき大変光栄に思います。河童がメインテーマのユニークな国際会議が台北で開催されることを、日本の河童族はこぞって歓迎し、盛会を心から喜んでおります。本会議の準備と受入れにご努力いただいた、林錦松先生はじめ台北かっぱ村のみなさん、そして台北市の行政・官民各界のご協力とご支援に深甚の敬意を表します。

 このような平和的で楽しく笑いのこぼれる催しができるのも、自由と民主主義、人権と生活向上の理念のもとでお国づくりに励まれる皆様のご努力のたまものと信じます。今後ますますのご繁栄を心から祈念するものです。

 私たちは、水文化交流の民間大使として国際親善の実をあげ、併せて、訪台の機会に貴国の歴史とフォークロアの有りようを学び、観光も楽しみにしています。私自身、台湾訪問は初めてのこと、妻を同伴し、わくわくしながら参りました。昨日は早速、国立故宮博物院を見学させていただきました。明日は幾変遷の歴史を語る淡水市を訪問する予定です。

 本会議をご縁に双方の交流が益々盛んになることを希望いたします。

■河童渡来の新伝説

 ときに台北かっぱ村の林先生は、昨年、京都で開催された第3回世界水フォーラムの水の宴・河童分科会で日台交流の新伝説を発表されました。球磨川の河童は淡水河のカワペが渡来して棲みついた、淡水河のカワペは三蔵法師にお供した河童沙悟浄の子孫だというものです。

 この説話に日本の河童族はうーんと唸りました。中でも新鮮な驚きをもって一番喜んだのは八代の代表団でした。海に開けた八代の地が、台湾との関係でもいの一番に指名されたからです。

 第2次世界大戦が終わって間もなくのことです。世界中の青年と芸術家が力を合わせ、記録映画『世界の河はひとつの歌をうたう』をつくり、世界の主な川と流域の暮らしを紹介しました。川と川とのつき合いに壁はありません。川の流れは海を介して自由に行き来し、地球の良好な生態系を維持しております。映画のタイトルは、国や民族間の紛争を武力で解決しない誓いの象徴として、世界平和と友好の合言葉になりました。

 私は林先生の卓論を拝聴しながら、なるほど、球磨川と淡水河は東シナ海を介して最も近いところで水魚の交わりを結んできたと合点したのでした。私たちにとっては、国の違い、肌色の違い、言葉の違いは障害になりません。八代人のつき合いの良さが民話の世界にも新しく加わる喜びをじっくり噛みしめたのでした。

■淡水カワペ球磨川渡来のロマン

 私の河童談義は林先生の河童渡来のロマンを日本流・八代流に意訳して解明することになります。

 佛教典を求めてインドへ旅した玄奘三蔵にお供した沙悟浄が、揚子江からミン川へ下り、福建省の谷間を下って河口の福州(フーチョウ)に至り、ここでカワペと呼ばれるようになった。カワペ(河伯)とは河の主(あるじ)のことで、水の神様のことを指しております。

 それから七~八百年ばかり経ち、カワペは海の女神・媽祖神の助けを借りて台湾海峡を渡り、台北の淡水河に至り、平埔(ペーポ)の美女と交わり子孫をふやした。その後、媽祖神に甲羅を用意してもらい、淡水河を出発、黒潮にのって北上、西九州の不知火海(しらぬひ)の球磨川河口(八代)にたどりついた。こうして台湾のカワペは、八代でカッパ・ガラッパに訛り、この一族は九千坊(クセンボウ又はキュウセンボウ)を名乗り球磨川の主(河伯)になって今日に至ったというものです。

 林先生のロマンには、隠し味と言いましょうか、ほのかなエロスが漂っています。河伯(カッペ)八代渡来の目的は、どうやら花嫁探しだったようです。

 八代の方言では気立ての優しい、しかも男心をそそる魅惑的な娘さんのことをオッペシャンと言います。林先生の説話から、オッペシャンの肢体にもたれて幸せそうな台湾のカワペが浮上いたします。

 波を枕に夢うつつ、捜し求めた理想の女性に、球磨川河口でついに遭遇したのです。八代には球磨川のおいしい水、美肌泉質の日奈久温泉があります。八代はこの霊水と銘泉で磨かれた美人(オッペシャン)の里でございます。

 台北(淡水河)から八代(球磨川)までの距離は、直線で約1200㎞。時速5ノットの黒潮に乗って東シナ海を北上すると五~六日で九州の内海・不知火海に入ることができます。時速20㎞の南風(はえ=季節風)の助けを借りると、三~四日で球磨川河口に到着いたします。パスポートの要らなかった時代のおつき合いは、お互い、波任せ風任せ,星が頼りの自由な行き来だった。海の道による人・文物の交友・交易は、日本ではいち早く九州から、とりわけ八代から始まったと思われます。

 林先生の河童渡来説は、まさしく、河童に事よせた日台交流のロマンです。

 淡水河と球磨川の往き来は昔から確かに「あったること」として、八代市民の心に新たに刻まれることでしょう。共同の知恵と努力で、史(ヒストリー)と詩(ポエム)のふくらむ楽しい物語りに育てたいと念じております。

 八代からの河童談義を終わります。ご清聴ありがとうございました。

二〇〇四年十一月  

片葉と河童

田辺達也

 indecision芥川龍之介にならい、片葉と河童は、どっちも「カッパ Kappa」と発音してください。

     *

 NHKテレビの金曜時代劇『茂七の事件簿3』がはじまり、第1回は《片葉の芦》が放映された。原作は宮部みゆきの『本所深川ふしぎ草紙』(新潮文庫版)から。彼女はこの作品で吉川英治新人文学賞(1992年)を受賞した。

 江戸は本所駒止橋の上で寿司屋の大旦那が殺されたことから始まる。

 江戸後期(1863年)の「本所繪圖」(現在の住宅地図)には、両国橋の近くに駒留橋が載っている。両国橋は九十六間(173m)、対し、駒留橋は三間(6m)ばかりの小さな橋だったと思われる。

 ここの岡っ引の親分が回向院(えこういん)の茂七、江東の本所深川一帯を仕切っている。高橋英樹演じる茂七親分は貫禄十分のはまり役だが、ここでは芦の草、それも奇妙な片葉の芦が主役である。

 片葉は河童に通じてミステリアス。推理作家らしい表題の付けかただ。

 このシリーズは、捕物とはいえ、むごたらしい場面が少ない。思いやりやいつくしみの心をていねいに描きながら、真実究明に力が注がれる。《片葉の芦》でも、下町の日常を温かく、細やかに、健気に生きる若い男女の行く末を穏やかに見守っている。

     *

 それはそうと、深川の片葉の芦だがー

 原作から、片葉の芦は「両国橋の北にある小さな堀留に生え」ており、「この堀留まで片葉堀と呼ばれている。風向きのせいなのか、流れのためなのか、それとも日ざしの向きのためなのか。ともかく、ここに生えている芦はみな片葉である。片葉の芦は本所七不思議の一つである。両国橋の北にある小さな堀留に生える芦の葉がどういうわけか片側にしかつかないことから、そう呼ばれるようになった。」

 本所深川は隅田川と荒川にはさまれている。堀割と中小の川筋がくもの巣のように走り川べりは葦の叢(くさむら)だったにちがいない。

 葦(あし又はよし)は、笹の葉形をしたイネ科の草、水辺に自生している。歌手の三浦洸一も、場所はちがうが、《流れの船唄》で「葦の葉かげによしきり鳴いて」と唄っている。

 この背高草の芦原は八代の湿地にも広がっていた。小さいころから見慣れた風景で、両葉か片葉かを確かめるもの好きはいなかった。田舎では、茎を切って乾かし、簾(すだれ)に編んで、日よけに使っていた。

 茂七親分の《片葉の芦》には河童は出てこない。しかし「カッパあし」そのものが七不思議のひとつだけに、すでに河童の気配は濃厚だ。

 文庫版第3話の《置いてけ堀》には早速河童が出没し、若い女をびくつかせたり励ましたりしている。魚を釣って帰ろうとすると芦原の茂みから「魚を置いていけ」という声が聞こえる。河童ではないか? の噂が広がった。

 こうして、「河童?」の気配と「置いてけ」がつながって、その堀割は、いつの間にか《置いてけ堀》と言われるようになったという。

《錦糸堀》がもとの名と聞いている。

     *

 ときに、徳川家康の江戸開府から四百年、河童ゆかりの名所と水物語は、《置いてけ堀》のほか《河童橋》《かっぱ寺》などたくさん残っている。東京都民の日のシンボルも、ついこの間まで河童だったのに、余り知られていない。河童を都民のシンボルに決めた都議会の河童論争が、大家の隠居と熊さん八さんのかけ合いみたいで、これまたおもしろい。

 都民の日のバッジの絵柄は、お酒「黄桜」のCMでおなじみ、「お色気カッパ」の小島功が描いている。

 残念ながら、東京でも、小さな堀割はほとんど埋め立てられ、今は片葉堀(錦糸堀)も残っていない。しかし河童族は元気だ。「おいてけ堀かっぱ村」のほか、浅草、江戸川、隅田川、日本橋、銀座、石神井など十いくつ、相変わらずのにぎやかさとパワーを競っている。さすが、水と河童とお祭りの都である。

     *

 東京の「おいてけ堀」から、色麻の「川童さんと片葉の芦」に飛躍する。

 町名が変わっている。十中八九人が、色麻を何と言って良いか首をひねるか、つい「しきまま」と呼んでしまう。「しきま」は「色魔」に通じるので、地元にとっては迷惑なはなし。

「しかま」と呼んでください!

 宮城県色麻町は、「磯良神社(おかっぱさま)と川童(かっぱ)さんと片葉芦、河童のゆるキャラ・活平くん」で町おこしをすすめる、東北の雄である。鈴木省司町長は、かって一九九一(平3)年、第3回全国カッパ・ドン会議出席のため八代に来訪されている。 ぼくが色麻町を訪問したのは、その二年前、一九八九年三月だった。「おかっぱさま」の磯良神社を訪ね、神官・川童嵩(かっぱ・たかし)さんから河童の言い伝えを聞き、木彫りのご神体も拝顔した。

 磯良の神のいわれ・河童の言い伝えは、平安時代初期のころ、天皇方の武将・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)のころ始まったようである。

 この一帯は、むかし、沢沼池だったと思われる。この辺りで、河童(先住民アイヌの民衆)と田村麻呂(京都朝廷軍)の決戦が展開される筋書きで、田村麻呂に従い河童をしのぐ達者な泳ぎで軍功をたてた栄誉に「川童」姓が与えられたという。

 片葉の葦の由来を記す標柱の立つ境内に案内された。

 片葉芦のくさむらは、アイヌの怨念を秘めてか、寒風にさらされ斜めに耐えていた。

 同行した役場の職員さんは、「磯良神社の宮司さんの姓は川童(かっぱ)です。日本広しと言えど川童姓は一人しかいません。そして片葉芦は色麻にしか生えない河童芦です」と胸を張った。ふるさと自慢・マチ興しの上手なPRである。

「河童」と「片葉」は同音のカッパ、遊び半分のごろ合わせにもみえる。

 ぼくは「川童」姓をペンネームと思い、磯良神社の川童さんにお会いした。

「私は川童(かっぱ)です」といきなり言われても、大抵の人は眉につばをつけるはず。 向こうはそう来ると承知の上か、住民票の写しを準備していた。住民票から正真正銘のカッパさんが証明された。用意のよさにも驚いたが、確かに稀有の姓だったのだ。

 そういう訳で、そのときは「片葉芦」も色麻固有の河童種と思いこんでしまった。

 宮部みゆきの作品で色麻神話は崩れたかにみえる。

 しかし、色麻町には片葉の芦が今も確かにある。しかも町ではこれを大切にしている。
 このことが大事なんだ。色麻が河童の本家を吹聴するだけのことはある。

二〇〇三年七月 

日野川紀行 河童九千坊と砂鉄(タタラ)文化

田辺達也

 隠岐ノ島でガラッパトーク

 隠岐ノ島で河童の講演をしたあと帰りを一日延ばし、境港から米子へ出て鳥取県西部を流れる日野川を散策した。日野川の河童代表が球磨川から移り住んだ九千坊という、楽々福(ささふく)神社(鳥取県日野郡)の伝説が気になって惹かれていたからだ。

 日野川の九千坊は、米子市の出版社(立花書院)発行の『日野川の伝説』(1996)と『漫画・日野川の河童』(98)に収録されている。前書は第一話に《河童の親分九千坊のこと》後書は付録《日野川の河童伝説・日南町の楽々福神社の河童》に載っている。 

 九州の住人とカッパ研究家には興味があるだろう。     

 立花書院の楪(ゆずりは)範之社長が私に出版案内をしたのは隠岐島後の河童統領・松岡豊子さんの社長は日野川の河童伝説集に西郷町八尾川(やびがわ)の民話『唐人屋(とうじや)の河童』を採録するとき私のことを聞いたという。八尾川の河童は有名だから山陰地方の伝説に必ず顔をだしている。唐人屋は松岡家の屋号で、海と渡来人のいわれが伝えられている。

 五年まえは神無月だった。稲の掛け干しが記憶にのこる。

 『全国かたりべサミットin隠岐』が《隠岐と河童伝説》をテーマに開催され、遠野と八代の東西代表が案内された。このとき私を推薦したのが松岡さんだった。そんないきさつで、楪社長ともつきあいがつづいていた。

 隠岐へ重ねてのご案内、同じ旅館の奇遇からこの島には不思議なえにしである。 島後全四町村共同で『河童交流会』が企画され、私にはメインステージ《九州の河童王国とかっぱ逹》が用意されたので百分をこえてお話したのだった。

 今度は隠岐島文化会館の島根勝館長や松本悦夫・佳都子さんご夫妻にも大変お世話になった。松本さんの屋号を奈良屋という。この屋号からも古代への夢がふくらむ。

 隠岐後のいざ日野川散策になるが、見ず知らずの河川流域へは心弾む冒険にしても、不慣れな道行きは右往左往するだろう。上石見まで8駅もあるから米子泊にしても帰りはきっと夜になる。当初計画は境港からJRかバスで米子へ出て、そこからJR伯備線で「上石見」まで行き、駅からタクシーを拾い(タクシーがあるかどうかは不明だが、あることにして)日南町の楽々福神社へ。その帰り「溝口」に下車してもう一つの楽々福神社へ行ってみたい、と。

 初めは「日野川の九千坊に是が非でも逢いたい」一心の浮いた高ぶりばかり。何もかもアバウトだった。事前に日南町の楽々福神社へ電話してはみたものの、あっちのことがすぐ分かる筈もなく、ほんの気休めにすぎなかった。

 ひとり旅は慣れてはいるものの不安は隠せない。隠岐への直前、立花書院の楪社長に楽々福さんへのコースを改めて確かめた。

「俺が境港まで迎えに出て楽々福神社へ連れていくよ。境港では水木しげるの妖怪ロードも一回りしよう。」

 日野川を知りつくした地の人のガイドとはありがたい。

 何という幸運か!

 八月二十七日、隠岐西郷港8時35分発境港行きの船は《レインボー》。同じ岸壁に停泊の七類行大型船《おきじ》は一足先に出港した。この船には五年まえ乗っており、そのときは七類から松江を経て米子に泊っている。唐人屋の松岡豊子さん、隠岐文化会館の島根勝館長、旅館松浜の斉藤一志さんらの見送りをうけ、隠岐ノ島に別れを告げた。

《おきじ》がグラマーなら《レインボー》はニンフ。一七〇人乗り、時速37ノット(68・5㎞)の水中翼船はあっという間に先発の《おきじ》を追い越し、朝日を浴びてキラキラ光る凪ぎの日本海を滑走した。

 水木しげるの妖怪ロードー境港

 港湾の奥深い入江「境水道」に入ってアーチ型の鉄橋をくぐると、船は十時ごろ境港に接岸した。鉄橋は鳥取と島根をつないで、堺水道の先に中海宍道湖が広がっている。

 十数年まえ、中海の締め切りに反対する全国的な運動を思い出していた。

 境港へは初めて。

 港湾は新開地か大漁港の雰囲気がある。

 立花書院の楪社長とも初対面、しかし河童の心眼ですぐに通じ合った。

 境港は米子から美保湾に突き出た弓浜半島の突端にある。

 ここは妖怪漫画でおなじみ水木しげるの出身地だ。港に隣接する駅前から妖怪プロムナードが1キロばかり伸びていた。ガイドマップには《ゲゲゲの鬼太郎》など83のオブジェが載っている。

 水木しげるのやさしいまなざしと豊かな夢のふくらみが可愛い妖怪群を生んだ。

 《カッパの三平》は有名だ。駅前から始まる水木ロードの一番目にあった。彼の河童への目覚めは割合早く、十四五年まえ『河童なんでも入門』を。七年まえの『河童千一夜』には「人間よりも義理人情に厚く、礼儀正しく、純情で、そしてちょっぴりいたずらな」と的確に記している。

 酒屋でもお菓子屋でも、店という店で人気キャラクターグッズが売られていた。妖怪神社あり妖怪屋敷あり。境港はいま全市あげ《ミステリーのまち》を売り出し中だ。

 楪さんは海岸線を東へ走らせ、鳥取県伯耆郡名和町の名和神社へ案内した。

 私(八代市民)への格別の配慮だろう。長年の研究者・富永源十郎さんに会う目的もあり、幸い在宅されて歓談することができた。富永さんは八代にも知られている。

 戦中、南朝の後醍醐や正成、義貞、長年、顕家ら太平記の面々を教育勅語と一緒におぼえ高徳の詩も吟わされた。名和の一統は建武の中興で八代庄へ下向、その後この地を百五十年領したのでゆかりのひとである。

 いよいよ米子から中国山脈へ向かい国道181号線に乗る。途中186号線に入りJR伯備線ぞい日野川源流域へ進んだ。

『日野川の伝説』の帯《山陰伯耆国ーきっと日野川を歩いてみたくなる》によると、日野川は「中国山地の三国山・道後山に源を発し全長約80キロ米の川で、日本海に注ぐ。周辺には鬼・河童・大蛇・怪獣など、さまざまな伝説が残されて」いる。河川事典は「流路76・8㎞、流域面積860㎢、支流25を擁する一級河川。皆生温泉で美保湾へ注ぐ」とある。県境の三国山は標高1004m、道後山は1269m。

 立花書店版の河童譚は十一話。その第一話から八代の河童九千坊がいつの間にか日野川流域の代表に納まり、楽々福神社で首座を占めている。

 嬉しいやら恐れ入るやら。

 楽々福と九千坊はどんな関係だろうか?

 楽々福神社ー日南町と溝口町

 日野川と国道とJRは曲がりくねり絡み合っていた。川幅はせまく水量は少なかった。

 楪さんは蛇行する川筋に深みが見えるたびに車を止め、「こっちはショウゴの淵、あっちは弘法ケ淵」と、淵にまつわる河童伝説をはなしてくれた。

 一時間ばかり、黒坂という町の「カワコ淵」という川ぶちの脇に光明寺という大きいお寺さんがあり、そこで小休止。

 若い住職さんから茶を一服いただいた。

黒坂あたりと日野川流域が鳥取西部大地震の震源地だった。

寺社仏閣や墓石の倒壊をはじめ個人住宅の被害は想像を絶して甚大だったようで、修復もまだ半ば、やがて一年になろうというのに、あちこちの屋根がブルーシートに覆われていた。国道筋に虫食い状態の空き地を散見したが解体の跡という。

楪社長はその日この流域で書店まわりしていて、黒坂から少し下った食堂で遅昼を食べていたとき地震に遭遇した。こんどもそこで食事したが、食堂のおばさんとあの日の凄まじさを交々おもい出していた。この食堂は小さな古い木造なので倒壊しなかったのが不思議なくらい。山間部は岩盤が固いのでこうして残ったという。もし鳥取級の大震災が軟弱な埋立地の阪神地方を襲っていたら、あちらの被害はもっと大きかったにちがいないと。 黒坂からさらに二十分ばかり遡った国道の左頭上に目指す楽々福神社(東の宮)があった。

車を止め急坂の石段を喘ぎあえぎ上った右わきに社務所がある。

楪さんは民話収集で再三訪れているのか若い宮司・木山典明さんと面識があった。

木山宮司は私の電話を覚えており、「八代からの訪問者は初めて」とよろこび本殿へ案内した。社務所から百米ばかり奥まった森閑の異界が切り開かれ、そこだけに光が差しこんでいた。まわりは杉の大木が林立して昼日中も薄暗い。本殿の造りは大きくがっしり新しく、遷宮後の経年は浅いように思われた。

 日南町宮内の楽々福さんの神社縁起は長いので意訳すると、ここに祀られているのは記紀神話の「孝霊天皇」とそのファミリーで、開運招福・願望成就の福の神になっている。

 孝霊は幼名を楽楽清有彦命、号を笹福(ささふく)という。このササフクが隠岐や日野川の鬼や大蛇を退治して山陰全域を平定、この地の祖になった。その子が「桃太郎」になって吉備の国の赤鬼青鬼を征伐した。以後この地を聖地として楽々福神社が創建され日野川流域の総氏神になった、と。

 噺はおもしろいが孝霊一統の武勇伝ばかり。肝心の河童はカの字も出てこない。

 明治元年(1868)楽楽福社として県社に、同七年楽楽福神社に改称されている。

 立花書院の『日野川の伝説」にかえると、ここの川祭りには楽々福の神が各地の神社総代を招きご馳走をする。河童九千坊は日野川代表としての出席だ。

 日野川で泳ぐ子供は、楽々福神社のお守りを入れた小さな竹筒を身につけると河童に尻をとられないという。

 楽々福さんのご神紋をいただきここを下り更に川すじを五百米ばかり。右折して小道の

奥にある細媛命(孝霊夫人に比定され、安産の神さまになっている)が眠る伝承の、西の宮の楽々福神社まで足をのばした。川に向かい合う男女の神様はわるくない。東の宮が一緒に管理しており社は無人だった。

 引返し、さっき楪社長が大地震に遭ったという食堂に寄った。強行軍だったので遅い昼飯になってしまった。

 下りの日野川中流あたり、国道から右へ枝道の入りこんだ田んぼの中に小さな森と大きなお宮さんが見えた。溝口町の楽々福神社である。

 この流域には楽々福さんが六社あるという。

「ここに参って宮司さんの自宅を訪問しよう。古代史に詳しいから楽々福と九千坊の関係

で、いいはなしが聞けるかもしれない。」と楪さんが言った。

 突然の訪問だったが家の主はきさくに応対した。蘆立(あだち)達雄宮司である。かなりのご年配とお見受けしたがかくしゃくとして艶がある。

 蘆立さんは、日野川の砂鉄産出と山陰製鉄史の視点から、楽々福の神々とは、実は、稲作農業と砂鉄文化をもった大陸渡来のカッパ族と考察されており、後日、そのことで自説の論稿をおくっていただいた。

 論理的でおもしろい。時間のたつのも忘れて一時間ばかり話しこんだ。

 日野川の砂鉄はタマハガネ又は和鋼として知られており、鍛造を業とする人や金属材料・採鉱冶金学を学んだ者は大方そのすばらしさを承知している。その砂鉄を狙って、昔々鬼や大蛇が現れ人里を苦しめるのだ。その窮状を見かね、謎の「大王と皇子」が鬼蛇をやっつけ平和がよみがえる。説話だから虚実混捏はあたり前にしても、神社縁起や鬼蛇征伐には天皇崇拝の濃い味つけと正邪善悪アベコベが多い。

 出雲路が暮れなずむころ、尼子氏ゆかりの城址を見上げ安来温泉街へ向かっていた。

私は車中で八代の九千坊河童の一統はなぜここへやって来、なぜここに定着したのかをあらためて考えてみた。 

九千坊の一統は先進文化を広めようと幾組にも別れ日本列島を東北へ向かったのだが、そのひと組は対馬海流の日本海ルートをたどった。その中途、石見の国の高津川や江川(ごうかわ)や出雲の神戸川にたち寄り、伯耆へ入って海中に噴出する米子の皆生(かいけ)温泉と三保湾に注ぐ日野川の河口に到達した。

 そのとき彼らはそこに日奈久温泉と球磨川を重ねたにちがいない、と私は思った。

 それだけではない。河童九千坊の慧眼は浅瀬や砂浜に黒光りの帯を見たのだ。

 江南で体得した精銅・製鉄の知識と経験、そして砂鉄の取引きで川内川や菊池川を行き来した不知火・有明の河口域の光景、川筋の風景から鉄の存在を直感したのだった。

 ベンガル伝来の砂鉄文化

 日本史の画期は稲と鉄である。稲の伝播・伝来によって人は水環境のよいところに定着して共同社会を営み農業生産を始めた。その稲作生産を飛躍的に発展させた道具が鉄製農機具であった。

 八代の「オレオレデライタ」伝説によると河童九千坊の一統が古代中国(呉の国)から新しい文物を携え渡来した。九千坊は新しい農業(稲作技術)と新しい金属(製鉄技術)を日本に伝えたのだった。

 どうせ河童のはなしと本気にしない人もいる。しかし稲作のみならず製鉄の日本への伝播も、江南の海人族・河童族がもたらした黒潮文化である。青銅器もそうで、中国の銅の主産地は江南域の雲南・広西チュアン・湖南である。

 日本のアカデミズムには、文献史学の立場から鉄文化は古代朝鮮からときめつける傾向があるという。これは赤鉄鉱・褐鉄鉱から銑鉄→鍛鉄へ、多段階製鉄法のはじまった古墳後期から飛鳥以降を製鉄の始まりとする狭い考えで、砂鉄文化を知らないか無視していると異議を唱える人もいる。

 日本古来の砂鉄文化は文献に見えにくい。経験と口伝による門外不出のシャマーニズム的秘伝として継承されたからだろう。

 製鉄の世界史は古いのだ。メソポタミヤが五千年、ギリシャ四千年、インド三千年、中国は二千五百年といわれる。

 砂鉄文化で日本とゆかりの深い国は「鉄の国・ハガネの国」のインドである。砂鉄から鋼をつくった大先輩がベンガル地方にいたのだ。世界で磁鉄鉱系の砂鉄から直接ハガネをとるのはインドと日本だけといわれる。

 原始的な製鉄は、地面に穴を掘り(露天炉)そこに砂鉄をいれ木炭を重ねて燃やすのだが、送風は自然の風任せ。「野ダタラ」という。しかし鉄は銅や金など非鉄金属に比べ溶融温度が1・5倍も高いので、野ダタラ製鉄は気まぐれ。雨が降れば火も消える。

 インドでは初歩的な溶融炉として粘土性のつぼが用いられるようになり、送風機としての踏みタタラ(ふいご)も考案されて製鉄技術は進歩する。日本では古代製鉄の職能集団をタタラ族ともいうが、タタラの語源はサンスクリット語(古代インドの文語)のタータラ(熱)といわれる。

 ベンガルのハガネや刀のつくり方は、紀元前後、民族の移動や東西交易によって、東方へは当時印度領だったカンボジアへ広がり、東南アジアからは漂海民(河童族)によって言葉と一緒に日本へ伝わった。日本の砂鉄の本場⟨鳥取と島根⟩ではハガネのことを「ケラ」とも言うが、語源は印度ヒンズー語「サケラ」の変化したもの、日本語の刀もヒンズー語の切る意味の「カートナ」から、ビルマ語の「カタナ」も同系といわれる。

 以上から日本の製鉄法と製鋼の源流はどうやら印度のベンガル辺りか。

 中国では「鉄」の文字は紀元前5世紀の春秋時代に現れるようだ。河童族の呉の国と関係するので書いておくが、伝説によると呉の国の男女が共同してフイゴを使い、はじめて名刀をつくったので、戦国時代、呉越を中心に製鉄業が盛り上がったという。

呉と越は「銅と塩の国」だから青銅器文明のルーツでもある。江南では合金・鋳造が発達、鉄との合金(ステンレス)にも生かされていく。製鉄も本場、大治鉄山をはじめたくさんの鉄鉱山があった。何でも呉の国渡来(オレオレデライタ)に結びつけるようだがウソにはならないだろう。

 ただここでは前述したように、砂鉄からの直接法と異なり鉄鉱石からまず銑鉄(不純物の混じった粗鉄)をとり出し順次錬鉄に仕上げる多段階法。だから砂鉄のハガネよりナマ

クラ?が多かったといわれる。かって青龍刀にたいする蔑視も、たぶん素材と製法のちがいからと思われる。日本の近代製鋼も山陰のマサ小鉄(こがね)には劣るという。

 古代山陽の吉備地方も鉄の国であった。ここの鉄はアコメ小鉄として知られており、そのためここも「桃太郎」に狙われ国ごと奪われる。山陽の鉄は山陰の磁鉄鉱(マサ小鉄、楽々福神社の蘆立宮司はマサに「真鉄」を当てておられる)とちがい、主に赤鉄鉱(赭石といわれる酸化第2鉄)から銑鉄をとるので中国・朝鮮方式になるだろうか。鋼性に劣り主に農機具とナベ・カマがつくられた。

 このように河童族のもう一組は瀬戸内を東上しながら吉備の国へ住みついた。九千坊は福山の芦田川や総社の高梁川、岡山の旭川や津山の吉井川の流域でベンガラ色の赫い山肌に気づいて、ここでも新しい稲作農業と銑鉄の技術を伝えたのだ。

 いづれにしても、日本への鉄と鋼の伝播には、インド洋から南シナ海経由にせよチベット・ヒマラヤ経由にせよ、呉越の河童族の協力が前提になったことは容易に想像できることである。

 安来の泥鰌(どじょう)すくい

 蘆立さんの論考は長文なので整理すると、楽々福さんの祭神は鉄の神であり河の神である。鉄の神が河の神に推移していく必然が鉄の神の推移過程で、当然たどる道である。

鉄産業は、(1)浜砂鉄(2)川砂鉄(3)山砂鉄と鉄原料を求める立場から(1)~(3)の時代区分ができる。(3)は山の砂を掘り出し水流(比重差利用)による選別時である。その施設を鉄穴(カンナ)といい、カンナ流しという。     

 カンナ流しで河川は濁流となる。「ヤマタの大蛇(オロチ)」はそれを形容しており後世は明らかに公害の対象になる。そのため楽々福神社では春祭と秋祭を境にして農業期と鉄穴期に大別、神の名でその季節間産業主体の役割を演じることになった。つまり「河止め」と「河明け」である。

 楽々福さんと河童の話はこの期のはなし。川を支配する神の力の物語りである。楽々福神社の祭神・孝霊天皇の伝承は大陸渡来の製鉄集団を神格化したもの、記紀の普及に及んであらわれる。

 補足すると、ササフクの「さ」は「微細・砂・鉄」の意味があり、「ふく」は「吹く」である。だから「ササフク」とはきめ細かな砂鉄によるタタラ製鉄のことをいう。ヤマタのオロチ退治の英雄・素佐鳴命の「スサ」は「素鉄」であり砂鉄を擬神化したもの。安来節の泥鰌すくいの元々の姿は土壌すくい。砂鉄をとる労働のことを指すという。

 金気を嫌う河童のはなし

 さて日野川に着いた九千坊は、砂浜に黒光りする小さな金属粒を見逃さず、この川の上流に宝の山を直感した。伯耆・出雲・石見の山陰地方は磁鉄鉱と銀鉱石の宝庫であった。

 楽々福神社の蘆立宮司は、鉄産業は(1)浜砂鉄(2)川砂鉄(3)山砂鉄に鉄原料を求める立場から(1)~(3)の時代区分ができるとされたが、楽々福神社の在地点からもそれを裏づけている。

 日野川の砂鉄はタマハガネといわれるマサ小鉄のもとで、磁性の強い磁鉄(マグネタイト)から還元される。磁鉄鉱は黒色金属や亜金属の光沢を発するので、九千坊が日野川河口でみた光景は浜砂鉄の発する金属光だったのだ。河口に浜砂鉄の存在は、この川筋がまだ手つかずで、しかも上流の山間部には無尽蔵の磁鉱石が眠っていることを予感させた。亜金属の光沢はクロームの彩色でもあった。

 鎌倉以来の伝統を誇る八代の刀匠・盛高経猛さんによると、球磨川には砂鉄がないので菊池川か川内川から購入してきた。「鋼質で日野川の砂鉄には太刀打ちできない。歩留りは九州が30%、伯耆は60%と格段のちがい」と、日野川に軍配をあげた。

日野川砂鉄の積出港として栄えた島根県安来市には和鋼博物館があり、日本の砂鉄文化を再現している。展示室の天秤ふいごや鈩製鉄(タタラ)用具は国の重要民俗文化財である。日立金属もここで操業し鋼製品をつくっている。

 前出・銑鉄文化の朝鮮渡来に係り、鉄が日本の文献に顔を出すのは奈良時代の風土記あたりからか。平安時代に入ると農村から鉄製品の収奪が激化する。貢物の「庸」としてクワ(鍬)を納入したのは、伯耆(鳥取)美作・備中(岡山)備後(広島)筑前(福岡)の五か国(十世紀の延喜式)にすぎなかったようだ。

 日本では鉄資源が乏しく明治の殖産で八幡に製鉄所ができると外国から鉄鉱石を輸入するようになる。しかしそれまでは、とにもかくにも、山陰・山陽だのみ。明治初期(1874年)の記録に、砂鉄製鉄所416・製鉄は年間五千㌧。産地は両域に集中していたとある。

 日野川に移り棲んだ九千坊の、この地の暮らしは長いあいだ半農半鉱だった。砂鉄収集は農閑期に共同で行い、主に農耕器具、狩猟・漁撈用具、建築用刃物に用いた。蘆立説のとおり、秋の彼岸から来春の彼岸までが砂鉄とりと炭焼き(製鉄用の燃料、砂鉄1に木炭1が推定必要)の季節と決まっていた。

 九千坊は農作業の合間に苧(カラムシ)も採集した。麻の一種で、皮の繊維で布を織り縄をなった。しかし古代国家の成立する古墳時代以降、鉄器の需要が急増し砂鉄産地は鉄ラッシュに沸いて、各地から砂鉄すくい(土壌すくい)が流入するようになり、後では専業化へと進んで鉄穴師(カンナシ)が形成されていく。

 平和な時代もつかの間、稲作地帯と鉱山の支配と収奪権をめぐり、やがて豪族間、小国間の覇権争いが始まる。そのとき鉄は農機具から殺りくの凶器に姿を変えていく。

 河口の浜砂鉄がとり尽くされると川砂鉄のある中流域に移動する。中流域を取りつくすと源流域の山砂鉄へ向かっていく。出雲鉄の鉱脈は日野川上流西岸の山麓にあり、そこは砂鉄採集都市に変貌した。最盛期、日野郡に数百か所、年間三百万貫(11250トン)の砂鉄を採集したという。

 明治のころ日南町には旅館五軒、置屋三軒の記録がある。この流域にステンレス合金やメッキ用途等のクロームも発見されたので鉱山ブームに輪をかけたと思われる。 

  蘆立さんにもあるが、砂鉄を採集する施設(場所)を鉄穴(カンナ)といい、これを洗い流して精選するのが鉄穴流(カンナナガシ)である。山上のため池から放流した激流で鉄含有の山泥を洗い流し、水路に比重の重い砂鉄を沈殿させて採集する。この鉄穴流で下流域に甚大な泥流と鉱害が発生、上流の鉱山師と流域農民の対立が深まった。

 タタラ製鉄に造詣の深い国土交通省日野川工事事務所の高平昌一副所長は、「たたらの操業に不可欠な鉄穴流は、洪水の度に多量の土砂を下流に押し流し、カッパや大ハンザケが棲んだり、悲恋の美女が身を投じたと伝えられる多くの淵は見るも無残な姿を曝す破目になった」と述懐している。

 金気を嫌うかっぱ伝説が全国に分布している。伝承地あたりか上流域には鉄や銅の採掘と精練の跡があるはずだ。河童は公害と職業病に苦しむ農民であった。クローム鉱山の労働者は六価クロームの病毒に冒されたのではなかろうか。

 山陰地方は製鉄燃料の木炭資源にも恵まれた。重量が軽く火熱がやわらかいので大鍛冶や小鍛冶の錬鉄製造に向いていた。鉄の大量生産が求められ木炭の需要も増加する。年間一万貫(37・5トン)つくった粘土で固めた炭焼きガマの跡もある。

余録ー日野川の松本清張と井上靖

 鳥取県日野郡の町村は日野川に張りつく山峡の里である。

 そのひとつ、楽々福神社へ向かう道筋に「矢戸」という集落があった。日南町の中心になるのか、公共施設を散見し個人住宅も多い。

「あれだよ」と楪さんが指さす道左の一段高い広場に記念碑がみえた。

 松本清張の文学碑だった。

「楽々福神社を先行し、ここは帰りにゆっくりと。」

 日南町矢戸(旧矢戸村)は松本清張の父峰太郎の故郷である。

 『半生の記』(河出書房新社1966初版、清張没後の92増補版)に「父の故郷」が最初にみえる。「峰太郎の思い出話の中には必ず日野川の名が出てくる」と記している。

 清張は一九六一年、山陰へ講演旅行をした機会に米子から朝早く車でここに来た。そのとき親戚に請われ「父は他国に出て一生故郷に帰ることはなかった。私は父の眼になってこの村を見て帰りたい」と書いている。

 二年後、連載『回想的自叙伝』を書き始めるが、そこに《父系の指》があり、後で『半生の記』に改題されている。

 清張文学碑は一九八四年建立。碑には「幼き日夜ふと父の手枕で聞きしその郷里矢戸いまわが目の前に在り」と刻まれていた。

 矢戸の文学碑にたたずみ、私はなぜか不図《砂の器》が思い浮かんだ。物語りも舞台も人物も違うけど、砂の器と清張父子は何かがどこかで重なり合っているように感じた。

「清張の父方の係累(田中家)のなかで、清張が心を許しあった親友が健在だから訪ねてみよう。」と楪さんが言った。その人、久城英雄さんを知っているからと。折よくご本人在宅、喜んで応接間に通していただいた。

 久城さんの奥さんが清張と縁つづきの旧姓田中さん。当の英雄さんはアメリカで少年時代をすごし、社会人は満鉄勤務など外国での長い暮らしからか、洗練された知識人の風貌があった。アメリカ時代、二階堂進(後年の副総理)との交友もあったようだ。

 久城さんは清張との故旧を懐かしみ、たくさんの写真や手紙を出していただいた。はなしが弾み小一時間経っていた。

 楪社長の人脈と人徳、友愛と積極性のお陰で幾重にもついていた。

《楼蘭》など西域もので大好きな井上靖ゆかりの場所もある。

 私が最初に楽々福神社へ行くため下車しようと思い立った駅がゆかりのJR上石見である。敗戦直前の一九四五年六月、靖は家族をここ福栄に疎開させている。

 新聞記者のころだ。

 一九四九(昭24)年発表の《通夜の客》(別冊文藝春秋)にこの駅が描かれている。

「夕方の急行で東京を発ち、その翌日の昼、岡山で伯備線に乗換え、あのいかにも高原の駅らしい上石見の小さくて清潔なプラットフォームへ降り立った時はもう暮方でした。」

 文学碑に「ここ中国山脈の稜線天体の植民地風雨順時五殻豊饒夜毎の星闌干たり四季を問わず凛々たる秀気渡る ああここ中国山脈の稜線天体の植民地」(一九七八年建立)と刻んでいることを知った。残念ながらここには寄らなかった。

 ちなみに井上靖は川の一途さを愛したロマン派である。しかしダム問題に早くから警鐘を鳴らした河童族であることは余り知られていない。

 靖は四十六年まえの短編《川の話》にダム工事への怒りを噴流させている。

 私たちは先輩たちが発した危険信号をないがしろにしてはならないと思う。

 川辺川ダムの是非をめぐって大論争のさなか、この作品は一読の価値がある。

 この日、日野川流域の散策はたっぷり九時間、走行距離は200㎞に及んだ。

 楪さんに心から感謝したい。

 以上、球磨川の河童九千坊が鳥取県の日野川に移り棲み、その流域の代表になったあちらの河童伝説についてその背景を探ってみた。ただ私の論述は河童流なので、真偽の判断とつじつま合わせは各位お好きなように。

 

参考資料(年代順)                          安田徳太郎『人間の歴史6』光文社1957

井上靖『川の話、あすなろ物語』旺文社文庫1966

盛高靖博『夜豆志呂17・18合併号、日本古代の鉄と刀工』八代史談会1971

盛高靖博『夜豆志呂58号、古代日本の鉄をたずねてータタラ研究会熊本大会講演』八代史談会1980

楪範之編『日野川の伝説』立花書店1995

寺戸良信『漫画日野川の河童』立花書店1998

高平昌一『日野川今昔写真集、日野川の文化はたたら文化』立花書店1999

八代史談会誌「夜豆志呂」138号2002、2刊

2001河川文化発見フォーラム 球磨川代表としての発言

田辺達也

✺河童渡来伝説と河童共和国

 

(1)私は球磨川のガラッパです。河童共和国というミニ独立国の閣僚・官房長官でございます。今日は球磨川水系と不知火海域の代表として河童の目線から発言いたします。

 わが国の大統領は、カッパ研究と水文化の振興で信友社賞をいただいた日奈久のガラッパ・ドクターこと福田瑞男さんです。東京・岡山・沖縄・熊本に大使館があります。東京大使は天保水滸伝でおなじみの浪曲界の中堅・玉川福太郎さん。熊本大使はモダンダンスの第一人者でシャロック・ホームズの著名な研究家・吉田武さん。鎌倉にいる劇作家の井上ひさしさんは、河童共和国の憲法にゾッコン惚れこんで、イの一番に国民になっております。

(2)最初にガラッパの跳梁バッコのあらましを、品の良い言葉なら河童の活動報告をいたします。

 河童共和国という水と河童の文化団体が八代にできてから14年目になります。人間世界からは屁のカッパと安がわれております。しかし私たちは「しゃれと本音、まじめな遊び心」を発揮しており、憲法と建国宣言にも「切り口のやさしい水環境擁護の運動、八代の河童伝説・オレオレデライタ物語りによる新たな街おこしの仕掛け、そして河童愛好家や水研究家との友好親善を図る」ことを目的に活動すると明記しおります。

 河童が出没して物申すことは、擬人法・間接法といってワンクッションおくソフトなやり方です。問題のすり替えとか、遊び半分では訴える力が弱く問題解決に時間もかかると批判されることがあります。しかし心にじわじわ染みるおだやかな手法には知恵が必要です。今の時代こそ河童の知恵と流れる水の自在性が必要です。

(3)河童共和国の名前はすでに十三年まえ日本で最初の河童サミットを自力で主催し、世界の125ケ国に案内状を送ったのでにわかに注目されました。つづいて九州河童サミットも主催した力量が評価されました。

 この国には国立かっぱ大学があり、市民大学風の公開講座を開いており、聴講生はすでに二千人を超えました。この大学で学んだ学生には学位・自称河童学博士を授与しています。自称というところが河童ならではのパロディです。六年前には八代弁で歌う本格オペラ『かっぱの河太郎』を制作。この作品はオペラの本場イタリアで対訳つき上演、好評を博しました。

 河童共和国とか王国の河童団体は全国に百グループ、そのうち九州には35グループあります。毎年、広域的なイベント・九州河童サミットを開き交流しています。今年は今月の末、宮崎県高鍋町で開催されます。九州は河童王国です。

(4)球磨川ガラッパの先祖はいったいどこから来たのか? ということですが、

 八代の伝説「オレオレデライタ物語り」によりますと、二千年ばかりまえ古代中国の呉の国から新しい文化を携え海の道からやって来た人々だった、と伝えられております。

 呉の国と九千坊からして、八代に渡来したのは万に近い多くの人々だった。そして渡来人の統領は徳の高い知識人だったことが伺えます。三国志のハイライト「赤壁の戦い」で魏の大軍を火攻めにして破った呉の水軍は、実は海と川に生きる河童族だったと思われます。                 

 河童族が八代に渡来したとき、呉服とか胡瓜(きゅうり)とか焼売(しゅうまい)など、あちらの珍しいものを沢山もってきました。焼売の形は河童のギザギザ頭がヒントになっており、八代が日本における焼売のルーツという訳です。私たちはこのお盆休み、久しぶりあっちへ里帰りして、南シナ海や珠江流域の同胞・蛋民のみなさんと再会して泳ぎを楽しんできました。

(5)最近の珍事は、JR八代駅のホームに本物の河童が出没して「がらっぱ弁当」を売り始めたので、乗客はウッタマがるやら喜ぶやら。テレビ局も新聞社も事件発生とばかりの大騒ぎしました。誘拐とか殺人とか、外務省幹部のネコババとか裁判官の買春、警察署と暴力団の癒着などいやな事件が多いなかで、八代駅に河童の出没は、同じ人騒がせでもこっちは夢があり何となくほっとするニュースです。

 八代では近年中学校が文化祭に河童をとり上げており、河童共和国に協力依頼がございます。この協力は小学校へ広がって、先日は松高小学校でガラッパの民話を30分しました。相手が三年生の子供さんですから少し工夫しなければと先生方と相談し、河童のお面と背中に甲羅、全身緑のコスチューム、ヤッチロベンで授業しましたところ大変喜ばれ、後でみんなが感想文を書いてくれました。

 感想文には、川にゴミを捨てない決意もさることながら、私の話を聞いて、ガラッパが本当にいるような気になってきたとか、将来河童の研究をしたいなどになってくると、もうこっちが嬉し涙です。最初の発言はこれで終わります。

 

✺河川文化は水系・流域の文化

 

(1)ここでは「河川文化」について球磨川ガラッパの考えをのべてみます。

 ごくあたり前のはなしですが、川は、源流域から中流域へ、下流の河口域・海域に流れる、水系と流域の営みです。球磨川水系は、九州山脈に源を発する人吉・球磨地方と不知火海に面した八代地方を一くくりにした、水の環境域・水の文化圏のなかにあります。

 ですから、川の文化とは、河川水系流域の自然と人の暮らしの総和であり、流域相互の行き来の歴史をいうものと思います。

 球磨川水系の文化を考えるとき私はいつも鎌倉前期の歌人・藤原家隆の歌を思い出します。

 夏来れば流るる麻の木綿葉(ゆうは)川 誰れ水上にみそぎしつらん

 木綿葉川は球磨川の古い名前です。家隆は下流域の川べりでコウゾやカラムシの繊維を偶然みつけ、その糸くずから、川上に人の暮らしやミソギの風習に思いを馳せたとおもいます。万葉にも通じた鎌倉歌人の優雅さが、この川の名前に美しく実を結んでいるように思います。

(2)河川文化を言うのならルーツを探る必要があります。

 ガラッパが山と里を行き来する民話から、日本人の心象風景が見え始め、そして水の文化・稲作文化を学ぶことができるはずです。

 私たちの祖先は、山奥の異界に荒ぶる神々が潜み祖先の霊魂が宿ると信じてきました。その山の神・水のアニマは、毎年春先になると里に下りて水田に宿るのです。祖先の体験から、形象化された水の精の代表が『河童』であるわけです。

 その河童ですが、田植え前になると森の栄養分と水の恵みをタップリお土産に、カッパ道といわれる不思議な川筋を「ヒョウヒョウ」トラツグミのような鳴き声を発しながら里へ下って、川の神いわゆるカワンタロウに変身、田んぼの水まわりを確かめ稲作農業を手伝いました。干潟の栄養分を調べ海水の具合も見守りました。

 そして秋の深まるころ、黄金色の瑞穂の実りを見届けると、川筋を再び山へのぼってヤマワロになり、山の里で炭を焼き森の枝をうち焼き畑農業を手伝うのです。河童の鳴き声を聞いた古老が八代にも居られ、私も録音された河童の鳴き声を聞かせてもらったことがあります。

 この物語りは全国に分布しており、これは熊本が生んだ民俗学の泰斗、丸山学先生の『河童の山川往来説』としてまとめられております。

 河童が山と里を往来する説話は、稲作の源流とコメが伝わり広がった道筋、いわゆる東南アジア、中国の雲南・江南から日本へ北東に伸びる昭葉樹林帯の農耕文化圏が共有する民話です。

 (3)そして私たちは山麓の森林と海干潟の関係を何時のころからか『山は海の恋人』と呼ぶようになりました。実にロマンチック、しかも科学的なたとえでして、うっとりする響きをもっております。山の神と海の神の恋のプロムナードが川の道です。山海の幸の運び屋、山海の仲をとり持つキュウピッドの役が川の神・河童であったということです。

 水の惑星・地球の面目躍如といいましょうか。このように河童の躍動を通して日本人の暮らしと考えが見えてまいります。そして日本人の心と風土を研究するうえで、水の化身・河童の存在がいま世界の注目を浴びております。

 そのことを最も端的に象徴するできごとが、つい先日福岡で開かれた水泳の世界選手権大会で起きております。この大会のマスコットが河童でして、報道の中で河童のアニメが選手たちと一体になり泳ぎ踊っていました。

 Kappa, who ?「河童とは何(誰)ぞや」ですが、この世界大会の成果は、河童が最も日本的な水の精であり泳ぎの達人としてストレートに理解され、もう一人の選手になったりお友達になったりして友好親善の実をあげたこと。河童が日本人の大好きな民話の主人公であることを、日本人の水への信仰の深さを非常にわかりやすい形で紹介したことだと思います。

(4)河童を通して河川文化の原点に迫る試みは行政の文化事業としても近年あちこちにみられます。十年前には東北の遠野市が世界民俗博、八年前には埼玉県立博物館が『河童VS天狗』の特別展。今年の夏休み、佐倉市にある国立歴史民俗博物館が妖怪と河童展を大々的に開きました。特に今年の目玉は、江戸時代に描かれた河童図と文献をもとに実物大の河童を制作して注目されました。来年は県立埼玉・水の博物館が河童展を予定し準備しております。

 このように、河童ブームが起きて河童が主役になること自体、私たち河童族にとっては大変嬉しく有難いことです。しかしなぜ河童が引っ張り出されのか? なぜいま河川文化が強調されるのか? 喜んでばかりはおれない水環境の危機があります。

 河童のシグナルは次に発信したいと思います。

 

✺ダム推進と河川文化の整合性

 

(1)河童ブームが十数年つづいております。流行に飽き易く冷め易い現代の風潮からは大変珍しい現象です。

 芥川賞作家で若松の河童を自称した火野葦平は一九五〇年代にこう言っております。

「河童が跳梁バッコするのは世の中が乱れ、政治が腐敗しているからだ」とかっ破しました。河童ブームの底流には深刻な社会不安・政治不安があるということです。近年、河川環境とか河川文化が声高に叫ばれたり、川のフォーラムに河童が引っ張りだされる背景には水環境の危機・河川文化の危機があり、河童も悲鳴をあげております。

 私は球磨川と不知火海の代表として、母なる川・母なる海でいま起きているダム問題やノリ問題から目を反らすことができません。今日のスポンサーには少し苦い言葉になるかと思いますが、水の神・河童の苦言としてご寛容ねがいます。

 河童がズバリ申しますには、球磨川の流域文化を根底からぶっ壊しかねない「無目的の川辺川ダム推進」の国土交通省が今日のスポンサーであることは、何だか不似合いで漫画チックに見えてまいります。

 関係省庁の行いと21世紀の河川文化には果たして整合性が有るのか無いのか? 

 シェークスピアに言わせるなら「ザット・イズ・ザ・クエスチョン」になりましょうか。球磨川ガラッパの率直な疑問として提起しておきます。

 水環境について日本国民の目はいま九州に注がれております。

 球磨川支流の川辺川でダム建設の是非をめぐって、また諫早湾締め切り後の海洋汚染をめぐって、自然保護とは何か、利水とは何かが、私たちの目の前で真正面から鋭く問われております。有明海と不知火海域でノリの壊滅的な悲惨を目の当たりにすると、何かが大きく狂っていることに気づかれると思います。

(2)今日は五十年前と十六年まえの熊本日日新聞を持ってきました。

 戦後の河童ブームをリードした人に佐藤垢石という河童と釣りの随筆家がおります。

 昭和二十七年、熊本日日新聞社の招待で熊本に来て一か月滞在。県内をくまなく回り、そのとき人吉の黒木市長を交えた座談会でこう言っております。

「球磨川は有数の立派な川で、ここの鮎がまたよそでは見られない見事なものだ。日本の大概の川が経験していると思うが、ダムができたらそこで鮎は産卵しなくなるし、上流へ上がる数も激減するので、そうならないよう地元でしっかり努力してほしい」と。

 熊日新聞はこのとき「ダムが出来たら鮎は滅亡」の見出しをつけていることを、どうかご記憶願います。これは新聞人の見識と勇気であります。

 もう一つは、人吉市の委託を受けて二十年まえから球磨川上流域を調査した熊本大学工学部が十六年まえ、「川辺川ダム建設でアユ絶滅の危機」を発表した記事です。新聞各紙は「川辺川ダム清流を汚す」「汚濁進む多良木水域」「球磨川のアユピンチ」の見出しをつけております。人吉市長は永田さんですが、この調査に衝撃を受け「アユは観光人吉の目玉であり何としても守らねば」とコメントしております。

 かって熊大医学部が水俣病の原因物質は有機水銀であることを突き止め発表しました、しかしその事実は政府に押しつぶされ、その結果、水俣病蔓延の悲惨をまねきました。

 川の一途さを愛した水の作家、井上靖さんも、ダム工事への怒りを静かに書いております。四十六年まえ(1955年)発表した《川の話》です。ぜひご一読をおすすめします。熊本県でもこの《川の話》を印刷しダム副読本として全戸に配布されたらいかがでしょうか。

 球磨川ガラッパが言いたいのは、先輩たちの発した危険信号を無視してはならない。マスコミ各社も先輩記者の見出しを決してないがしろにしてはならないということです。

 河川文化の危機については、日本ではコメ文化の衰退で河童も滅亡しそうな、深刻な様相を呈しております。そのことについてはご指名があれば補足して発言いたします。

✺コメ文化の衰退は水文化と河童文化の滅亡

 稲のとり入れを前にして青田刈りが強制され、農家の悲鳴が聞こえてきます。

 日本人は自分の国を豊芦原・瑞穂の国と言って農業とお米を大切にしてきました。稲作農耕は日本文化・河川文化の原点のはずです。しかし今はどうでしょう。国や地方自治体が、減反を強制してコメをつくらせず、コメの値段は四半世紀も抑えられています。田畑 を荒れ放題にまかせて農業をつぶしにかかる。その一方で外国から怪しげな食べ物がじゃんじゃん輸入されております。

 主食の生産を大切にしない国、食料の自給を放棄する国は、世界では日本だけです。この逆立ちからも、「これは何だか変だぞ、これでは日本がだめになるのではないか、コメ文化の申し子・河童もいなくなるのではないか?」ということです。

 これで終わります。

二〇〇一年九月